80.触れられなかった日々の扉
重い扉が、軋んだ音を立てて開かれた。
屋敷の中には明かりが灯っていたが、温かみは感じられなかった。
玄関ホールに飾り気はなく、壁を見れば絵画が色褪せたまま、無造作に掛けられている。
ただし掃除は行き届いているようで、埃一つ見当たらないが、その整い方すら「必要最低限」という印象を与えた。
空間には人の気配が薄く、生活の息遣いがまるでない。
(……まるで時間が止まってるみてぇだ)
ノクスは胸中で呟きつつ、ホールの先にある廊下へと進んだ。
すると奥から控えめな足音が、静けさを割るように近づいてくる。
現れたのは、執事の格好をした年配の男だった。
歩みには年齢の影が差しているが、その姿には屋敷を支える者の誇りが滲んでいる。
執事はノクスの姿を見るなり、目を見開いた。
「……ノクス様……?」
その声には驚きと戸惑い、そして少しの迷いが混じっていた。
想定内の態度だったのか、気にすることなくノクスは問いかける。
「ジジイに用がある。今どこだ?」
ぶっきらぼうな口調に、執事は一瞬だけ言葉を失った。
そして返答に困るかのように、わずかに視線を逸らす。
その様子に、ノクスは露骨に深く息を吐いた。
「会わせてぇ奴がいるんだよ」
そう言って、後ろに控えていたヘリオスを振り返ると、抑揚のない声で言葉を続ける。
「……布、取れ。テメェの顔が要る」
ヘリオスがやや戸惑ったようにシュゼルを見ると、彼は何も言わず頷く。
その合図を受け、ヘリオスが布に手をかけた瞬間、執事の視線がわずかに鋭くなった。
空気が一瞬、張り詰める。
しかしその姿を見た瞬間、執事の目に驚きが宿った。
言葉を詰まらせ、息を呑む。
そして一層背筋を伸ばした後、深々と頭を下げた。
「……こちらへ」
その声は震えていたが、動きには迷いがなかった。
ノクスたちは執事の後に続き、王弟の私室へと向かう。
歩くたびに、廊下に積もった静けさが靴音に吸い込まれていくようだった。
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長い廊下の先、屋敷の一番奥ーー時間が止まったような一室の前で、執事が足を止めた。
外の気配がまるで届かないほど、そこは深く、重たかった。
執事が扉を軽く叩く。
「殿下、よろしいでしょうか」
数秒の間の後、奥から低くかすれた返事が返ってきた。
執事が、音もなく扉を開く。
中は広く、窓際に置かれた車椅子に一人の男がいた。
淡い金の髪はところどころ白くなり、背筋は細くなっていたが、どこか品を保っている。
振り返ったその瞳には、かつて王族と呼ばれた者に相応しい光が宿っていた。
そして視界にノクスを捉えた途端、体を僅かに固くする。
「……ノクス、か……?」
微かに、震えた声。
「久しぶりだな」
対してノクスは、感情の欠片もない声で返した。
親子の再会にありがちな温もりなど、そこには微塵もない。
王弟は何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
口元が小さく動くだけで、声は出ない。
その姿に、ノクスは不快感を隠しもせず、あからさまに眉をひそめた。
「言っとくが、来たくて来たんじゃねぇぞ。だが、ちょっと面倒くせぇことになっててな。……テメェの協力がいる」
低くこぼすように言い切ると、ノクスはヘリオスを振り返る。
「入れ。……テメェに会いに来たのは、こいつだ」
促されたヘリオスは、緊張した面持ちで前に出た。
その視線が無意識にシュゼルへ向くと、彼はまた静かに頷いて見せる。
部屋へ足を踏み入れた二人。
その姿を見た王弟の瞳が、大きく見開かれた。
「……っ」
驚愕。そして、確かな喜びがその目に浮かぶ。
「……本当に……生きていたのか、アリウス……」
掠れた声に、抑えきれない感情が滲んでいた。
噂で耳にしていたのかもしれない。だが、それでもーー
こうして生きて現れた甥の姿は、想像を超えるものだったのだろう。
「すまないが、私はもう歩くことができない。このまま話すことを許してくれ」
「もちろんです。……こちらこそ、突然の訪問をお許しください」
柔らかな間が流れ、部屋の空気がわずかに緩んだ。
その中でノクスの肩だけがわずかに強張り、視線を合わせることなく踵を返す。
何も言わずに歩き出す彼の背に、シュゼルが問いかけた。
「どこへ行く」
ノクスは前を向いたまま、短く答える。
「……俺はもう、必要ねぇだろ。テメェらで説明しとけ」
まるで逃げるかのように、部屋から出て行った。
その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、王弟は長く息を吐いた。
ノクスが去った方向と王弟を見比べながら、ヘリオスは躊躇いがちに口を開く。
「……ノクスと、何かあったんですか?」
ヘリオスの問いに、王弟はしばし沈黙した。
視線を膝に落とし、呼吸を一度深く整える。
「ノクスが私を恨むのも、無理はない。あの子に対して、私は……父親らしいことを、何一つしてやれなかった」
その声には、悔いと、重たい思いが滲んでいた。
「アルナゼルの王族にありえぬ黒髪に赤い瞳ーー。
あの子が幼い頃、ふとした瞬間に、本当に自分の息子なのかと疑ってしまった。
それが、伝わらなかったわけがない」
子供が親の気持ちに敏感だということを、知っている。
固く握られた指先が、膝の上でかすかに震えていた。
「あの子の力のことも……心も……何も理解しようとしなかった。
そして、グレイシャ帝国に行かされる事になった時、私は……止めることすらしなかったのだ」
「……」
沈黙が落ちた。
ヘリオスも、シュゼルも、すぐには何も言えなかった。
やがて、王弟がゆっくりと顔を上げる。
「君たちは、幼い頃ノクスと共に過ごしていたはずだが……。あの子がグレイシャ帝国に行った経緯を、知っているか?」
「……いいえ」
ヘリオスとシュゼルが、同時に小さく首を振る。
「……そうか。箝口令が敷かれていたのだ、無理もない。
突然、いなくなったように見えただろう?
……少し、聞いてほしい。あの子のことを」
王弟の瞳に、深い後悔と、伝えなければならないという決意が宿っていた。
ヘリオスはゆっくりと頷く。
そしてーー王弟の語りは、ノクスの過去へと沈んでいった。




