83.遠ざけられし者
王弟の執務室に、封蝋が押された一通の文書が届いたのは、まだ朝靄の残る時間だった。
文を発したのは、王宮。
宛名は、ノクス。
ただし、王弟に先に目を通すよう伝えられた。
(……このタイミングで?)
そう思いながら、王弟は手に取った羊皮紙の封を切る。
文面を追ううち、静かに眉が寄っていく。
【ノクス殿
かねてより王国の繁栄と平穏に尽力されていること、深く感謝申し上げる。
このたび王宮より、汝に新たな任を命ずる。
グレイシャ帝国との親交をさらに深め、文化的・政治的交流を促進すべく、貴殿を皇宮に遣わし、王国の代表として仕えさせることと相成った。
貴殿の識見と才能は、他国においても必ずや重んじられ、両国の友好の礎となることを信じて疑わぬ。
また、この任は貴殿にとっても、より広き視野と経験を得るまたとない機会であると信ずる。
出立の詳細は、別紙に記載する。
国を代表する者としての自覚と誇りを胸に、新たな任務に臨まれんことを。
王宮文書局代筆にて此処に命ず。
アルナゼル王国・王宮より】
丁重な文言に包まれてはいたが、文の裏にある意図を読み解くのは難しくない。
表向きは、文化と友好の名を掲げた交流。
だが本質はーー“人質”。
ノクスは王弟の息子、すなわち王子たちの従兄弟である。
血筋を盾に、万が一の交渉材料とするには、これ以上に適した駒はいない。
(……やはり、そういうことか)
息を吐きながら、文を机に伏せた。
そして、その文書や出立の詳細とは別に添えられた、もう一枚の通告書。
そこには先の文面以上に重い一文が添えられていた。
“この任、出立前日まで本人に告げるべからず。
口外の一切を禁ず”
この言葉が表す意味も、すぐに予想がついた。
あの子を、アリウスから遠ざけるための策だ。
アリウスには、正式にはまだ王位継承権がない。
だがいつその権利を手にするかわからないし、得た場合、あの優秀さと人柄は相当な脅威だろう。
だからアリウスに王位を“継がせたくない”者たちは、その周囲から崩していく。
信頼を寄せる者を順に削ぎ落とし、ひとりにする。
そのやり口は、あまりに露骨で、無慈悲なほど冷たい。
ノクスに知らせれば、表向きは黙っているふりをしても、きっと伝える。
そう見なされたからこその通達だろう。
彼をアリウスの側においたのは、単なる思いつきでもこの家から追い出すためでもない。
彼のような少年になら、あの子も心を開いてくれると期待したのだ。
押しつけたと言われれば、それまでだ。
それでも、頼るしかなかった。
ノクスの様子は、定期的な報告で耳にしている。
聞くたびに、この選択が間違ってなかったと感じられた。
家にいた頃には見せなかった"感情”を、彼らの前では出している、と。
皮肉と不器用な優しさをにじませながら、年相応のやりとりをしているという。
……本音を言えば、このまま彼らのそばにいてほしかった。
(せめて自分の言葉で伝えたかった。だが結局、私は何もできない)
告げた瞬間に、ノクスの身に何が起きるかわからない。
王命に抗う力など、自分にはない。
願わくばーー異郷に渡っても、どうか生き延びてほしい。
……あの子が、駒のように使い捨てられる未来など、見たくない。
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出立予定日の前日、王弟はようやくノクスを呼び出した。
以前と変わらぬ、やや不機嫌そうな顔。
アリウスたちの前では、感情を見せることもあると聞く。
けれど、王弟に向ける顔は相変わらずだった。
何も言わず、伝令の書状を差し出す。
訝しげに中の文書に目を通したノクスは、視線を逸らさないまま呟いた。
「……随分急な話だな」
その言葉に、痛みが走る。
本当はもっと前に決まっていたーーけれど、彼はまだ気づいていない。
「王命だ。逆らうことはできない」
できるだけ平静を装いながら答える。
少し間を置いて、準備はすでに整えてある旨を付け加えた。
「持っていきたい物があるなら、自分で用意しておけ」
まるで突き放すような言い方になったのは、なぜだろう。
彼の前に立つと、いつも言葉が棘を持ってしまう。
ノクスは、ほんの僅かに眉をひそめて問いかける。
「すぐ帰ってこられんのか?」
「……それは、わからない」
本当は知っていた。帰れないのだと。
だがその言葉に、彼はふっと目を逸らす。
「まあ、いっか。どうせその程度の任務だろ」
それ以上は聞かなかった。
知ったところで、変わらないと理解しているのだろう。
ノクスは書状を手にしたまま、静かに背を向けた。
そして、振り向かずに尋ねる。
「アリウスたちは知ってんのか?」
言葉に詰まった。
嘘でも「知っている」と言えばよかった。
だが、なぜかそれができなかった。
沈黙を肯定と受け取ったのか、ノクスは肩をすくめて言った。
「まあ、知ったら知ったでうるせぇか」
皮肉とも、諦めとも取れる声。
そしてそのまま、何も言わずに部屋を出た。
彼にとっては、持っていきたい物など何もないのだろう。
ただ、一人きりになりたかっただけなのかもしれない。
去っていく背に、何も声をかけられなかった。
――また自らの手で、あの子を遠ざけてしまった。
翌朝。
“護衛を装った監視”を連れて、ノクスは帝国へと出立した。
窓から見送る王弟の目には、その背が、もう二度と届かぬほど遠く映った。
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俺は馬車に揺られながら、窓の外を眺めていた。
視界の端で、城壁が遠ざかっていく。
何度となく見てきたはずの景色が、今日はやけに静かだった。
流れる風景をぼんやりと見つめながら、ひとつため息をつく。
そして、改めて通達文に視線をすべらせると、自然と苦笑が漏れた。
文化交流? 代表任務? 聞こえのいい飾り文句を並べているが、本質は違う。
俺はただ、“アリウスから引き離されただけ”だ。
王宮の誰かにとって、この存在が邪魔だったから。
ーー別に、わかってたけどな。
あいつのそばにいれば、少なからず口出しをする。
危険が及ばないよう、目も光らせていた。
気に入らねぇと思う奴らも当然いただろう。
だからって、よりにもよってグレイシャ帝国かよ……。
相当な暴君が治めてる国、って話だ。
命令に従えねぇ奴は、即処刑だとか。
仮にも他国の使者にそんなことすれば、さすがに国家問題になるはずだが。
むしろアルナゼルにとっては、グレイシャに対して強く出る口実が作れるか?
……だが、それはそれで胸糞悪ぃ。
それに国家間の問題が起きれば、アリウスたちにも被害が及ぶ可能性がある。
それだけは、嫌だった。
まあ、斬られねぇ程度には大人しくしとくか。
ぼそりと言い捨てて、窓の外を見るのをやめた。
だが、この先にある出会いが俺の運命をまた狂わせるとは、想像すらしてなかった。




