第3話 三百円の防壁
1.
最初の激務の一週間が終わり、ようやく訪れた週末。雲ひとつない土曜の朝。佐藤はアパートの一階にある「猫の額」ほどの中庭で、しゃがみ込んでいた。
ホームセンターで買ってきたプランターに、マリーゴールドの苗を植えている。
平和だ。誰の命も守らなくていい。誰の骨も折らなくていい。ただ、喉が乾いた植物に水をやるだけの時間。 佐藤はホースのシャワーを浴びせながら、目を細めた。
ふと、視線を感じる。二階の角部屋。洗濯物を干そうとしていた女子大生が、ベランダからこちらを不思議そうに見下ろしていた。
佐藤は気づかないふりをして、鼻歌まじりにじょうろを置いた。その足で、集合ポストへ向かう。 ここからが、佐藤の本当の「日課」だ。
2.
佐藤の部屋、一〇二号室の郵便受け。佐藤は老眼を気にするふりをして顔を近づけ、投入口のフタの裏側を確認した。
五ミリ四方のセロハンテープ。
(剥がれた形跡なし。ズレもなし。今週も侵入者はゼロ、か)
彼はポケットから新しいテープを取り出し、手慣れた手つきで古いものを剥がし、新しいものを貼り付けた。指紋がつかないよう、ピンセットを使って。
「あの……」
背後から声をかけられ、佐藤はビクリと肩を震わせた(平和ボケしていた自分への戒めを込めて)。 階段を降りてきたのは、さっきの女子大生だった。スーパーの袋を下げ、怪訝な顔で佐藤の手元を見ている。
「あ、いや! これはその、いたずら防止というか……」 佐藤は慌てて人の良さそうな笑顔を作った。 「あ、二階の方ですよね。先週、下に越してきた佐藤です。ご挨拶が遅れてすみません」
「あ、はい。水川です。……よろしくお願いします」 彼女は軽く頭を下げたが、視線はまだ郵便受けに向いていた。 「それ、何をしてたんですか? 何か貼ってましたよね」
3.
誤魔化すと余計に怪しまれる。佐藤は正直に答えることにした。
「ああ、これですか? これはですね、泥棒避けの『おまじない』みたいなものでして」 「おまじない?」 「ええ。こうやってフタの裏に、小さく切ったセロハンテープを貼っておくんです」
佐藤は実演してみせた。 「外からは見えません。でも、もし誰かが中を覗こうとしてフタを押し込むと……ほら」
佐藤が指で押すと、テープがプチリと音もなく剥がれ落ちた。
「一度剥がれると、もう元には戻りません。帰宅した時にテープが落ちていれば、『誰かが触った』と分かるんです」
水川の目が、大きく見開かれた。 「……すごい。そんな簡単なことで分かるんですか?」 「ええ。三百円もあれば出来ますから。用心深い性格なもので、つい」
佐藤は照れ隠しに頭をかいた。しかし、水川は笑わなかった。むしろ、その表情が曇り、何かを思い詰めるように俯いた。
佐藤の脳内で、アラートが鳴った。職業柄、人の「不安の匂い」には敏感だ。
「あの、水川さん? どうかしました?」 「あ、いえ……その……」
彼女は迷っていたが、意を決したように口を開いた。 「実は……最近、誰かに部屋を見られているような気がして」
4.
またか、と佐藤は心の中で天を仰いだ。仕事でストーカー、家でもストーカー。
「姿を見たわけじゃないんです。でも、帰ってくると部屋の空気が違うというか……物がほんの少し動いている気がして」 水川は自分の腕を抱いた。 「警察も管理会社も、『気のせいでしょう』って。鍵も壊されてないし、お金もないから警備会社のセキュリティなんて頼めませんし……」
典型的な初期段階だ。侵入者は、まずは「見る」ことから始める。 佐藤は、プランターのマリーゴールドを見た。関わらないのが一番だ。 だが、自分の住む城に、不純物が入り込むのは寝覚めが悪い。 それに、彼女はまだ若い。
「……千円」 佐藤が呟いた。
「え?」 「テープで確認するだけなら三百円です。でも、もし『二度と来たくなくなるような仕掛け』を作るなら……そうですね、千円ほど投資できますか?」 「千円……。それくらいなら、もちろん出せますけど」
佐藤は腕時計を見た。 「善は急げだ。これから駅前のホームセンターに行こうと思うんですが、水川さんも来ますか? 使い方の説明もしなきゃいけませんし」
5.
駅前の百円ショップとホームセンターをハシゴして戻ってきた時、水川は不安そうな顔で手元のレジ袋を見ていた。
「佐藤さん……本当に、これだけでいいんですか?」
袋の中に入っているのは、マイク付きの安物イヤホン、絶縁用のビニールテープ、そして小さな抵抗器が数個。合計金額は三百円でお釣りが来た。
「十分です。むしろ、高い鍵をつけるよりずっと効果がある」
佐藤は彼女に案内され、二階の彼女の部屋――二〇二号室へと足を踏み入れた。 玄関は綺麗に整頓されているが、靴の脱ぎ方や、ドアチェーンをかける手の震えに、彼女が抱えている恐怖の深さが滲んでいる。
佐藤はさりげなく部屋の四隅に視線を走らせ、盗聴器がないか、侵入経路がないかを瞬時に確認した。今のところはシロだ。
「もちろんパソコンはありますよね? できればノート型なら最適ですが」 「あ、はい。大学のレポート用のが」
彼女が机の上のノートパソコンを開く。佐藤は「失礼」と言ってその前に座り、買ってきたばかりのイヤホンを袋から取り出した。そして、ポケットからハサミを取り出すと、躊躇なくケーブルを真っ二つに切断した。
「あっ! 新品なのに!」 「これでいいんです。必要なのは音を聞くことじゃない。電気を『視る』ことですから」
佐藤は被覆を剥き、露出した極細の導線に、買ってきた抵抗器を噛ませる。 彼女がポカンと口を開けて見ている前で、佐藤は加工したプラグをPCのマイクジャックに差し込み、反対側の銅線をドアのサムターン(内鍵)の金属部分にテープで貼り付けた。 作業時間は五分もかかっていない。
「これで設置完了です」 「……え? これだけ、ですか? ドアとパソコンが線で繋がってるだけに見えますけど……」 「水川さん。人間は電気を通すって知ってますよね?」 「はい、感電するくらいですから」 「そうです。現代社会では、壁の中の配線や家電から漏れる微弱な電気ノイズ――ハム音がそこら中に溢れてます。我々の体は、常にそのノイズを拾うアンテナになっているんです」
佐藤はPCの画面に向かい、手早くコードを打ち込み始めた。彼女には呪文にしか見えないだろうが、C++で書かれた単純な監視プログラムだ。タイピングが速すぎて、くたびれたおじさんの手元とは思えない。佐藤はわざとらしく「えーと、こうかな」と呟き、速度を落とした。
「この仕掛けは、その性質を利用します。ストーカーが外から鍵穴に鍵を差し込み、その金属部分に指が触れた瞬間――奴の体内の電気ノイズが、鍵とシリンダーを伝って、この線に流れ込んでくる」
エンターキーを叩く。画面に、心電図のような波形グラフが現れた。今は平坦な横ばいだ。
「電圧の変化を、マイク端子が爆音として検知します。試してみましょう。……一度、外に出て鍵をかけてもらえますか?」
6.
彼女は半信半疑のまま、鍵を持って外へ出た。 ガチャリ、とドアが閉まる。 佐藤は息を殺して画面を見つめた。
数秒後、鍵穴に鍵が差し込まれる金属音が微かに響く。 ――カチャ。
ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!!
PCのスピーカーが裂帛の警告音を上げた。画面のグラフは、赤い波形が天を突くように跳ね上がっている。 慌ててドアを開けて戻ってきた水川は、鳴り響くアラーム音に目を丸くしていた。
「す、すごい……! 本当に、鍵を入れた瞬間に……!」 「回される前、触れた瞬間に鳴ります。これなら、相手がピッキングをしようが、合鍵を持っていようが関係ない。ドアに触れようとした時点で、警報が鳴り響く」
佐藤はアラームを停止させ、穏やかな顔で彼女に向き直った。
「相手は驚いて逃げるでしょう。何より重要なのは、『あなたが気づける』ということです。就寝中であっても、この音が鳴ればすぐに警察に通報できる」
水川の表情から、憑き物が落ちたように安堵の色が広がっていくのが分かった。 見えない電気の壁。たった三百円の投資だが、これはどんな頑丈な鍵よりも、彼女の「眠り」を守るはずだ。
「使い方は簡単です。寝る前にプラグを挿して、このアイコンをクリックするだけ。……ああ、それと」
佐藤は最後に一つ付け加えた。
「もし誤作動したり、使い方が分からなくなったら、下の一〇二号室をノックしてください。アフターサービスは無料ですから」
彼女は初めて、年相応の明るい笑顔を見せた。 「ありがとうございます、佐藤さん!」




