第7話『猫と刑事』
1.
所轄署の生活安全課無機質な蛍光灯の下で、佐藤はパイプ椅子に縮こまり、今日何度目か分からない頭を下げていた。
「……はい、はい。本当に怖かったです。もう二度とごめんです」
佐藤の演技は堂に入っていた。背中を丸め、視線を泳がせ、脂汗(に見えるように計算してかいた汗)をハンカチで拭う。対応した刑事は、すっかり毒気を抜かれた様子で溜息をついた。 「まあ、銀行強盗は災難でしたね。犯人グループの仲間割れに助けられたと思って、運が良かったと感謝することですな」 「へえ、もう一生分の運を使い果たしましたよ……。あの、もう帰っても?」 「ああ、調書は取ったし、協力感謝します。行っていいですよ」
放免の許可が出た瞬間、佐藤は「ありがとうございますぅ!」とペコペコお辞儀をしながら、逃げるように部屋を出た。
署の廊下を歩きながら、佐藤は腕時計をチラリと確認した。午後五時一五分。 (まずいな。完全に予定オーバーだ) 佐藤の表情から、卑屈な色が消え、焦燥の色が浮かぶ。隣人の水川さんがアルバイト先から帰ってくる時間だ。最近、駅前でナンパ待ちの男が増えているため、佐藤は「偶然、散歩していた近所のおじさん」を装って、彼女を遠巻きにガードする日課があった。それに、もう一つの重大なミッションがある。
(駅前の精肉店、『肉のタカハシ』のタイムセールが終わってしまう)揚げたてのコロッケが、五時半までなら一個三〇円引きなのだ。銀行強盗の制圧などという「無給の残業」のせいで、大事な夕飯のグレードを下げるわけにはいかない。
佐藤は自動ドアを抜け、警察署の敷地に出た。西日が眩しい。シャバの空気を吸った途端、彼の足取りは「怯える被害者」から「家路を急ぐ庶民」へとギアチェンジした。走ると目立つ。だが、競歩ギリギリの早足で、アスファルトを滑るように進む。
目指すは正門。警察署の出口は、プライバシー保護のために高いコンクリート塀と、分厚い生垣で囲まれており、外の歩道が見通せない構造になっている。完全な死角。だが、プロである佐藤は、無意識に「車の飛び出し」は警戒していた。エンジン音はない。気配もない。よし、このまま抜ける――。
そう判断し、門柱の角を鋭角に曲がろうとした、その刹那だった。
2.
「待てーっ!」 子供の高い声と共に、五歳くらいの男の子が、転がったボールを追って生垣の陰から飛び出してきた。
距離は一メートルもない。佐藤の今の速度は小走り。男の子は全速力。物理法則上、衝突は避けられない。ぶつかれば、小さな子供はコンクリートに叩きつけられ、大怪我をする。止まる距離はない。避ける幅もない。
(――越えるか)
佐藤の脳が、コンマ一秒で演算を完了した。佐藤はブレーキをかけるのをやめ、逆につま先に爆発的な力を込めた。子供の頭に手を置くような動作で――実際には触れず――その小さな体を軸にして、宙へ舞う。
フワリ。
重力を無視したような跳躍。佐藤の体は、驚いて立ち尽くす子供の頭上を、まるで猫のように音もなく飛び越えた。そして空中で身をひねり、アスファルトに着地する瞬間、背中を丸めて回転運動へ移行する。
クルン、タンッ。
柔道の受身ではない。パルクールや、軍隊格闘術における「高所着地」の技術。 衝撃を完全に回転エネルギーに変えて逃がし、佐藤は無傷で立ち上がった――はずだった。
3.
(……しまった) 立ち上がった瞬間、佐藤は背中に突き刺さるような視線を感じた。警察署の玄関前。 一人の女性が立っていた。
リクルートスーツに、黒髪のポニーテール。手にはコンビニの袋。新任刑事の立花理央だ。学生時代、全日本女子柔道の強化選手だった彼女の目は、今まさに佐藤が行った「異常な挙動」を、スローモーションのように捉えていた。
(今の跳躍力。空中で軸をブラさない体幹。そして何より、コンクリートの上での回転受身に『音がしなかった』……)
普通の人間なら「ドサッ」と落ちる。柔道家でも「バンッ」と畳を叩く。だが、今の男は「タンッ」という、衣擦れの音しかしなかった。達人級? いや、それ以上。実戦の動きだ。
佐藤は瞬時に判断した。ここでスタスタと歩き去れば、確実に怪しまれる。佐藤は立ち上がった勢いのまま、わざとバランスを崩し、「あだだだだ!」と大げさに叫んで腰を押さえた。
「い、痛たたた……! 腰が、腰がぁ!」 情けない声を上げて、ガードレールにしがみつく。
4.
「大丈夫ですか!?」 理央が駆け寄ってきた。その目は、心配の色と同時に、探るような鋭さを秘めている。 「あ、ああ、すみません……子供が飛び出してきて、派手に転んじゃいまして……」 佐藤は脂汗を流す(ふりをする)演技を見せる。 男の子は、何が起きたか分からず、ボールを拾ってポカンとしている。 「坊や、危ないよ。道路には飛び出しちゃダメだ」 佐藤は優しく注意するふりをして、理央から顔を背けた。
「あの……お怪我は? 救急車呼びますか?」 「いえいえ! ただのギックリ腰みたいなもんです。湿布貼れば治りますよ、あはは……」
理央は、佐藤のスーツを見た。背中にも、膝にも、汚れひとつついていない。あんなに派手に回転したのに? それに、さっきの動き。転んだのではない。「制御された回避」だったはずだ。
「あの……あなた、何か武道とかやってました?」理央が単刀直入に聞いた。佐藤はビクリと肩を震わせ、弱々しく首を振る。 「とんでもない。ラジオ体操が関の山ですよ。……ああ痛い。それじゃ、私はこれで」
佐藤は逃げるように、しかし腰を庇うような不格好な歩き方で去っていった。 (コロッケ、売り切れるなよ……!)
5.
残された理央は、佐藤の背中を見つめていた。猫背で、くたびれたスーツ。どこにでもいる中年男性。だが、彼女の「武道家としての直感」が、最大級の警鐘を鳴らしていた。
(今の受身……警察学校の教官よりも、ずっと綺麗だった)
「……佐藤、さん」 理央は、さっき署内で聞いた、銀行強盗事件の参考人の名前を反芻した。トイレに隠れていたという臆病な男性。でも、もし彼が「隠れていた」のではなく、「潜んでいた」のだとしたら? 停電した銀行の中で、犯人たちを音もなく無力化した「幽霊」の正体は……。
「面白いわね」理央はコンビニ袋を握りしめ、ニヤリと笑った。彼女の刑事としての嗅覚が、初めて「本物の獲物」の匂いを捉えた瞬間だった。




