飛翔
「ここだよ」
「へえ、ここが。あの人が住んでたってイメージじゃないな」
「世間のイメージだとそうかもしれないね。私はそこらのお爺ちゃんみたいなイメージしかなかったから、こうじゃないとおかしいんだけどね」
俺と音越は車から降り、大通り伝いにここまでやってきた。何車線もある通りから脇道に入り、数分歩いたところで到着した。
移動の最中、依然として忍び寄る者の気配を感じたが、こちらとの距離を詰めず離れず、あくまでこの状態を保つことに徹していた。何度か音越と詰めたり撒こうとしたりしたが、相手も慣れているのか、一向に尻尾を見せなかった。
相手が追跡第一であるから、撒くか目的を知るかするのが定石ではあるが、一方で悪意のようなものを感じなかったので、そのまま無視することにした。無視するには大きい視線を浴びせてきてはいたが、悪意をぶつけることも、ましてや手を出すようなこともなかったので、意識の端々にチラつくものはあったが、構わず進んだ。
到着したところは、周りに大学もある学園街の一角だった。大学という文教施設と、都心部にしては緑も多く残っている住宅の間に、山茶花の住んでいたアパートがあった。悪とはいえ、かつてのカリスマが終の住処として選ぶには、些か肩透かしを食らうような場所だ。俺でなくとも、山茶花を知るものならば、大体がこう思うはずだろう。「ここじゃないだろ」と。
「こっちだよ」
「おう。あ、いや、ダメだ」
「わっ、と。え、何で?」
俺はそう言いながら、山茶花の自宅へ向かおうとする音越の肩を掴み、引っ張り戻した。音越が怪訝な顔をしながらこちらを見た。俺はそんな音越に理解を示しつつ、向かおうとした先を指差した。そこには「立入禁止」のテープが引いてあるのが見える。警察官も何人か立っていた。それを見て音越は、「ああ」と声を上げた。
「ああなってたらしょうがない。音越さんもさすがに入れないだろ?」
「うーん、そうだね。知り合いに言っても、中は無理だね」
警察が規制線を出すというのは、事件があれば当然のことであるが、その力は見た目以上に大きい。マスコミに対しても公開する情報を絞るのだから、俺たちのような一般人では尚更だ。まずもって情報は出てこないだろう。当然ながら、現場の確認など無理である。音越に関してはヒーローではあるが、第一発見者という状況も加味すると、些か難しい。音越もそこは分かっているようで、俺の話に素直に応じてくれた。
「うん、出直そう。それに、周りを見るのもいい調査になるし」
「周りを見ても、何か見つかるかなー」
「見方によるさ。何も見渡したり見上げるだけが探し方じゃないよ」
そう言いながら、俺は上を指差した。
音越は暫くその意味を図りかねていたようだが察したらしく、一言「あ!」と言って、指を鳴らした。
「俺も含めて運べる?」
「うん、大人何人かはいけるよ」
「じゃあ、頼む。それに……」
「それに?」
「それに、あそこからなら、もしかしたら俺らをつけている奴も、何か分かるかもしれない」
「ん、そうだね」
「よしっ! じゃあ、頼む」
「分かった。それなら、はい」
そう言って、音越は手を差し出した。白く小さな、とても綺麗な手だ。
「これは?」
「手、握って欲しいの。ドアの時みたいに触れなくても出来るけど、加減がね。脱臼や打身になる時があるから、直に触れて加減したいの」
「そうなのか」
俺は言われるまま音越の手を握った。白さとは裏腹に、とても暖かな手をしていた。俺は彼女に身を預けるよう、しっかりと握った。突然のことに「ひゃっ!」と小さく彼女は驚いたが、すぐさま握り返してくれた。
「よし。じゃあ、行くよ?」
「オーケー」
そう答えると、景色が瞬く間に変わった。団地の灰色から、雲一面が織りなす灰色の景色へ。同じグレーでも、全く違う。人工物が生み出す閉鎖的な灰色から、どこまでも続く開放的な灰色へ。身体を伝う空気が気持ちいい。
俺と音越は重力を振り切り、空を翔けていた。