第6話『個室の亡霊』
1.個室の嘆き
銀行の最奥、男子トイレの個室。 無機質なタイル張りの空間で、佐藤は便座に座り、記帳されたばかりの通帳を見つめていた。数字の羅列は、残酷な現実を突きつけている。 「……今月も赤字か」 深いため息が個室に反響する。物価高騰の波は、しがない市民・佐藤の生活を確実に蝕んでいた。「晩飯のおかず、一品減らすしかないな……もやし炒めか」
その時だった。
「動くな! 金を出せェ!!」
厚い防火扉と距離を隔てているにもかかわらず、明瞭な怒号が鼓膜を打つ。続いて、女性の短い悲鳴と、何か硬いものが床にぶつかる音。 (……マジかよ) 佐藤は天井を仰ぎ、再びため息をついた。銀行強盗だ。よりによって、このタイミングで。彼は音もなく立ち上がると、通帳を懐にしまう。その瞳から、生活疲れの色が消え、冷徹な光が宿った。トイレットペーパーを数回巻き取って折りたたみ、ドアノブに当てる。金属音を完全に消し去り、ロックを解除。数ミリだけドアを開け、その隙間から外の世界――行員用通路と、その先のロビーを「スキャン」した。
2.死角からの観測
敵影は三。全員がフルフェイスのヘルメットを着用。武装は、リーダー格がオートマチックの拳銃、手下二人が大型のサバイバルナイフ。客と行員はロビー中央に集められ、床に伏せさせられている。 犯人たちの視線と銃口は、恐怖に支配された人質たちとカウンターの金に釘付けだ。(後方確認をしていない。ただの素人か)奥まった場所にあるトイレや給湯室、更衣室への警戒が欠落している。この瞬間、銀行という閉鎖空間における食物連鎖は逆転した。佐藤は怯える「獲物」から、この場を支配する唯一の「捕食者」へと変貌する。
佐藤の視線が、通用路の壁にある配電盤に吸い寄せられた。現在位置から約三メートル。彼は静かに革靴を脱いだ。靴下だけの足裏は、床の微細な凹凸を感じ取り、一切の足音を殺すことが可能だ。気配すらも消し、佐藤は個室という聖域を出た。
3.暗転(PM 3:00)
ロビーでは、リーダー格の男が焦燥感を露わにしていた。 「おい! まだ詰め終わらねえのか! 警察来ちまうぞ!」 犯人グループ全員の意識が、バッグに詰め込まれる札束と、時間の経過に向けられる。 その、集中が極まった一瞬の隙。
バチン。
硬質なスイッチ音が響き、佐藤の手が主電源を落とした。銀行内が瞬時に完全な闇に堕ちる。窓には防犯用のブラインドが降りており、外光は入らない。非常誘導灯の緑色の光だけが、深海のように不気味に浮かび上がった。 「な、なんだ!? 停電か!?」 「誰かスイッチ触ったか!?」視界を奪われた犯人たちのパニック。暗闇は、訓練を受けていない人間には根源的な恐怖を与えるが、赤外線暗視装置すら不要なほどの空間把握能力を持つ佐藤にとっては、最高の「味方」でしかない。緑色の薄暗がりの中、佐藤の影が液体のようになめらかに、そして誰よりも速く動いた。
4.一人目:神隠し
一番後方、通用口近くにいた見張り役の男が、バックヤードの闇を振り返った。 「おい、誰かいるのか……?」 男が目を凝らそうとした、その0.5秒後。音もなく背後に密着した佐藤の腕が、男の首に絡みついた。気道ではなく、頸動脈を的確に圧迫する「スリーパーホールド」。 「……ッ」 男は声を上げる間もなく、脳への血流を遮断され、電源が落ちるように意識を失った。佐藤は崩れ落ちる巨体を支え、衣擦れの音すら立てずに床へ横たえる。即座に男が所持していた拳銃を拾い上げると、慣れた手つきでスライドを外し、弾倉を抜き、リコイルスプリングを弾き飛ばした。 数秒で鉄屑と化した拳銃をゴミ箱へ放り込む。一人目、無力化完了。
5.二人目:疑心暗鬼
「おい、タカシ? どうした、返事しろ!」 リーダーが叫ぶが、闇からの応答はない。 「クソッ、どこ行ったんだ!」 もう一人の男(二人目)が、恐怖に駆られてナイフを闇雲に振り回し始めた。 「出てこい! ぶっ殺すぞ!」 佐藤は、近くの事務机にあったボールペンを一本手に取った。指先で重さを確かめると、男のいる方向とは逆、窓際の壁に向かって手首を返す。カツン。 静寂を破る乾いた音が響く。 「あっちか!!」 聴覚誘導。男が音の方へ走り出す。 その背後を、佐藤が風のようにすれ違う。すれ違いざま、佐藤の人差し指の第二関節が、男の肘の内側にある神経叢を鋭く穿った。 「あがっ!?」電撃が走ったような麻痺により、男の手からナイフがこぼれ落ちる。 男が腕を押さえてうずくまった時には、佐藤はもうそこにはいない。代わりに背後から足首を掴んで引き倒し、机上にあった結束バンドで手足を瞬時に拘束した。猿轡代わりのガムテープも忘れない。
6.亡霊の正体
残るはリーダー一人。彼は震える手で拳銃を構え、誰もいないはずの空間を見回していた。 「だ、誰だ……! 警察か!? いつの間に入ってきやがった!」仲間二人が、悲鳴ひとつ上げずに消された。 人質たちも、状況が飲み込めず息を潜めている。この空間には、自分たち以外に「何か」がいる。姿の見えない、得体の知れない怪物が。
ウゥゥゥゥ……!
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。それが決定打だった。 「く、くそぉぉぉ!! 化け物め!!」リーダーは極限の恐怖に耐えきれず、裏口のドアを蹴破って外へ飛び出した。だが、そこには通報を受けて到着したばかりの機動捜査隊が銃を構えていた。 「確保ぉ!!」 自ら警察の懐に飛び込んだ犯人は、あっけなく地面にねじ伏せられた。
7.アリバイ工作
数分後。 照明が復旧し、制服警官たちがなだれ込んでくる。人質たちは解放され、気絶していた犯人二人も確保された。現場の指揮を執る刑事が、不思議そうに首をかしげている。 「妙だな……。犯人の一人は綺麗に落とされ、もう一人はプロ並みの手際で拘束されている。銃も分解済みだ。人質は全員伏せていたはずなのに、一体誰が……?」 その時。
ジャーッ。
トイレの水が流れる軽快な音が響き、個室のドアが開いた。佐藤が出てきた。丁寧にハンカチで手を拭きながら、きょとんとした顔で警官たちを見る。 「……あれ? なんか騒がしいですね。強盗対応の避難訓練ですか?」 「あ、あなた、ずっとそこにいたんですか!?」 「ええ。ちょっとお腹を下してまして……。なんか外で叫び声が聞こえたような気もしたんですが、出るに出られなくて。いやあ、参った参った」佐藤は頭をかき、人の良さそうな苦笑いを浮かべた。刑事は呆れたようにため息をつく。 「あんた、運がいいのか鈍感なのか……。まあいい、怪我がなくて何よりです」 「はあ、どうも」 佐藤は、誰にも正体を見咎められることなく銀行を後にした。
配電盤に残った微細な指紋は、暗闇の中でハンカチで拭き取り済みだ。靴下で歩いた床の痕跡も、トイレのマットで念入りに除去した。彼が現場に残したのは、犯人たちの脳裏に焼き付けた「見えない恐怖」というトラウマだけだった。
「……さて、スーパーの特売に間に合うかな」 個室の亡霊は、夕暮れの街へと消えていった。




