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四号警備の佐藤さん  作者: サトウ
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第2話『朝の地図と、通勤の死角』

1.


 警備会社「シールド・セキュリティ」の管制室は、朝の慌ただしさに包まれていた。張り出された勤務シフト表の前で、ひとりの若者が露骨に舌打ちをした。 「……マジですか、五代さん。俺、この人とペアっすか」  若林わかばやしは、二〇代半ばの元格闘家だ。分厚い胸板と、少し短気そうな眉。正義感は強いが、それが全身から「殺気」として漏れ出ている。


 その視線の先にいたのは、佐藤だった。  パイプ椅子にちょこんと座り、安物の水筒からお茶を啜っている。背中を丸め、どこか眠そうだ。 「不満か、若林」  管制責任者の五代が低い声で言った。 「不満というか……四号(身辺警護)ですよ? 現場で足手まといになられたら、こっちが困るんで」  若林の言葉は辛辣だったが、佐藤は怒るどころか、へらへらと愛想笑いを浮かべて立ち上がった。 「いやあ、若林くんの言う通りです。足を引っ張らないように気をつけますから、よろしくおねがいします」 「はぁ……。頼みますよ、マジで」


 今回の任務は、ごく一般的な「四号警備」。  依頼人は二八歳のOL。元交際相手からのストーカー被害に悩んでおり、自宅から会社までの「通勤警護」を依頼してきた。期間は一週間。地味だが、突発的な暴力が発生しやすい、神経を使う案件だ。


「じゃあ、行こうか」  佐藤は制服の帽子を被り、少し曲がったネクタイを直した。  その動きの裏で、彼が今朝の「儀式」を反芻していることに、誰も気づいてはいなかった。


 ――今朝、四時。  佐藤は一〇キロのランニングを終えていた。両足首には片方二キロのウェイト。心拍数は一定。だが、彼が行っていたのは体力作りではない。「測量」だ。  (三丁目の工事現場、カラーコーンの位置が変わった。退路に使える隙間は四〇センチ)  (駅前の自販機が新型になり、鏡面反射の角度が変わった。死角が増えたな)  佐藤の脳内には、この街の「最新バージョンの戦術地図」がインストールされている。準備は、誰よりも完璧だった。


2.


 午前八時。通勤ラッシュの住宅街。依頼人の女性、A子を挟むようにして、佐藤と若林は駅へ向かって歩いていた。


 若林は、ピリピリしていた。すれ違うサラリーマン、自転車の高校生、その一人ひとりを「敵かもしれない」と睨みつけている。 「若林くん」  佐藤がのんびりとした声を出した。 「もう少し肩の力、抜いたら? そんなに睨んでたら、周りが怖がるんじゃないかな」 「何言ってるんですか。いつ襲ってくるか分からないんですよ」 「そうだけどさあ。あ、見てよあの看板。新しいラーメン屋できてる」  佐藤はキョロキョロとよそ見をしている。若林は呆れて溜息をついた。このオッサン、完全に緊張感がない。


 だが、佐藤が見ていたのはラーメン屋ではない。店舗のガラスウィンドウに映り込む、自分たちの「背後」の映像だ。(尾行なし。だが、マンホールの蓋が少し浮いている。A子さんが躓かないよう誘導が必要か)  佐藤は、若林が睨みつける「点」ではなく、街全体の「面」を見ていた。


3.


 駅前のロータリーに差し掛かった時だった。雑踏の空気が、ふいに澱んだ。


 人混みを強引に掻き分けて進んでくる男がいる。目深に被ったフード。ポケットに突っ込まれた右手。焦点の定まらない目。A子が「ひっ」と短い悲鳴を上げた。ストーカーだ。


 若林の反応は、半拍遅れた。敵の発見が遅れたのではない。人が多すぎたのだ。ここで取り押さえれば、周囲の通行人を巻き込むかもしれない――その迷いが、致命的な隙を生んだ。 「くそっ、止まれ!」  若林は慌ててA子の前に立ち塞がろうとする。男がポケットから手を抜いた。鈍く光るカッターの刃が見える。距離は二メートル。男は完全に錯乱している。若林がタックルしても、勢いでA子ごと刺される軌道だ。


 終わった、と若林が思った瞬間。鼓膜を叩く「音」があった。


「若林。四時方向へ確保。下がれ」


 それは、隣にいたはずの佐藤の声ではなかった。低く、冷徹で、金属のような響き。議論の余地を挟まない、絶対的な上位者からの「命令コマンド」。脊髄に直接響くその声に、体育会系として鍛え上げられた若林の肉体は、思考するよりも先に反応してしまった。


「ッ!」  若林は反射的にA子の肩を抱き、言われた通り「四時方向(右斜め後ろ)」へ飛び退いた。  ヒュッ、とカッターの刃が空を切る。もし動いていなければ、若林の首筋が裂かれていたタイミングだった。


 何だ今の声は、と若林が顔を上げた時。そこに佐藤の姿はなかった。


 佐藤は、若林たちが下がってできた空間に、吸い込まれるように身を投じていた。「うわぁっ!」と情けない声を上げ、逃げ遅れた通行人のふりをして。暴漢の懐へ、真正面から突っ込んでいく。 「ど、どいてくれぇ!」  佐藤の手が、暴漢の腕に絡みついたように見えた。二人はもつれ合うようにして、駅ビルの脇にある狭い路地裏――防犯カメラの死角へと転がり込んだ。


 若林の視界から、二人が消える。直後。路地裏の闇から、奇妙な音が響いた。


 ――ゴッ。パキリ。


 肉が打たれる鈍い音と、硬い枝を折るような乾いた音。  悲鳴はなかった。あまりにも短い、一瞬の静寂。


4.


「佐藤さん!」  若林はA子を安全な場所に押しやり、路地裏へ駆け込んだ。血まみれの乱闘を想像して。


 だが、そこに広がっていたのは、奇妙に静謐な光景だった。


 佐藤は、壁際で膝をつき、肩で息をしていた。 「いやあ、怖かった……! 腰が抜けちゃいましたよ……」  いつもの、頼りない佐藤だ。


 そして、その足元。  ストーカーの男が、転がっていた。うつ伏せで、両手を体に沿わせた「気をつけ」の姿勢。外傷はない。血も出ていない。だが、ピクリとも動かない。 「おい!」若林が男の肩を掴んで仰向けにした瞬間、ゾクリと悪寒が走った。男の体は、まるでタコのようにフニャフニャだった。関節が外されているのではない。全身の筋肉が、強制的にリラックスさせられているのだ。男は意識があるらしく、涙とよだれを垂らしながら、開いた瞳孔で虚空を見つめていた。恐怖で声が出ないらしい。


「あ、危ないから触らない方がいいよ」  佐藤が立ち上がり、ふらつきながら男の横を通る。その時。  ガシャッ。佐藤の革靴が、男の落としたカッターナイフを踏みつけた。 「あ、いけね。踏んじゃった」  佐藤は靴底をクリクリと回し、申し訳なさそうに足を上げた。カッターは無惨に粉砕されていた。(違う、と若林の直感が告げる。あれはドジじゃない。指紋を消したんだ)


「彼、僕につまづいて、壁に頭ぶつけちゃってさ。運がよかったねえ」  佐藤はへらへらと笑い、A子に向かって「もう大丈夫ですよ」と手を振った。


5.


 警察への引き渡しを終え、帰りの車内。若林は、運転席の佐藤を横目で盗み見た。報告書には「襲撃者の自損事故」として処理された。すべてが丸く収まっている。だが、あの瞬間。あの「命令」の響きだけが、若林の耳にこびりついて離れない。


「……佐藤さん」 「ん? どうしたの、若林くん。あ、コンビニ寄る? 」 「いや、いいです……」  若林は言葉を飲み込んだ。今の佐藤は、どこからどう見ても、ただのくたびれた中年警備員だ。あの声は、自分の聞き間違いだったのか?


 佐藤はハンドルを握りながら、心の中で小さくあくびをした。(あそこの路地、室外機からの水漏れで少し滑りやすくなっていたな。明日のランニングで確認しておくか)彼にとって、今日の勝利はすでに過去のこと。重要なのは、明日の「地図」を更新することだけだった。

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