第1話「透明な履歴書」
1.
六畳一間の畳に、西日が長く伸びていた。 築三〇年の木造アパート。壁は薄く、隣人のテレビの音が漏れ聞こえる。だが、男にとってそれは騒音ではなく「平和の音」だった。
佐藤、四二歳。 彼は段ボールから出したばかりの電気ポットを、部屋の隅にあるコンセントに繋いだ。荷物は驚くほど少ない。衣装ケースが一つと、布団一式。そしてコンビニで買ったばかりの日用品。 壁に家族写真はなく、棚に趣味のコレクションもない。まるで昨日までこの世に存在していなかったかのような、無味乾燥な部屋だ。
佐藤は立ち上がり、玄関へ向かった。 郵便受けのフタの裏側に、透明なセロハンテープを五ミリ四方に切ったものを、そっと貼り付ける。 外からは見えない。だが、誰かが外から郵便受けを覗こうとしてフタを押し込めば、テープは剥がれ落ちる。 帰宅した時、このテープが剥がれていれば「侵入者あり」のサインだ。
「……また、やってしまった」
佐藤は苦笑し、テープを剥がそうとして――やめた。 指先に染み付いた習慣は、そう簡単に消えるものではない。 彼は万年床になりそうな布団に腰を下ろし、安物のスーツのシワを撫でた。 今日からここで、佐藤というありふれた名前で、ありふれた人生を送る。誰にも追われず、誰の命も奪わない。 ただの、しがない中年男として。
2.
「警備……ですか」 面接官の五代は、履歴書と佐藤の顔を交互に見比べた。 五代は元県警の捜査一課出身だ。その鋭い眼光が、佐藤のヨレた襟元と、覇気のない猫背を射抜く。 「四二歳。未経験。職歴は……『フリーランスのコンサルタント』として海外放浪、とあるが」 「はあ、まあ。便利屋みたいなものでして。あちこちフラフラと」 佐藤は膝の上で手を組み、卑屈な笑みを浮かべた。 「その歳で再就職は厳しいよ。ウチは身辺警護――いわゆる四号警備も扱うから、現場はキツイぞ」 「はい。でも、立っているだけなら得意なんで」 五代は鼻を鳴らした。 「……まあいい。人手不足なのは事実だ。ちょっと身体を見せてもらおうか」
併設された道場には、汗の臭いが充満していた。 教官役の大柄な男が、ゴム製のトレーニングナイフを構えている。 「暴漢だと思って対処しろ。殺す気で行くぞ」 「え、あ、はい……お手柔らかに……」 佐藤がおっかなびっくり構えた瞬間、教官が踏み込んだ。 鋭い突きが腹部を狙う。素人なら反応すらできない速度だ。
佐藤は――悲鳴を上げて腰を抜かした。 「うわあっ!」 足がもつれ、無様に体勢を崩す。 だが、その「もつれた足」が、絶妙な位置に滑り込んでいたことに気づいた者はいない。 佐藤は倒れ込みながら、教官の突き出した腕の外側に、自分の体重を預けたのだ。 回転扉の原理だ。 突進の勢いを殺さず、軸だけを少しずらす。 教官の体は佐藤の上を通過し、勢い余って前方のマットへ激しく転がった。
ドサッ!! 「痛っ……!」 「す、すみません! 怖くてつい足が!」 佐藤は慌てて駆け寄り、教官を助け起こそうとする。 五代は腕組みをしたまま、眉をひそめた。 (今のは……偶然か? 完全にビビって腰が引けていたが……) 結果として、佐藤は無傷。教官は自爆。 「……採用だ。契約社員、日給月給制。文句ないな」 「あ、ありがとうございますぅ!」 佐藤はペコペコと頭を下げた。その目元が、一瞬だけ冷たく凪いでいたことを、五代は見逃した。
3.
採用祝いと言っても、祝ってくれる相手はいない。 佐藤は帰路のコンビニで、「肉まん」と「ワンカップ大関」をカゴに入れた。 深夜の店内は白い蛍光灯が寒々しい。 通路の真ん中で、金髪の若者三人がスマホを見ながら大声で笑っていた。 「マジかよ、ウケる!」 通路を完全に塞いでいる。店員も怯えて注意できない。
佐藤は、歩調を変えなかった。 彼らの存在が見えていないかのように、自然な歩幅で近づく。 ぶつかる、と思った瞬間。 佐藤の肩が、若者たちの作る数センチの隙間を、水が流れるようにすり抜けた。 誰も触れていない。空気すら揺らさない移動。
「……あ?」 若者の一人が、背後を通り過ぎた気配に気づいて振り返った。 無視されたことが気に入らなかったらしい。 「おいオッサン! 何シカトこいてんだよ!」 佐藤はレジで会計を済ませ、自動ドアへ向かう。 「待てって言ってんだろ!」 リーダー格の男が、佐藤の胸倉を掴もうと腕を伸ばした。
その時。 防犯カメラにも映らないほどの速度で、世界が反転した。
男の突き出した腕の内側を、佐藤の手が蛇のように這い上がった。 そして。 親指と人差し指が、男の喉仏を、優しく「摘」んだ。
ピタリ。 男の動きが凍りつく。 痛みはない。だが、生物としての本能が警鐘を鳴らしていた。 その指先に、ほんの少しでも力がこもれば、軟骨が砕け、自分は一生呼吸ができなくなるという確信。 佐藤の指は、まるで高級なスーツについた糸くずを取り除くような、繊細で丁寧な手つきだった。
佐藤は、男の目を見て言った。 心底、申し訳なさそうに。
「あ、ごめんなさい」
その目は笑っていない。 怒ってもいない。 ただ、道端の石ころにつまずきそうになった時のような、無機質な感情だけがあった。
「……邪魔でしたよね。すぐ行きますから」
スッ、と指が離れる。 佐藤は小さく会釈をして、自動ドアの向こうへ消えた。 残された男は、その場に崩れ落ちた。 「ゲホッ……カハッ……!」 喉を押さえて激しく咳き込む。潰されてなどいない。触れられただけだ。 なのに、冷や汗が止まらなかった。
4.
アパート近くの公園。 ブランコに座り、佐藤は肉まんを頬張った。 温かい湯気が、冷えた夜気に溶けていく。
「……つい、反応してしまった」
自分の右手を見る。 平和な国だ。喉を潰す必要なんてどこにもない。 だが、身体はまだ「戦場」を記憶している。 リハビリが必要だな、と佐藤はワンカップを煽った。 明日から、誰かを護る仕事が始まる。 誰も傷つけず、誰にも気づかれず、ただ平穏に給料をもらう。それが目標だ。 「……肉まんは、美味いな」 佐藤は誰に聞かせるでもなく呟くと、しわくちゃのスーツの背中を丸め、闇に溶けるように帰路についた。




