第5話『喫茶店の冷たいコーヒー』
1.
午後二時。駅前のホテルラウンジ。優雅なクラシック音楽が流れる中、佐藤は高い背もたれのソファに深く沈み込んでいた。 今日の彼の役柄は、依頼人である女子大生・沙織の「田舎から出てきた叔父さん」だ。 よれたジャケットに、時代遅れの眼鏡。どこからどう見ても、都会の空気に馴染めない冴えない中年男である。
「……佐藤さん、来ました」 対面に座る沙織が、小さく震えながら視線を上げた。入り口から、一人の青年が入ってくる。細身のスーツに、整えられた髪。一見すると好青年だが、その目は少しも笑っておらず、ただ一直線に沙織だけを捉えていた。ストーカーの男、井上だ。 彼は沙織への執拗なつきまといを続けており、今日は警察の助言を受けた弁護士立ち会いのもと(という建前だが、弁護士は遅れている設定)、誓約書を書かせるための場だった。
2.
「やあ、沙織ちゃん。待った?」 井上は、沙織の隣に座る佐藤を一瞥もしなかった。彼の世界には沙織しかいないのだ。 「……座ってください」 沙織が蚊の鳴くような声で言う。井上はソファに腰を下ろすと、馴れ馴れしく沙織の手を握ろうとした。 「そんな他人行儀な。僕たちは誤解があるだけだろ?」
「おっと、失礼」 佐藤が、絶妙なタイミングでテーブルの上の水を手に取り、そのコップを置く動作で、井上の手と沙織の手の間を分断した。ゴトッ。 井上の手が止まる。 「……誰ですか、アンタ」 井上が初めて佐藤を見た。ゴミを見るような目だ。 「ああ、どうも。沙織の叔父の佐藤ですぅ。今日はその、話し合いと聞いて、心配でついてきちゃいましてねえ」 佐藤はヘラヘラと頭を下げた。 「親族? 関係ないだろ。帰ってくれませんか」 「まあまあ、そう言わずに。美味しいコーヒーでも飲みましょうよ」
3.
話し合いは平行線をたどった。沙織が「もうつきまとわないで」と誓約書を差し出しても、井上は「これは愛だ」「僕を守ってくれるのは君しかいない」と独自の理論を展開し、署名を拒否し続ける。次第に、井上の声が荒くなり始めた。
「だいたい、君が僕を無視するのが悪いんだぞ!」 井上がバン! とテーブルを叩いた。周囲の客が驚いてこちらを見る。 「このおっさんもだ! さっきからニヤニヤしやがって!」 井上の情緒が限界に達していた。彼は目の前のホットコーヒーが入ったカップを掴んだ。 (……やるな)佐藤の目が、眼鏡の奥でスッと細められた。井上はコーヒーを沙織に浴びせかけようと、腕を振り上げた。
4.
その瞬間。佐藤の手が動いた。井上の手首を掴んだのではない。それでは周囲に「暴力」と映る。 佐藤は、テーブルの上に置いてあった「スティックシュガーの束」が入った器を、指先でピンと弾いたのだ。
バシャッ! 器が倒れ、中身が派手に散らばる。その音と動きに、井上の意識が一瞬だけ逸れた。 人間の脳は、予想外の動きに反応してフリーズする。そのコンマ数秒の隙間に、佐藤は立ち上がりながら、テーブルの下で井上の革靴のつま先を、自分の革靴の踵で強く踏みつけた。
「ぎっ!!?」 井上の悲鳴にならない声が漏れる。同時に、佐藤は「ああっ、すみません! 手が滑って!」と大声を出しながら、倒れ込むふりをして、井上の振り上げた腕を抱きかかえるように制した。 はたから見れば、ドジな叔父さんが砂糖をこぼして慌てているだけだ。だが、その腕の中で、佐藤の指は的確に、井上の肘の内側にある急所(尺骨神経)を強く圧迫していた。
5.
「あ……が……っ、腕、腕が……!」 井上の右腕から感覚が消え、コーヒーカップが手から滑り落ちる。 それを、佐藤は反対の手で空中でキャッチし、音もなくソーサーに戻した。一滴もこぼれていない。
佐藤は、顔を近づけた。周囲には「大丈夫ですか?」と介抱しているように見える距離。しかし、その口元だけが、氷点下の冷たさで囁いた。
「……いいですか、井上くん」 佐藤の声が、鼓膜ではなく脳幹に響く。 「次にその手を彼女に向けたら、指を一本ずつ、このスティックシュガーみたいにへし折りますよ」 ボキリ。 佐藤は手の中に隠し持っていたスティックシュガーを一本、音を立てて折ってみせた。
井上の顔から血の気が引いた。足の激痛。腕の痺れ。そして目の前の「冴えないおっさん」から放たれる、濃厚な死の気配。 本能が理解した。これは「叔父さん」ではない。捕食者だ。
「さあ、誓約書にサインを。インクが乾かないうちに」 佐藤がパッと離れ、いつもの人の良さそうな顔に戻る。 「あらら、砂糖こぼしちゃってごめんなさいねえ」
6.
井上は震える手で署名し、逃げるようにラウンジを出て行った。二度と沙織の前には現れないだろう。恐怖という楔は、どんな法律よりも深く突き刺さる。
「……佐藤さん」 沙織が呆然としている。 「今の、何をしたんですか? コーヒーが落ちる前に……」 「ん? いやあ、運動神経だけは昔から良くてね」 佐藤は店員を呼び止め、申し訳なさそうに頭を下げた。 「すみません、砂糖をこぼしてしまって。……片付けますから」
佐藤は散らばった砂糖を拾い集める。その背中は、やはりどこにでもいる、くたびれた中年のそれだった。




