第4話『段ボールの城塞』
1.
午前八時半。警備会社「シールド・セキュリティ」の会議室。 ホワイトボードには、団地の見取り図と、強面の男の顔写真が貼り付けられていた。
「今回の対象は、荒川剛。三五歳。建設作業員だ」
管制の五代が、指示棒で写真を叩く。 「元社会人ラグビーの選手で、ポジションはフランカー。タックルの威力は軽自動車並みだと思っていい。酒癖が悪く、妻へのDVが常態化している」
パイプ椅子に座った若林が、ゴクリと唾を飲み込んだ。 「……で、依頼人はその奥さんですね」 「ああ。夫が現場仕事に出ている隙に、家財道具を持って逃げる。いわゆる『夜逃げ警護』だ」
五代は鋭い視線を佐藤に向けた。佐藤は制服ではなく、どこかの作業着を着て、お茶を啜っている。 「佐藤。今回の作戦時間は?」 「一〇〇〇(ヒトマルマルマル)から一二〇〇(ヒトフタマルマル)。夫が昼休みに戻る可能性を考慮して、二時間がリミットです」 「そうだ。敵と遭遇した場合、戦闘は避けろ。だが、万が一鉢合わせた時は……」 「分かってますよ」 佐藤はのんびりと立ち上がり、作業着の背中に貼られた『シールド引越しセンター』という架空のロゴを指差した。 「僕らはただの引越し屋さんですから。お客様には、指一本触れません」
その手には、警棒の代わりに、業務用の「ガムテープ」と「カッターナイフ」が握られていた。
2.
午前一〇時。現場は郊外にある古い団地の四階。エレベーターはない。 佐藤と若林は、凄まじい手際で荷物を運び出していた。 依頼人の女性、美樹は、青あざをコンシーラーで隠した顔で、怯えるように玄関を見張っている。 「大丈夫ですよ、奥さん。予定より早いペースです」 佐藤は声をかけながら、運び出した段ボール箱を、なぜか階段の踊り場や廊下の真ん中に置いていく。
「ちょ、佐藤さん! そんな所に置いたら邪魔ですよ。トラックまで運んでくださいよ」 若林が苛立ったように言った。 「いやあ、腰が痛くてねえ。一時避難、一時避難」 佐藤は腰を叩くふりをして、段ボールを奇妙な配置――ジグザグに、人が一人やっと通れるような隙間を開けて――並べ続けた。 そして、床には滑り止めのマットではなく、なぜか梱包用の「プチプチ(気泡緩衝材)」を裏返しにして敷いていく。
(……このオッサン、本当に役立たずだなおい!) 若林が心の中で悪態をついた時だった。
――ブロロロロ……キキーッ!
階下の駐車場に、エンジンの停止音が響いた。 美樹の顔色が土気色に変わる。 「……夫の車だわ。マフラーの音で分かる」 「はあ? まだ一一時半ですよ!?」 若林が時計を見る。早すぎる。怪我か、あるいは雨で現場が休みになったか。 ドタ、ドタ、ドタ、ドタ。 コンクリートの階段を、怒りに満ちた重い足音が駆け上がってくる。
3.
「若林くん、奥さんを連れて先にトラックへ。裏の非常階段から」 佐藤の声が、会議室の時と同じように低く凪いだ。 「でも、佐藤さんは!」 「僕は残りの荷物を片付けてから行く。……引越し屋が荷物を置いて逃げちゃ、クレームになるからね」 佐藤はウィンクし、美樹の背中を押した。 二人が裏口へ消えた直後。 「オラァア!! 美樹ィ!! どこだァ!!」 玄関ドアが蹴り破られんばかりの勢いで開き、荒川が飛び込んできた。 身長一八五センチ。筋肉の鎧のような巨体。血走った目が、部屋に残っていた佐藤を捉える。
「ああん? 誰だテメェ。泥棒か?」 「ひっ! い、いえ! 引越し業者ですぅ!」 佐藤は両手を上げ、わざとらしく腰を引いて後ずさりした。 「引越しィ? 誰の許可でやってんだコラァ!!」 荒川が激昂し、ラグビー仕込みの突進体勢に入った。 狭い玄関。逃げ場はない。まともに食らえば内臓破裂だ。
4.
荒川が床を蹴った。 佐藤は「うわぁ!」と悲鳴を上げ、廊下へと逃げ出す。 それを追って、荒川が廊下へ飛び出す。 「待てコラァア!!」
だが、その加速は一瞬で殺された。 廊下には、佐藤が積み上げた段ボールの山が、迷路のように立ち塞がっていたからだ。 「チッ、邪魔なんだよ!」 荒川は段ボールを蹴散らしながら進もうとする。 その足が、床に敷かれた「裏返しのプチプチ」を踏んだ。
ツルッ。
「おっと!?」 ビニール素材はコンクリートの上で氷のように滑る。荒川の巨体が大きくバランスを崩した。 そこへ、佐藤が振り返った。 手には、梱包用の「ストレッチフィルム(荷崩れ防止用ラップ)」のロール。 「あ、お客様! 危ない!」 佐藤は叫びながら、転びそうになった荒川を支えるふりをして、その極薄かつ強靭なフィルムを、荒川の身体と、近くの手すりに向かって高速で巻き付けた。
シュババババッ!
佐藤の手首が残像に見えるほどの回転速度。 「な、なんだこれ!?」 荒川が体勢を立て直そうとした時には、両腕と胴体が、透明なフィルムでグルグル巻きにされ、手すりに固定されていた。 力任せに引きちぎろうとするが、何重にも巻かれた工業用フィルムは、ロープよりもタチが悪い粘りを見せる。
「す、すみません! 今助けますから!」 佐藤は慌てたふりをして、今度は平らな段ボール板を拾い上げ、「お怪我はありませんか!」と荒川の顔面に押し当てた。 「ぐわっ! 見えねぇ!」 視界を塞がれた荒川の頭上から、佐藤はダメ押しとばかりにガムテープを回した。 段ボールごと頭部を固定。
一分足らずの攻防。 そこには、ミノムシのように手すりに張り付けられ、顔に段ボールを装着された元ラガーマンの姿があった。 「ふぐぅ……! 外せェ……!」
5.
「……いやあ、ひどい目にあった」 佐藤は階段を駆け下り、待機していたトラックの助手席に飛び乗った。 「だ、大丈夫ですか佐藤さん! あの旦那は!?」 ハンドルを握る若林が青ざめている。 「説得したよ。『少し頭を冷やしたほうがいい』ってね。……物理的に」 「はあ?」 トラックが発進する。 四階の踊り場からは、野太い怒声と、手すりをバンバンと叩く音が虚しく響いていた。
後部座席で、美樹が涙を拭いながら佐藤を見た。 「あの……夫は、追ってきませんか?」 佐藤はポケットから、使い切ったガムテープの芯を取り出し、ゴミ箱へ放り投げた。 「大丈夫ですよ。梱包は『厳重』にしておきましたから。……それに、引越し先は誰も知りません」
佐藤は缶コーヒーを開け、窓の外を流れる景色を眺めた。 事前のブリーフィング通り、戦闘はゼロ。 ただ、引越し資材を少し無駄遣いしただけだ。始末書になんて書こうか、それだけが佐藤の今の悩みだった。




