魔霧《まのきり》
翌日、天気は快晴。
燦燦と降り注ぐ山間の陽光は、澄んだ空気も合わさって気持ちがよい。
大きく伸びをしたアグルエを筆頭に、ベルスターの出入り口に旅立ちの最終確認をする一行の姿があった。
「ここから『聖域』のある霊峰山頂までは半日くらいってところだろう」
ディムルの言葉に、すっかり疲れの取れた顔でアグルエは頷いた。
「体力は大丈夫か?」
二人の顔色をうかがいながらそう言うディムルにエリンスが返事をした。
「大丈夫、すっかり回復しました」
「いい返事だぜ。まあ、霊峰に入ると途中で断崖絶壁を上ることにもなるしな!」
そう言い出したディムルにエリンスはやや焦りを感じる。
そこまで過酷だとは聞いていなかった。
「大丈夫です!」
アグルエは気合十分といった調子で返事をする。
その返事を聞いて満足そうにしたディムルが出発したのに続いて、エリンスとアグルエもその後ろを歩きはじめた。
「ところで、昨夜は大丈夫だったか?」
エリンスは横に並ぶアグルエへと聞いた。
「……えっ? だ、大丈夫だよ」
突然の質問に驚いたのか、アグルエは顔を赤くしてこたえる。
エリンスは思ってもいなかった反応に、どうこたえればいいかわからなくなってしまった。
「ほら、イチャイチャしている暇はないぞ!」
先をゆくディムルが振り返って笑う。
アグルエはすっかり俯いてしまって、そのままディムルについていった。
「なんだよ……イチャイチャって……」
何故だか自分だけが取り残されたような気持ちになるエリンスは、慌ててディムルの背中を追った。
◇◇◇
そうして進むこと4時間ほど。
タンタラカを出発してから順調に進む三人ではあったのだが、ゆく手に暗雲が立ち込める。
山の天気は変わりやすいとよく言うが、その通り。
朝の快晴とは変わって、雲が多くなり空が暗くなって、雪が降り出した。
背の高い落葉針葉樹が並ぶ森と膝丈ほどの雪が積もる雪原。
斜面は緩やかでまだ優しいが、段々と歩きづらくなってきた。
「吹雪くと厄介だ。最悪、町に引き返すことも考える」
空を見上げたディムルが言う。
山に慣れた彼女に従うほかないだろう。
エリンスとアグルエが頷いたところで、ディムルは顔色を変えて振り返り叫んだ。
「出やがったぜ!」
アグルエが真っ先に警戒したようにして身体を構える。
そのディムルの声に合わせて、三人の前方より白く濃い霧が斜面を流れ降りてきた。
一面に広がって、押し寄せてくる白い壁。
エリンスは押し潰されるような恐怖に近いものを感じたのだが、これが魔霧だというのなら魔素に敏感なアグルエは余計にそうであろう。
「こいつは人間に迫って来る」
つまり逃げても無駄だということだ。
ディムルは手にした薙刀を地面へ突き刺して両腕を広げている。
エリンスには何を呟いているのかわからなかったが、魔法の詠唱をしているようだ。
「アグルエ、合わせて魔素の流れを作って、そちらに魔霧を乗せて抑え込む!」
ディムルに呼ばれたアグルエは頷く。
その肩の上ではツキノも警戒した様子で尻尾を立てて見守っていた。
ディムルの両腕から薄い赤い光が漏れ出して、三人を覆い包むドーム状の半透明の魔素の障壁が広がった。
迫った白い霧の壁は、ドーム状の障壁を避けるようにしてエリンスらの後方へと流れていく。
辺りを白く輝く空気が取り囲み、キラキラと雪に反射して綺麗ではあったのだが、エリンスは妙な重苦しい空気に息が詰まった。
アグルエは右手に黒い炎を浮かべて、ディムルのドーム状の障壁に合わせるようその中心部へと手を掲げる。
左手では胸元を押さえて、不安そうな表情で周囲を見渡している。
「これで霧をやり過ごす!」
魔霧はディムルの魔素の障壁に吸収され集まっているように見えた。
苦しそうな表情をするディムルの顔がエリンスからもうかがえる。
魔法のこととなると何もできないでいる自分に悔しくもなったのだが、しかしこの場でいきなり霊断の力を振るうわけにもいかないだろう。
今振るえば、ディムルの出す障壁すら打ち消してしまう。邪魔はできない。
次第に光輝く白い壁が薄くなってきたような気がした。
アグルエがディムルの出した障壁に合わせるように魔素を広げている。
エリンスは魔霧の魔素を抑え込む二人を見守って、そうして数分。
三人を包んでいた白い壁はその姿を消した。
「はぁ、はぁ」と肩で息をするディムル。
アグルエも肩を揺らして息をしている。
霊峰特有の魔素の霧。
常人が触れれば魔力異常を起こして熱を出すとも聞いた。
エリンスはそれを見て聞いて、巡廻地と呼ばれた星刻の谷で見た魔素の澱みを思い出す。
「これでひとまず、避けられたか」
息を整えたディムルが周囲を見渡しながら言う。
するとある一点を見つめたまま、動きを止めた。
そのまま何も言わず走り出したディムルに続いて、エリンスとアグルエも慌てて後を追う。
「おい! しっかりしろ!」
少し進んだ先でディムルが叫んだ声に驚いて見てみれば、二人の人間が倒れていた。
目を瞑る男性と女性、似たような軽鎧をつけた姿にそれぞれ剣と斧を携えている。
エリンスはその二人に見覚えがあった。
勇者洗礼の儀を行ったサークリア大聖堂で。
「勇者候補生だ」
エリンスが呟いた言葉に反応をしたアグルエは、慌ててディムルの横へと屈んで二人に手を翳した。
頬が赤くなり、凍傷の跡が見える。
意識もなさそうで、エリンスが触れるまでもなく、その冷たさが見て想像できるほどだ。
アグルエが両腕より黒い炎を噴き出して、倒れる二人のことを包み込む。
目を閉じて想いを込めるアグルエの姿をエリンスもただ見守った。
「ん、ん……」
少ししてアグルエが出した黒い炎を抑え込んだところで、倒れていたうちの一人、女性の候補生が瞼を揺らして目を開けた。
うつらうつらとした視線を泳がせて、アグルエとディムルの顔を見るや女性は立ち上がった。
スレンダーな体型には細いなりにも戦士の風格がある。
エリンスの記憶が正しければ、ラーデスア出身の勇者候補生の一人。
「ここは……」
辺りを見渡して自身の立場を思い出したのだろう。
ハッとしたような顔をした女性は慌てて振り返った。
「シドゥ様を、追わなければ……」
そう呟いた言葉に合わせて、もう一人の男性も意識を取り戻した。
男性にしてはやや小柄な体型、大きな斧を背負った出で立ち。
エリンスの記憶が正しければ、こちらもまたラーデスア出身の勇者候補生。
「うぅ、エノル、大丈夫ですか?」
エノルと呼んだ女性のほうを見上げながら立ち上がる。
「バンドル、いくよ」
まだ震える身体で歩き出そうとするエノルだが、しかし雪に足を取られ思うように一歩が踏み出せないようだ。
「おい、待て! 無茶だ!」
ディムルが慌てて両手を伸ばして、それぞれ二人の肩を掴んだ。
バンドルと呼ばれた男性はビクッと身体を震わせて動きを止めた。
「どうしてこんなところにいる? 山に詳しい傭兵は雇わなかったのか?」
ディムルの厳しい一言に縮こまるように身体を丸める二人。
エリンスも思ったことだ。
ディムルのような山に詳しい案内人がいれば、こうして倒れていることもなかったはずだ。
麓の酒場ではバートランも言っていた、山に入るには傭兵を雇うべきであると。
ディムルが手を放したところで、二人は再びこちらへと向きなおしたが、口は固く閉じたままだった。
先ほどエノルがシドゥの名を口にしていた。
つまり、バートランが言っていた傭兵を雇わず山へ入った同盟だろう。
セレロニアへ向かったわけではなかったのだ。
ならば――と考えて、エリンスは周囲を見渡したのだが、辺りに他の人影は見当たらない。
バンドルは再び後ろを向いて歩き出そうとした。
しかし、ふらつく足が雪に取られ膝をつく。
「無茶だと言っているだろう!」
明らかな怒りを含んだ大きな声に、今度は横にいたエノルが身体をビクッと震わせた。
「エリンス、悪い。こいつらを引き連れて町へ戻るぞ!」
空を見上げてから、エリンスのほうを向いて言うディムル。
元よりディムルの指示には従うつもりで、ついて来てもらっている。
エリンスは頷いて返事をして、一行が道を引き返そうかと思った――そのときだった。
「声がする!」
アグルエが耳にしていた耳当てを下ろして首に掛け、空を見渡すようにして大声を上げた。
エリンスが「え?」と聞き返す間に、それは姿を現した。
エリンスらが向かおうとしていた前方の落葉針葉樹が立ち並ぶ森の中より巨影が飛び立った。
翼を広げた姿は四メートルを超えているであろう。
白銀の身体に大きな翼をはためかせ、太い手足を携えて、長く伸びた尾を振るいながら飛び立つ。
その巨体は――傷ついていた。
鋭く伸びる大きな角の下、深淵を見つめるような暗き瞳がエリンスとアグルエのことを捉えながらも通り過ぎていく。
――目が合った。
噂に聞いた魔竜を目前に、一行は呆然としたまま、それが飛び去った先を見据える。
魔竜は飛び続けることができないようで、再び森の中へと消えていった。
「シドゥ様が見つけたのだわ……」
ボーッとした眼差しのままにエノルが呟いた。
「一体、どういうことなの!」
今度大声を上げたのはアグルエだった。
アグルの言葉からは珍しく感じる怒りの声。
だが、エノルもバンドルもアグルエにこたえようとはしなかった。
「……とにかく、ここにいては危険だ!」
少し考えるようにしていたディムルだったが、そう言ってから強引にエノルとバンドルの腕を引っ張った。
「町へ引き返す!」
有無を言わさず歩き出したディムルに腕を引かれてエノルとバンドルも来た道のほうへと歩き出す。
やや遅れて、魔竜の消えた森を見つめたアグルエが呟いた。
「泣いている声、ずっとしてた」
足を止めたまま、エリンスはアグルエの言葉に返事をする。
「一昨日の夜もそう言ってたよな?」
「うん、確信した。あれは、魔竜の声だったんだ……」
名残惜しそうにするアグルエだったが、ディムルの背中を追って歩き出す。
魔竜が消えた森の先を見つめて少し考えたが、エリンスも来た道を引き返すことにした。




