移動
「ごめん、ごめん。ごめんってば」
「あー、いいよいいよ。高くないし」
「ね? 怒ってるでしょ」
「いいや、怒ってない」
「でも……」
「いいって。ほら、車が来た」
引き続き雨が降り続ける空の下で、俺は音越と喧騒とも雑談とも言えない話を続けていた。普段であれば絶対しないが、雨を避けるように、音越にあり得ない程近づき、事務所近くの雑貨屋の下で、人を避けるようにタクシーを待った。
服が肌にまとわりつく。全てがすべて、雨で濡れたわけではない。謎の人物による緊張のせいなのか、この女の子、つまり音越と出会ったからなのかーー。
音越とはついさっき出会ったばかりだ。時間にしてみるとあまりにも短い。だが、その時間は、俺の中で、何日も過ごしたのではないかと思うぐらいに濃密に感じられた。
依頼を聞いて一時間と少し。その間に謎の追跡者が居たことと、ドアが壊れたぐらい。人に追われたり、事務所の一部が壊れることなど、ない話ではない。このような稼業だ。物が壊されるとか、怪我をするとかは日常のようなものだ。仕事ということを差し引いても、依頼人に怒りたくなることもたまにある。
しかし、今のところ、音越に怒りや憤りというものは、不思議と湧かなかった。現時点で、俺と音越のどちらが目標なのか分からないからかもしれない。仮に音越が目標で、彼女に非が十割がたあったとしても、俺の機嫌が大きく変わることはないだろう。彼女の人となりについて測りかねるところはあるが、何故だか嫌いになれないと言った方がいいのかもしれない。
それでも、現在置かれている状況が、俺を常に緊張させる。
当然だ。
謎の人物の影がある。依頼人が俺以上に強かろうとも、決して油断できない。そんな意識が、肌を伝う汗という形で、俺に危険だと知らせている。
「さあ、乗ろう」
俺は彼女とタクシーに乗り込んだ。「行き先は」という運転手の声に、音越が答えた。運転手はこくりと頷き、車を走らせた。
「あのさ、探偵さんって幾つ?」
「十七だ。だから車も運転できない」
「十七! 若いと思ってたけど、私と同じだね」
「そうなのか?」
「雑誌とかでは取り上げてもらったりしてるんだけどね。現役女子高生って」
「そうなのか。あまりテレビは見ないんだ、すまない」
「たしかに若いと思ってたんだよねー。まさか同い年とは」
「意外かもしれないけど、この手の稼業は、若い人も多いんだよ。ここまで若いのは少ないと思うが」
「そうなんだ。この業界に入ったのは何か理由があったから?」
「まぁ、な。色々とあったんだよ」
「よく分からないけど、そうなんだね。うちの高校の男子と比べると、老けてみえるわけじゃないけど、何か達観してるし、やっぱりそういうのが顔に出るのかな?」
「普通だったら学生やってる年頃に働いてる訳だしな。特にこの業界、舐められるとお終いだ」
そこから俺と音越は、色々なことを話した。
彼女は学校のことを話し、俺は仕事のことを話した。
彼女は最近の楽しかったことを続けて言い、俺は最近の危なかったことで答えた。
彼女は今どきのファッションについて教えてくれ、俺は今どきの探偵事情について説明した。
時間にして十分ぐらいだが、ここ最近では、これ以上ないほど話した気がする。
「あのさ、こうやって近況みたいなのを話すのもいいけどさ。それより……」
「それより?」
「それよりさ、せっかく同い年なんだし、天澄くんって呼んでもいい?」
「ああ。って、おい!」
車が走り始めて何分か経った頃、音越が尋ねてきた。いつも探偵さんとか無味無臭な呼び方をされるので、唐突に出てきた「天澄くん」というフレーズに、思わず背中が痒くなった。
彼女は何の気なしに言ったのだと思うが、久しく呼ばれていない下の名前に、自分もいっぱしの人間なのだと認識させられる。
しかし、悪くない。同年代の異性にそう呼ばれたのもあるだろうが。
「さて、天澄くん。同級生トークはここら辺までかな?」
「ああ。ついてきてるな」
「しょーがないっ! 降りようか、もう近くだし」
「分かった」
俺たちは車を傍に停車するよう伝えた。運転手はゆっくりと車を停車し、俺たちを降ろした。俺たちはタクシーを見送った後、音越の案内で歩き出した。