第8話『隣人の赤い部屋』
1.
銀行強盗事件から数日が過ぎた、ある曇りの午後。佐藤は、高級住宅街にある豪邸「大園邸」の門前に立っていた。今回の任務は、大園家の主人が海外出張中の留守宅警備。門の前に立ち、不審者を威圧する「カカシ」の役目だ。本来なら、欠伸が出るほど退屈な仕事のはずだった。
だが、今の状況は「カカシ」どころではない。隣の家――資産家の老婆が一人で住む屋敷――の周囲を、赤色灯の洪水が埋め尽くしていたからだ。規制線が張られ、制服警官と刑事が蟻のように出入りしている。殺人事件だ。一時間ほど前、通いのヘルパーが遺体を発見して通報したらしい。
(……やれやれ。お隣がこれじゃ、こっちの警備も神経を使うな)佐藤が帽子を目深に被り直していると、規制線の向こうから、見覚えのあるスーツ姿の女性が歩いてきた。ポニーテールを揺らし、鋭い目つきで手帳を持っている。新任刑事、立花理央だ。
「……あ」佐藤の前まで来た理央が、足を止めた。 「あなたは……あの時の腰痛おじさん」 「ゲッ」 佐藤は思わず声を漏らし、慌てて咳払いをした。 「いやあ、刑事さん。奇遇ですねえ。私はこういう仕事なもので」 佐藤は警備会社の腕章を見せた。理央はジロジロと佐藤を見る。 「腰はもういいんですか?」 「ええ、まあ。湿布が効きましてね」
2.
理央はため息をつき、事務的な口調に切り替えた。聞き込み捜査だ。 「佐藤さん、ここには何時から?」 「朝の八時からです。ずっと立ってましたよ」 「不審な人物や、物音は見聞きしましたか? 犯行推定時刻は午後一時前後なんですが」 「いいえ、特には。宅配便のトラックが二台通ったくらいで、静かなもんでしたよ」
佐藤は無難に答えた。嘘ではない。 「そうですか。ありがとうございます」 理央が手帳を閉じ、踵を返そうとする。「犯人はまだ逃走中です。押し入った痕跡から見て、金目当ての単独犯による強盗殺人と見られています。あなたも気をつけて」
その言葉に、佐藤の眉がピクリと動いた。職業病だ。「現場の違和感」を放置することが、何よりも気持ち悪い。佐藤は背中を向けた理央に、つい声をかけてしまった。
「……刑事さん。本当に『単独犯』なんですかね?」
理央が弾かれたように振り返った。 「どういうことですか?」その目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭い。
しまった、と佐藤は思った。余計なことを言った。さっさと「ただの警備員」に戻らなくては。 「い……いや、気にしないで下さい。ほら、私、ミステリー小説が好きでね。ミステリーオタクのジジイの戯言ですよ」 佐藤はヘラヘラと笑い、手を振った。 「それに、宅配便のトラックが一台、少しエンジンの音が変だったような気がしただけです。気のせい、気のせい」
3.
だが、理央は笑わなかった。彼女は佐藤の目の前まで詰め寄り、その顔をじっと覗き込んだ。銀行での不自然なアリバイ。警察署前での人間離れした受身。そして今、現場の刑事でさえ「単独犯」と決めつけている状況での、意味深な指摘。
「佐藤さん」 理央の声のトーンが下がった。 「血とか、大丈夫?」 「え?」唐突な質問に、佐藤はキョトンとする。 「ええ、まあ……。魚も一匹くらいなら捌けますけど」 佐藤がとぼけると、理央はいきなり佐藤の手首を掴んだ。 「じゃあ、こっち来て」 「はあ!? ちょ、刑事さん!?」
理央の力は強かった。彼女は有無を言わせず、規制線を持ち上げ、佐藤を強引に事件現場の敷地内へと引きずり込んだ。 「おい立花! 何やってんだ、一般人だぞ!」 先輩刑事が怒鳴るが、理央は「重要参考人の現場検証です!」と適当な嘘をついて押し通した。
4.
通されたのは、一階のリビングだった。そこは、地獄絵図だった。家具はひっくり返され、高価な調度品が散乱している。そして床には、大量の血だまりと、白いチョークで囲まれた遺体の痕跡。鉄錆のような血の臭いが充満している。普通の人間なら、嘔吐して腰を抜かす惨状だ。
しかし、佐藤は眉一つ動かさなかった。ただ静かに、部屋全体を見渡した。 (……なるほど) 彼の瞳から、「冴えないおじさん」の光が消え、冷徹な観測者の色が一瞬だけ宿る。
理央は、その変化を見逃さなかった。彼女は自身の直感――現場の違和感と、この男への疑念――を賭けていた。 「佐藤さん。これを見て、どう思う?」
「え!?」 佐藤は慌てて演技に戻ろうとする。 「ど、どうって……ひどいですねぇ、怖いですねぇ……」
「演技はいいから」理央が遮った。彼女は真剣な眼差しで、佐藤を射抜く。 「先輩たちは『金に困った素人の単独犯』だと言ってる。でも、私にはどうしてもそう思えない。現場が『綺麗すぎる』気がするの」 彼女は佐藤の胸ぐらを掴み、顔を近づけた。 「あなたの正体なんてどうでもいい。ただ、私の違和感が正しいのかどうか知りたいだけ。……正直に答えて」
5.
しばらくの沈黙。佐藤は、目の前の必死な新米刑事を見つめた。正義感と、自分の感覚を信じる強さ。 (……若林くんより見込みがあるな) 佐藤は小さく息を吐き、少しだけ猫背を伸ばした。声の調子が、低く、フラットなものに変わる。
「……足跡の数」 佐藤が指差したのは、血だまりの周辺だ。 「派手に荒らされていますが、血を踏んだ足跡が一つもない。素人の強盗なら、興奮して歩き回り、靴跡だらけになるはずです」
理央がハッとして床を見る。確かに、部屋は荒れているのに、血の海の周りだけ、妙にクリーンだ。
「それに、あのタンス」佐藤は倒れた高級タンスを顎でしゃくった。「引き出しが全部開いて、中身がぶちまけられていますが……『白いシャツ』に血が一滴も付いていない」
理央が目を凝らす。散乱した衣類は清潔そのものだ。
「これだけの出血量です。もし単独犯が殺害直後に物色したなら、タンスの取っ手や衣類に、必ず血痕が付着する。……つまり、部屋を荒らした人間は、返り血を浴びていない」
佐藤は、理央の目を見て淡々と告げた。 「犯人は二人以上です。一人は、ためらいなく老婆を殺せる実行犯。もう一人は、現場を『強盗に見せかける』ために冷静に偽装工作を行った、指揮役(掃除屋)。……つまり、突発的な強盗なんかじゃない。計画的な殺しのプロです」
理央は息を呑んだ。彼女が感じていた「綺麗すぎる」という違和感の正体が、氷解していく。 「二人組……プロの犯行……」
「あくまで、ミステリーオタクの妄想ですよ」 佐藤は瞬時に背中を丸め、いつもの弱々しい笑顔に戻った。 「ああ怖い。もう戻っていいですか? 足が震えてきちゃって」
理央は、もう彼を引き止めなかった。ただ、去っていくその背中に向かって、不敵な笑みを含んだ声で告げた。
「……ありがとう、佐藤さん。――またよろしく」
佐藤は一瞬だけ足を止めたが、聞こえないふりをして手をひらひらと振り、逃げるように持ち場へ戻っていった。 (……勘弁してくれ)
理央は手帳を開き、ペンを走らせる。捜査の方針は決まった。単独犯ではない。共犯者を洗う。 そしてもう一つ。手帳の隅に、彼女は大きくこう書き込んだ。『佐藤 = 要監視対象』




