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義母は私の身体を奪おうとしている――私の中に三千六百匹の蟲がいるとも知らずに

作者: 熾星
掲載日:2026/10/10



 闇サイトで呪物人形を売るようになって、三年になる。


 ある日の午後、見知らぬアカウントから依頼が入った。挨拶も名乗りもなく、最初に届いたのは妙な質問だった。


「魂移しをしたら、元の持ち主を身体から追い出すまで何日くらいかかる?」


 適当な日数を返すと、すぐに資料が送られてきた。作ってほしいのは、「命写しの人形」だという。


 氏名だけが伏せられ、生年月日、出生時刻、出生地、旧姓が並んでいた。


 画面を見たまま、彫刻刀を持つ手が止まった。


 私の情報だった。


 試しに500万円と返した。


 数分後、指定していた決済先に500万円分の入金が反映された。値切る気はないらしい。


 その日の夜。


 結婚して三年になる夫、御厨壮真が、小さな黒い守り袋を持って帰ってきた。


 自分の手で私の首に掛け、紐を念入りに結ぶ。


「千景、母さんがわざわざ作ってもらったんだ。しばらく外すなよ。風呂でも寝るときでも」


 隠しきれないほど期待に満ちた顔を見て、少しだけ知りたくなった。


 500万円払って、妻の命を買った男。


 私の身体に、誰を住まわせるつもりなのだろう。



1



「これ、絶対に外すなよ。分かった?」


 壮真は守り袋の紐を結び直し、指を首筋へ強く押しつけた。黒い布越しにも、中の木札は妙に冷たい。屍蝋特有の、甘く腐ったような臭いがわずかに漂っていた。


 嗅ぎ間違えるはずがない。


 中に封じた屍蝋と魂寄せの薬粉は、その日の夕方、私自身が調合したものだ。


「痛い。壮真、ちょっと緩めて」


 首をすくめ、目元に薄く涙を浮かべた。


 壮真は二秒ほど私を見つめ、ようやく手を緩めた。さっきまで浮かんでいた苛立ちも消え、結婚してから何度も見てきた、優しい夫の顔に戻った。


「悪かった。心配してるだけだよ。母さんが腕のいい人に作ってもらったんだって」


 私が黙っていると、守り袋を指先で軽く叩いた。


「厄除けらしい。だから、しばらく着けとけ」


 厄除け。


 ずいぶん都合のいい言い方だ。


 これは私を守るためのものではない。外から来るものに、私の身体の場所を教えるための印だった。


 その日の午後二時。


 闇サイトで使っている「黒繭」というアカウントに、個別メッセージが届いた。


 ユーザー名は意味のない英数字の羅列。ただ、アイコンだけは見覚えがある。紅白の錦鯉で、右の背びれ近くに一か所だけ鱗が欠けていた。


 二日前、壮真の会社へ書類を届けたとき、社長室の水槽で見た魚と同じだった。


 御厨家が経営する会社で、壮真は役員をしている。


 最初のメッセージは短かった。


「本人は殺したくない。身体だけ空けることはできる?」


 危うく彫刻刀で指を切るところだった。


 この界隈では、呪いも身代わりも口寄せも珍しくない。ただ、生きている人間から身体そのものを奪う「魂移し」は、さすがに依頼が少ない。


「入れる側の魂と、身体の持ち主次第。資料を送って」


 すぐに四項目が届いた。


 生年月日、出生時刻、出生地、旧姓。


 1995年2月17日、15時00分。


 夜凪県深守村。


 旧姓、篠宮。


 御厨千景。


 間違いなく私だった。


 ここまで正確な出生時刻を知っている人間は少ない。三年前、結婚前に志津江が四柱推命を見てもらうと言い出し、壮真に出生時刻を聞かれたことがある。


 あのときは、ずいぶん迷信深い家だと思っただけだった。


 500万円と返すと、入金通知はほとんど間を置かず届いた。


 先週、父が手術後のリハビリ施設へ移ることになり、20万円だけ立て替えてほしいと壮真に頼んだ。地方公務員だった父には大きな蓄えもなく、しばらく自費の負担が重なる予定だったからだ。


 壮真はコップまで投げた。


 会社に余裕がない。自分で何とかしろ、と。


 父のための20万円は出せなくても、妻を消すための500万円なら即金で払えるらしい。


「何ぼーっとしてるんだ?」


 壮真の声で現実に戻った。


 彼は私ではなく、胸元の守り袋を見ていた。妻を心配しているというより、高価な荷物が壊れていないか確かめている目だった。


「母さん、明日からうちに来るから。身体も弱ってるし、余計なこと言って疲れさせるなよ」


「まだ在宅で診てもらってるんでしょ? 急にどうしたの?」


「だからだよ。若い人間が近くにいた方が気も晴れるって言ってる」


 守り袋に触れると、指先から冷たさが伝わった。


 身体の奥で、眠っていた御蟲がわずかに動く。


 若い身体。


 健康な身体。


 今の壮真からその言葉を聞くと、意味が違って聞こえた。


 私は都会育ちではない。


 旧姓は篠宮。祖母は夜凪県の山間にある深守村で暮らしていた。冬になれば雪で道が閉ざされるような、小さな村だ。


 篠宮家には、代々「蟲封じ」と呼ばれるものが伝わっている。


 人の身体を、蟲の宿にする術だ。


 五歳で初めて百足を飲み込み、十歳の頃には蛇の血を口にした。祖母は何種類もの山草と微量の毒を使い、私の身体を少しずつ慣らしていった。


 二十年かけて出来上がった身体は、外から見れば普通の女とほとんど変わらない。


 少し肌が白く、体温が低いくらいだ。


 けれど、血管にも、内臓にも、骨の隙間にも御蟲がいる。


 全部で三千六百。


 その中心にいるのが、私が生まれたときから腹の奥に棲みついている親蟲だった。


 壮真がそこまでして、別の魂を私の中へ入れたいというのなら。


 入れてやってもいい。


 問題は、そのあと出ていけるかどうかだ。



2



 翌朝九時。


 御厨志津江が大きなキャリーケースをいくつも持ってやってきた。


 膵臓がんの末期で、すでに積極的な治療はやめている。在宅で診察を受けながら暮らしていたはずだが、その日の志津江は妙に高揚して見えた。


 結婚してから三年、この人に好かれた記憶はない。


 田舎育ちだと笑われ、父が地方公務員だったことまで馬鹿にされた。御厨家の嫁なのだから、と何度も家のしきたりを押しつけられた。


 ところが今日は、玄関へ入るなり私の手首をつかんだ。


「千景、本当に肌がきれいね。張りもあるし、シミもほとんどない」


 乾いた指が、何度も腕をなぞる。


 義母が嫁を見る目ではなかった。


 買おうとしている品物に傷がないか、念入りに確かめているようだった。


「お義母さん、お茶入れますね」


 手を抜き、台所へ向かおうとした。


「お茶はいいわ」


 志津江は持ってきた保温バッグから陶器のポットを取り出した。


「あなたに飲ませたくて持ってきたの。有名な漢方店で作ってもらったのよ。最近、少し顔色が悪いでしょう」


 蓋を開けると、当帰や桂皮、生姜に似た香りが立った。


 その奥に、ほんの少しだけ苦い臭いが混じっている。


 鎮静作用の強い薬。


 それに、深守村の古い儀式で使う魂縛り草。


 村では薬として扱わない。口にすれば眠気と脱力が強くなり、意識が外からの誘導を受けやすくなる。


 ずいぶん丁寧に準備したものだ。


「せっかくですけど、お義母さんが飲んだ方が――」


「飲めって言われたら飲めよ」


 壮真の声が低くなった。


「母さん、こんな身体でわざわざ用意したんだぞ」


 志津江は怒らなかった。


 むしろ、気味が悪いくらい優しい顔で私の隣に座った。


「私も、もう長くないでしょう?」


 私の頬をじっと見る。


「だから千景には、元気でいてほしいの」


 視線が、首から肩へゆっくり落ちていく。


「私の分まで、長く生きてね」


 言っていること自体は本心なのだろう。


 ただ、その身体を使うのが私である必要はないらしい。


「じゃあ、いただきます」


 器を持ち上げ、一気に飲み干した。


 壮真と志津江が目を合わせる。


 ほんの一瞬だったが、二人とも笑いそうになるのをこらえていた。


 薬が胃に落ちる。


 腹の奥で、長く眠っていた親蟲がゆっくり身じろぎした。


 血の中へ溶けた成分を察知した御蟲が動き始め、身体を鈍らせるはずだった薬を次々に食っていく。


 最近は人形作りで夜更かしが続いていた。


 むしろ、飲む前より頭が冴えた。


「どう?」


 志津江が顔を寄せてきた。


「美味しいです。身体が温かくなりました」


「そう。よかった」


 指が頬へ触れる。


「若いって、本当にいいわね」


 爪先が、惜しむように肌をなぞった。


「これからは、その身体が……」


 志津江が言葉を切る。


「あなたが、御厨家の福になるのよ」


 吐き気がした。


 薬のせいではない。


 洗面所へ入り、鍵を掛ける。


 喉元を指で軽く押すと、小さな黒い甲虫が口から這い出してきた。爪ほどの大きさの身体を震わせ、手の甲で羽を開いた。


「志津江を見てて」


 甲虫は一度触角を揺らし、扉の下から外へ消えた。


 そんなにこの身体が欲しいなら、好きにすればいい。


 客を招く前に、出口だけ閉めておけばいい。



3



 三日目の夕方、壮真が一人の男を連れてきた。


 五十代半ば。黒い作務衣に古びた数珠。榊原玄道と名乗り、金持ち相手に厄落としや口寄せをしている拝み屋だった。ネット上には、どこかの会社経営者や資産家らしい人間が書いた推薦まで残っている。


「千景、こちら榊原先生。母さんのことで来てもらったんだ。お茶頼む」


 茶を持って戻ると、榊原はソファの中央に座っていた。


 半分目を閉じ、数珠を手に、いかにも何か見えているような顔をしている。


「御厨さん、この家は少し気が乱れてますね。特に奥さんの方が――」


 そこで言葉が止まった。


 私と目が合う。


 数珠が手から落ちた。


 榊原は跳ねるように立ち上がり、顔から血の気を失った。


「む……蟲……」


「え?」


 壮真は聞き取れなかったらしい。


「榊原先生、どうしました?」


 榊原は答えず、私の右手首を凝視していた。


 袖口から、細い赤い線がのぞいている。


 知らない人間なら、何かの跡だと思うだろう。


 蟲封じを知っている者なら、見間違えない。


 親蟲と宿主を結ぶ印だ。


 榊原は三年前、深守村へ来たことがある。


 民俗研究だと名乗り、篠宮家に残る古い記録を盗もうとした。村の老人から御蟲まで買おうとして祖母に見つかり、片脚を折られたうえで村の外まで追い出された男だ。


 そのとき、私は祖母の後ろにいた。


 掌には金色の御蟲を一匹乗せていた。


 榊原が私を忘れているはずがない。


「しの――」


 茶碗を置いた。


 底でテーブルを三度叩く。


 深守村では、それだけで意味が通じる。


 黙れ。従え。死にたくなければ。


「榊原先生、お茶どうぞ」


 笑って茶を差し出した。


 榊原の額から汗が流れた。


 両手で茶碗を受け取る。熱い茶が指に掛かったのに、声も上げなかった。


「み、御厨さん」


 壮真を見る。


「奥さんは……思っていたよりずっと強い。予定どおりのやり方では難しいかもしれません」


「金なら出します」


 壮真の顔が明るくなった。


「必要なら追加も払う。いつできます?」


 榊原の視線がこちらへ飛ぶ。


 黙って茶を飲んだ。


「……今夜やりましょう」


「今夜?」


「準備はしてあります」


 壮真は目に見えて浮き足立った。


「千景、夜は榊原先生が祈祷するから、部屋にいて。何か音がしても出てくるなよ」


「分かった」


 立ち上がり、部屋へ向かう。


 振り返ると、榊原はソファへ沈み込んでいた。


「榊原先生、本当に大丈夫ですか?」


 壮真が水を渡している。


「顔色、かなり悪いですよ」


 榊原は力なく笑った。


 無理もない。


 殺すつもりで呼ばれた女の方が、依頼人たちよりはるかに危険だと気づいてしまったのだから。



4



 深夜、寝室の扉が静かに開いた。


 目を閉じ、一定の呼吸を続けていた。


 榊原が壮真へ渡した眠り香は、ちゃんと焚かれている。ただし、室内へ広がった薬効の大半は、先に放っておいた御蟲に食わせてあった。


 壮真がベッド脇へ座る。


 手には小さな磁器の瓶。


 栓が抜かれると、甘く腐ったような臭いが広がった。


 屍蝋を溶かした油だった。


 志津江の髪と爪も混ざっている。


 榊原が彼らへ教えた方法では、これを額や胸へ塗り、弱らせた意識を身体の奥へ封じる。そこへ外から魂を呼び込むつもりらしい。


「千景、悪く思うなよ」


 壮真の声は低かった。


「俺と結婚して、お前だって別に幸せじゃなかっただろ」


 少し間を置く。


「母さんがこの身体で生きるなら、お前の身体だって無駄にはならない」


 笑いそうになった。


 そこまで素晴らしい話なら、自分の身体を渡せばいい。


 冷たい油が額へ落ちる。


 壮真の指は震えていた。


 罪悪感ではない。


 期待だ。


 あと数時間で、死にかけた母親が健康な三十歳の身体へ移る。


 そのうえ、志津江の金まで守れる。


 志津江がそのまま死んでも、彼女名義の資産がすべて壮真へ渡るわけではない。


 だから、生きているうちに一度「御厨千景」へ移す。


 志津江はすでに、自分側の株式譲渡や贈与関係の書類へ署名を済ませていた。


 ただし、受け取る側の手続きはまだ残っている。


 彼らの計画では、魂移しが終わったあと、「御厨千景」の身体に入った志津江自身が、私の名前で受領の署名をする。


 さらに、資産管理を壮真へ任せる委任も結ぶ。


 法律上は御厨千景のまま、中身だけを志津江にすり替える。


 彼らは本気で、それがうまくいくと思っていた。


 額の奥がちくりと痛んだ。


 御蟲が、屍蝋油に混じったものを食っている。


 壮真には見えない。


 皮膚から油が消えたように見えただけだ。


「入った……」


 息を呑む声がした。


 壮真が部屋を出ていく。


「母さん、吸った。ちゃんと入ったよ」


 廊下の向こうから志津江の笑い声が聞こえた。


 しばらくして、志津江が一人で入ってきた。


 私には目もくれず、机の前へ座る。


 バッグから分厚い書類を出した。


 昼間、甲虫を使って中身は確認済みだった。


 株式の譲渡書類。


 不動産の贈与関係書類。


 投資口座の名義変更に必要な書類。


 志津江側の署名欄は、ほとんど埋まっている。


 受け取る側は御厨千景。


 別に、壮真を資産管理の受任者にする書類まで用意されていた。


「やっと捨てられる」


 志津江は痩せた自分の腕を見た。


「この身体とも、もうお別れね」


 ペンを置き、私の顔を見る。


「明日からは、あの顔も身体も私のもの」


 書類をファイルへ戻し、ベッド脇の棚へしまった。


 魂移しが終わったあとに、私の手で続きを書かせるつもりなのだろう。


 その点だけは、私にも都合がよかった。



5



 儀式前の夕食は、不自然なくらい豪華だった。


 壮真は普段開けないワインを出し、私の皿へ料理まで取り分けた。


「ちゃんと食べろよ。夜は少し眠くなるかもしれないから」


 志津江は向かいに座り、ほとんど料理へ手をつけなかった。


 食事をしている私を、ずっと見ている。


 まるで、移植を待つ臓器でも見るような目だった。


「どうした?」


 壮真が手元を見た。


「さっきから、少し変じゃないか」


「そう?」


「何か知ってる?」


 腕をつかまれた。


 反対の手には、まだ火のついた煙草がある。


 答える前に、赤い先端が手の甲へ押しつけられた。


 焼ける臭いがした。


 鋭い痛みが神経を走る。


 手は引かなかった。


 声も出さない。


 焦げた皮膚を見ていた。


「……痛くないのか?」


 壮真の方が戸惑っている。


「痛いよ」


 顔を上げる。


「でも、人の魂を身体から引き剥がすよりは、ましなんじゃない?」


 壮真の指が止まった。


 煙草が床へ落ちる。


 目の奥に、一瞬だけはっきり恐怖が浮かんだ。


 すぐに眉を下げ、いつもの声に戻す。


「何するの……本当に痛いんだけど」


 壮真は何度か瞬きをした。


「感覚が鈍ってないか確認しただけだ。榊原先生が、儀式前は身体の状態が大事だって」


 床の煙草を踏み消す。


「もういい。そろそろ時間だ」


 手の甲からにじんだ血を見た。


 皮膚の下で御蟲が次々に目を覚ましている。


 血の臭いが、巣全体へ届いたらしい。


 薬が効いてきたふりをして、先に寝室へ戻った。


 扉を閉めると、昼から志津江を見張らせていた甲虫を外へ出した。


 しばらくして、台所の声が耳へ戻ってくる。


「終わったら、私の今の身体はどうするの?」


 志津江だ。


「先生もずっと診てるし、末期なのは分かってる。普通に手続きすればいいよ」


「千景は?」


 少し間が空いた。


「母さんの身体に残る。榊原先生がそう言ってただろ」


「そのまま?」


「元の魂が残ってたら、あとで面倒になるかもしれない」


 壮真の声は驚くほど平静だった。


「火葬まで済めば問題ない」


「……そう」


「ここまで来たんだから、変なところで怖がるなよ」


 それ以上、志津江は何も言わなかった。


 ベッドの端に座り、煙草で焼かれた傷を見た。


 三年間、同じ家で暮らした。


 同じベッドで眠った夜も数え切れない。


 その相手が、私の身体を母親へ渡したあと、残った私を火葬する相談をしている。


 掌へ黒い甲虫が戻ってきた。


 そっと指を閉じる。


 手の傷はまだ痛んでいた。


 でも、その痛みのおかげで、御蟲は一匹残らず起きていた。



6



 地下の貯蔵室は、まるで別の部屋になっていた。


 御厨家の家は古く、地下には元々、小さなワイン庫と物置がある。壮真はいつの間にか中を片づけ、儀式のための場所に変えていたらしい。


 床には白布が敷かれ、紙には見覚えのない印が描かれている。


 鏡、榊、鈴、それから私が「黒繭」として作った呪物人形まで並んでいた。


 榊原は黒い作務衣の上に古い羽織を着て、御幣を握っている。


 私を見るなり、手の鈴を落としかけた。


 目だけ向ける。


 榊原は慌てて姿勢を正し、祝詞を唱え始めた。


「千景、ここ」


 壮真が床の二枚の敷物を指した。


 志津江と並んで横になる。


 右手首へ細い赤紐が結ばれ、反対側が志津江の腕につながれた。


 榊原が「魂結びの紐」と呼んでいたものだ。


「母さん、怖がらなくていいから」


 壮真が志津江の横へしゃがむ。


「目を閉じて。榊原先生の声だけ聞けばいい」


 榊原が細い香を焚いた。


 「魂寄せの香」と呼ばれるものだった。寺で使う線香とは違い、深守村でも古い儀式に使う草が混ぜられている。


 吸い込むたび、身体が少しずつ軽くなった。


 視界の端が揺れ、周囲の声が遠ざかる。


 今度は本物だ。


 隣で志津江の呼吸が変わった。


 薄く目を開けると、灰色がかった影が、横たわる身体からゆっくり起き上がった。


 志津江の形をしている。


 病で弱った肉体よりなお濁り、死の臭いをまとっていた。


 それでも動きは早い。


 身体を離れた途端、赤紐をたどってこちらへ近づいてくる。


「来た……」


 壮真の声が震えていた。


「母さん、そのまま。千景、力抜け。抵抗するな」


 もう意識を失っていると思っているらしい。


 実際には、頭は冴え切っていた。


 身体中に散った御蟲は、とっくに侵入者を拒む壁を作っている。


 本来なら、志津江程度の魂が触れることさえできない。


 だから、こちらから開けた。


 親蟲へ意識を落とし、身体の守りを一つずつ解く。


 志津江の魂が途中で止まった。


 入れると気づいたのだろう。


 次の瞬間、貪るような勢いで私の眉間へ飛び込んできた。


 頭蓋の内側へ氷の針を打ち込まれたような痛みが走る。


 外から別人の意識が入ってくる感覚だった。


 榊原が壮真たちへ教えた筋書きなら、ここで私の魂が押し出され、赤紐を通って志津江の古い身体へ移る。


 私は動かなかった。


 意識だけを、さらに深く沈める。


 親蟲のいる場所まで。


 そこへ届いた瞬間、開いていた道を全部閉じた。


 志津江は入った。


 そして、閉じ込められた。


 篠宮家の蟲封じには、招いたものを身体の内側へ閉じる術がある。


 ここに新しい人生など用意していない。


 あるのは、私と一緒に二十年生きてきた蟲だけだ。


「母さん?」


 壮真の声が聞こえた。


 志津江の肉体は呼吸を止めている。


 身体の主導権を志津江へ渡した。


 まぶたが開く。


 私の顔が、ゆっくり笑った。


「壮真……」


 志津江は私の手を持ち上げた。


 もう自分のものだと思っているらしい。


「若い……本当に若い手だわ」



7



 志津江は何度も手を眺め、頬や首へ触れた。


「温かい……心臓も強い」


 大きく息を吸う。


「生きてるって、こんな感じだったのね」


 壮真はその場へ膝をついた。


「母さん……成功したんだ」


 私の身体へ抱きつく。


 志津江も息子を抱き返した。


 二人とも泣いていた。


 私は意識の奥で、静かに三つ数えた。


 三、二、一。


 次の瞬間、身体が折れ曲がった。


「いやああっ!」


 私の喉から志津江の悲鳴が飛び出す。


 両手で胸を押さえ、そのまま床へ倒れ込んだ。


「痛い! 壮真、何かいる! 身体の中に何かいる!」


 御蟲が侵入者を見つけた。


 最初は数匹だったが、すぐに数える意味もなくなった。


 血管や神経の隙間を通り、見えない志津江の魂へ群がっていく。


「母さん!」


 壮真が青ざめた。


「榊原先生、これ何なんですか!」


 榊原は壁際まで下がっていた。


 逃げるわけにもいかず、震える声を出す。


「身体がまだ馴染んでないんでしょう。少し時間が――」


「時間って何よ!」


 志津江は床を転げ回り、爪を立てて腕を掻いた。


「虫がいる! 皮膚の下にいる! 噛んでるのよ!」


「掻くな!」


 壮真が腕を押さえた。


 まず見たのは母親の顔ではなく、私の皮膚だった。


「跡が残るだろ。顔も触るな!」


 志津江が動きを止めた。


「私がこんなに痛いのに?」


「まだ株も不動産も手続きが残ってるんだ。その顔、傷つけるなよ」


 志津江は息子を見つめた。


 痛みとは別のものに気づいた顔だった。


 壮真が母親を若返らせたかったのは、愛情だけではない。


 志津江の中身が何であろうと、価値のある身体と資産を壊されたくないだけだ。


「榊原先生、押さえるの手伝って!」


 壮真が叫ぶ。


「薬は?」


「今は飲ませない方が……」


「じゃあ耐えてもらうしかない」


 私の身体は椅子へ固定された。


 志津江の悲鳴が頭の中に響き続ける。


 不思議なくらい、私は冷静だった。


 二十年近く、似たような痛みを身体の内側で味わってきた。


 御蟲が育つ夜。


 毒を身体へ慣らす夜。


 新しい蟲と古い蟲が身体の中で争う夜。


 志津江は十分も持たなかった。


 若さだけが欲しかったのだろう。


 それなら、痛みも一緒に受け取ればいい。


「お義母さん」


 意識の奥から呼びかけた。


 志津江だけが反応した。


「誰……?」


「この身体、欲しかったんでしょう?」


 少し笑う。


「住み心地はどうですか?」



8



 そこでようやく、志津江にも分かったらしい。


 自分は新しい身体を手に入れたのではない。


 私の中へ閉じ込められただけだ。


 身体の主導権を引き戻す。


 親蟲が応じると、暴れていた御蟲が一斉に止まった。


 痛みが消える。


 大きく息を吐き、椅子へ身体を預けた。


「母さん?」


 壮真が慎重に近づいてくる。


「もう痛くない?」


 顔を上げた。


 志津江が息子を見るときの表情を真似る。


「大丈夫。さっきのは収まったわ」


 壮真は目に見えて安心した。


「よかった……。じゃあ明日、先生たちに来てもらえるよ。母さんが準備した書類も、千景側の署名が終われば進められる」


 やはり金のことは忘れない。


「それなら、明日やりましょう」


 翌日。


 志津江が以前から依頼していた弁護士と司法書士が家へ来た。


 私は「魂移しに成功した志津江」のふりを続けた。


 もちろん、二人にそんな事情を話す必要はない。


 法律上の私は御厨千景だ。


 自分宛ての贈与を受ける書類に、自分の名前を書くだけだった。


 株式も、不動産も、投資資産も。


 そして壮真の目の前で、資産管理に関する委任書にも署名した。


 壮真は、これで母親の金を自分が握れると思っている。


 全部終わったあと、ようやく肩の力を抜いた。


「これで安心だな、母さん」


「そうね」


 志津江の声を真似て微笑んだ。


「でも、この身体、まだ少し馴染まないみたい」


「また痛い?」


「身体が弱いのかもしれない」


 壮真が不安そうに顔を近づけた。


「何か必要?」


「血」


 表情が止まった。


「……何?」


「榊原先生」


 視線を送る。


 榊原は一瞬顔を引きつらせたが、すぐ察した。


「血のつながった者の血なら、馴染みやすいとは言います」


「あるって……」


 壮真が手首を押さえた。


 私は、志津江が息子へ物を言うときの調子をそのまま使った。


「壮真。母さんは命まで捨てたのよ。少しくらい、いいでしょう?」


 聞き覚えのある言葉だったのだろう。


 壮真は黙った。


 やがて小さなナイフを取る。


「どれくらい?」


 陶器の小鉢を指した。


「これくらい」


「多くない?」


「若いんだから大丈夫よ」


 胸を押さえ、顔をしかめてみせる。


「また痛くなってきた」


 壮真は迷った末、手首へ刃を当てた。


 赤い血がぽたり、ぽたりと器へ落ちる。


 身体の奥で志津江が叫び始めた。


「千景、やめて! 壮真の血よ!」


 無視して器を取る。


 温かい血を、息子の目の前で飲み干した。


「悪くない」


 唇を拭う。


 壮真は真っ青になっていた。


「母さん……」


 恐る恐る私を見る。


「なんか、変じゃない?」


 笑みを返す。


 まだ始まったばかりだ。



9



 その夜、壮真はほとんど眠れなかった。


 手首の傷もろくに処置せず、儀式から続く緊張で顔色を悪くしている。翌朝には立っているのもつらそうだった。


 その間も、私は志津江のふりを続けた。


 在宅で診ていた医師が呼ばれ、志津江の元の身体の死亡が確認された。


 壮真は、母親を亡くした息子らしく振る舞っていた。


 自分の隣に、本物の母親がいると信じながら。


 数日後、火葬の日が来た。


 棺が炉の向こうへ運ばれていく。


 身体の奥で、志津江が激しく暴れた。


「千景、止めて! あれは私の身体よ!」


 返事はしなかった。


 炉の扉が閉じる。


 志津江の声が変わった。


「嫌! 戻れなくなる! お願い!」


 隣にいる壮真が、そっと私の手を握った。


「もう、あの身体に苦しめられなくていいんだよ」


 彼を見る。


「そうね」


 それしか言わなかった。


 志津江の骨は御厨家へ戻った。


 肉体はなくなった。


 逃げ込める場所も、もうない。


 その頃には、贈与や株式譲渡に必要な書類の提出も進んでいた。


 すべてが一日で変わるわけではない。


 それでも、私が受贈者として署名を済ませた契約は、もう動き始めている。


 そして私は、壮真へ渡した資産管理の委任を撤回した。


 三日後。


 壮真がようやく少し動けるようになった頃、私はリビングでコーヒーを飲んでいた。


 テーブルには、委任の撤回通知と、手続き中の書類の控えを置いてある。


 壮真がそれを手に取った。


 何枚かめくったところで、顔色が変わった。


「母さん、これ何?」


「何が?」


「なんで委任を取り消してるんだよ」


 さらに紙をめくる。


「株も不動産も、千景がそのまま管理することになってる。話が違うだろ」


 カップを置いた。


 もう、志津江の声を真似るのはやめた。


「壮真」


 夫の肩が動いた。


「今、誰に向かって母さんって言ったの?」


「……何?」


「お義母さんなら死んだでしょう?」


 壮真の手から書類が落ちた。


 私を見る。


「千景……?」


「うん」


 立ち上がる。


「ただいま、って言った方がいい?」


 壮真が一歩下がった。


「違う……。だって、母さんは入った。俺、見てたんだぞ」


「入ったよ」


 胸元を指で軽く叩く。


「まだいる」


 壮真の顔から完全に血の気が消えた。


「母さん?」


 返事はない。


「母さん! 聞こえるなら返事して!」


「聞かせてあげようか」


 親蟲への抑えを少しだけ外した。


 御蟲が一斉に志津江へ群がる。


 同時に、口と声だけを彼女へ渡した。


「壮真! 助けて!」


 私の若い声帯から、志津江の泣き叫ぶ調子が飛び出した。


 壮真が尻もちをつく。


「母さん……?」


「殺して! この身体、虫だらけなの! ずっと噛まれてる! お願い、壮真!」


「母さん……本当に……」


「早く殺して! もう嫌!」


 身体を取り戻した。


 悲鳴が途切れる。


 壮真の目の前で、ゆっくり表情を戻した。


「聞こえた?」


 夫は床に座り込んだまま動かない。


 テーブル脇の果物ナイフを取った。


 柄を向け、壮真の前へ差し出す。


「親孝行なんでしょう?」


 震える指先が、柄へ触れる。


「お義母さん、あんなに苦しんでるよ」


 壮真はナイフを見た。


 私を見る。


 何かが切れたように顔を歪めた。


「化け物……」


 低い声が漏れる。


「お前、化け物だ!」


 ナイフをつかみ、こちらへ走ってきた。


 避けなかった。


 十分前に通報してある。


 玄関の向こうで大きな音がした。


「警察です! 刃物を置いて!」


 壮真がこちらへ届く前に、数人の警察官が横から押さえ込んだ。


 ナイフが床を滑る。


 腕を後ろへ回されても、壮真は暴れ続けた。


「違う! こいつの中に母さんがいる! 虫もいるんだ! 母さんが食われてる!」


 ソファ脇へ身体を寄せた。


 震える手で、火傷の跡を押さえる。


 涙も出た。


「夫が……ずっと変なんです。義母が亡くなってから、私の身体に義母がいるって……」


 壮真が名前を叫んだ。


 それでも警察に見えているのは、妻へ刃物を向けた男だけだった。


 数週間後。


 御厨家の資産管理会社の株式に加え、賃貸物件二棟、綾守市湾岸のマンション、いくつかの投資口座まで、主要な資産が順に私名義へ移っていった。



10



 警察へ渡せる材料は、最初から用意していた。


 闇サイトの依頼を見つけた日の夜、壮真がもう使っていないと思い込んでいた見守りカメラのクラウド保存を再開しておいた。地下の一台も生きていた。


 煙草を押しつけられた場面。


 薬を飲むよう迫られた場面。


 地下で行われた儀式。


 壮真自身が口にした言葉。


 警察が家へ入ったあと、地下室の道具も押収された。


 榊原は壮真をかばわなかった。


 事情を聞かれると、すぐに自分の知っている範囲を話したらしい。


 壮真と志津江から魂移しを頼まれたこと。


 私を対象にした500万円の依頼について、壮真から聞いていたこと。


 志津江の死そのものについては、長く続いた末期がんの経過と矛盾しなかった。


 一方で壮真には、私への暴行、薬を飲ませたこと、地下室で拘束したこと、最後に刃物を向けた事実が残った。


 逮捕後、壮真の状態は急速に崩れた。


 同じ言葉ばかり繰り返したという。


 虫がいる。


 母さんが千景の中にいる。


 身体の中から声がする。


 その後、精神鑑定を受け、一時は鑑定留置となった。


 けれど、それで御厨家の金が彼へ戻るわけではない。


 志津江が自分の意思で署名した書類があり、受贈者として署名したのは法律上も実際にも私自身だ。


 委任も撤回した。


 あれだけ手を回し、私の名前へ財産を移してから、身体ごと奪うつもりだった。


 結果として成功したのは、前半だけだ。


 三か月後。


 精神鑑定を終えた壮真は起訴され、拘置所に収容されていた。


 一度だけ、面会へ行った。


 ガラスの向こうに現れた壮真は、以前よりかなり痩せていた。


 頬は落ち、目だけが妙に大きく見える。


「虫……」


 座ったまま、小さく呟いている。


「いっぱい……いる……」


 顔を上げた。


 私を見るなり、瞳孔が開く。


「母さん……?」


「その呼び方、やめたら?」


 壮真の唇が震えた。


「まだ……いるのか」


 胸へ手を当てた。


「聞こえてるよ」


「母さんは?」


「前より静か」


 親蟲が身体の奥でわずかに動く。


「だいぶ食べられたから」


 壮真が目を閉じた。


 涙が一筋だけ落ちる。


「千景……お前、いつか罰が当たるぞ」


「そうかもね」


 席を立ち、濃いグレーのコートの襟を整えた。


 志津江が生前、好んでいたブランドの生地で仕立てたものだ。


「でも、少なくとも今、自由に外を歩けるのは私の方だけど」


 拘置所を出ると、外は明るかった。


 風が木の葉を揺らす。


 体内の御蟲も静かだった。


 スマートフォンが震える。


 黒い画面に、闇サイトから新しいメッセージが届いていた。


「死んだ人間を戻せる人形を作れるって聞いた。金なら払う」


 プロフィール画像を一度だけ見る。


 死を受け入れられない人間は、どこにでもいる。


「作れるよ」


 送信しかけて、もう一行だけ加えた。


「代償を払えるなら」


 送信。


 スマートフォンを閉じた。


 首筋には、壮真が無理やり守り袋を結んだときの薄い跡が、まだ少しだけ残っている。


 指でなぞっても、もう痛くなかった。


 あの人たちは、私の身体を持ち主の変えられる器だと思っていた。


 けれど、この身体は最初から誰にも貸していない。


 入りたいなら、勝手に入ればいい。


 出られるかどうかまで、私が保証する理由はない。






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