77.嫌悪に縁取られた決心
晴れているのに、妙に空気が重かった。
波は穏やかなはずなのに、胸の内側がざらついている。
視線の先、水平線の向こうに、うっすらと大陸が見えてきていた。
アルナゼル王国。あの国が、そこにある。
「……もうすぐ着くんだね」
ヘリオスの呟きに、誰もすぐ返さなかった。
代わりに、ウィスカが彼の肩の上で耳を動かす。
海風を受けながら、シュゼルの癖のない髪が静かに揺れる。
その視線は常に、ただ一人――ヘリオスだけを見ていた。
「緊張して当然だ。君の命を狙う者たちの所へ乗り込むのだから」
シュゼルが低い声で言った。
「とはいえ、いきなり宰相の元へ行くのは得策ではない。既にある程度の証拠はあるが……」
「そうだな、もっと確実なモンがあった方が話は早ぇ。あの悪知恵ばっかり働く野郎のことだ、言い訳なんていくらでも用意してんだろうからな」
宰相たちの所へ行くにしても、より確固たる証拠を手に入れてからの方が良い。
そのため、まずは城内にある彼の執務室を調べる必要がある。
無論、留守を狙って。
ヘリオスは二人の言葉に頷く。
「問題はどうやって城内に入るかだ。隠し通路を使えれば話は早いが……残念ながら、ヘリオスすら知らないのだろう?」
「ああ。知ってるのは、国王である父上と……上位の王位継承者だけ、って聞いたことがある」
沈黙が落ちた。
誰もが考えを巡らせる中、ノクスはひときわ深く息を吐く。
(……言いたくねぇ。できれば、こんな場面であいつの話をしたくもねぇ)
けれど、時間は待ってくれない。
こいつーーアリウスが、自分の国を取り戻すためにここまで来たのなら。
「……仕方ねぇな」
無意識に眉が寄る。声も、わずかに濁った。
「会いたかねぇが、知ってる奴なら心当たりはある」
その言葉に、皆の視線がノクスに集まる。
彼は顔を上げると、眉間に皺を寄せたまま言った。
「あのジジイなら、知ってんだろ」
ノクスの示すその人物が思い当たったのか、シュゼルは僅かに目を細める。
「……まさか、王弟殿下のことか?父親に対して、その呼び方は感心しない」
「どう呼ぼうが俺の勝手だろ。いちいち文句つけんじゃねぇ」
呼び名を口にするだけで、胃が重くなる。
忘れたつもりだった。捨ててきたと思ってた。
なのにこういうときに限って、頼るしかない。
ーーほんと、気に食わねぇ。
「え……叔父上?」
ヘリオスは小さく息を吸い込み、わずかに目を見開く。
驚きと戸惑いが入り混じったその顔に、しかしどこか安堵めいた色が差す。
王弟殿下は、甥であるアリウスをとても可愛がっていたらしい。
その記憶がふと胸をよぎり、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
その様子を見て、ノクスはため息をつく。
「一年くらい前、戦で重傷負って、継承権を剥奪されたらしい。それ以来町外れの屋敷に引っ込んで、今は世話役の使用人と二人暮らしなんだとか」
「よく知っているな。帝国まで届くような話だったのか?」
シュゼルの問いに、ノクスは面倒くさそうに答える。
「前にババァから、一通だけ手紙が来たんだよ。……マジでその一度だけな」
四年間、音沙汰の無かった母親からの、突然の手紙。
端から期待なんてしていなかったが、その内容は彼にとって、本当にどうでもいいものだった。
“父はもう役目を終えた”とか、“私は実家に戻ります”とか……ただの報告と愚痴ばかり。
息子に対する心配の言葉など、一言もなかった。
「愚痴る友達もいねぇのかよ」と鼻で笑いながら、手元に炎を灯し、焦げた匂いとともに便箋がゆっくりと黒く縮んでいった。
その光景を、しばらく無言で見つめていたのを思い出す。
ヘリオスは言葉を失い、視線を逸らした。
シュゼルは何も言わない。ただ、静かに立っている。
よほど父親に会いたくないのか眉間のシワを深めながらも、ノクスは続けた。
「癪だが、今あいつ以外に聞けそうな奴はいねぇ。王城から出てるなら好都合だ」
存命の者で通路を知っているとなると、国王、第一王子、第二王子、王弟ということになる。
しかし、国王と第二王子は幽閉されている。
第一王子に至っては会えるはずもなく、仮に会えたとしても捕まるだけだ。
ならば、王弟殿下に会いに行く以外、選択肢はないだろう。
「……じゃあ、王都に着いたらまず叔父上に会いに行こう」
ヘリオスの声に迷いはない。
その決意を、誰も否定しなかった。
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港が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
帆船や小舟がひしめき合う岸辺には、人の波が絶えない。
喧騒と潮の匂いが混ざり、遠目にも賑やかさが伝わってくる。
「この町、思ったより活気があるんだね」
ヘリオスが船の縁から身を乗り出し、目を細めた。
風に揺れる金色の髪を抑えながら、その目にはどこか懐かしげな色がある。
王城にいた頃、まだ未成年だった彼は、視察と言っても王都以外には行ったことはなかった。
だからこの町に直接来たことはなかったが、家の作りや街の人の服装などから、「この国」らしさが見て取れたのだろう。
「顔は隠しておけ。特にテメェは」
港に降りる前にかかったノクスの声に、ヘリオスが首をかしげた。
「そんなに目立つかな?」
ノクスは一瞬だけ彼を見据え、口の端をわずかに歪めた。
「あのなぁ……。王都じゃなくても、テメェの顔を知ってる奴がいるかもしれねぇだろ。正体がバレたらアウトだぞ」
ノクスの赤い瞳が細められ、鋭くヘリオスを射抜く。
低く押し殺した声に、港の喧騒すら遠のいた気がした。
成人した王族の顔は肖像画で広まるため、地方でも知る者は多い。
ただし、ヘリオスは成人する少し前に城を出ているので、王都外では顔を知らない者も多かった。
だが、誰も知らないとは限らない。
王都に出入りしている商人などがいれば、バレる可能性はある。
ノクスの言葉に、シュゼルも頷いた。
「王都へ辿り着く前に捕らえられたら、元も子もない」
表向きは死んだことになっているアリウスだが、一部では生存を知る者もいる。
刺客が送られてきたり、ノクスが噂を聞きつけたことが何よりの証拠だ。
ここにいることが知られたら、捕まるのは時間の問題だろう。
三人はそれぞれ、布を巻いて顔を隠す。
この港町には、頭や口元を覆う文化を持つ民族も多く、深く巻いた布もこの町では珍しくない。
港に足を踏み入れると、熱気が肌を打つと同時に、ウィスカがヘリオスの肩の上で鼻をひくつかせる。
屋台の香辛料、果物の甘み、魚の匂いーー
さまざまな香りが渦を巻いて流れ込んできた。
言葉も服装も異なる人々が行き交い、異国の雰囲気が街を彩っている。
「王都までは、ここから馬車で三日はかかるな」
シュゼルが通りを見渡しながら呟いた。
魔術で移動はできないのかというレイジの問いに対し、ノクスは言う。
「全員は運べねぇ。俺ともう一人が限界だ」
転移魔術といっても万能ではない。
術者によって、移動距離も運べる人数もバラバラだった。
二人以上同時に転移させられる者すら稀である。
「グレイシャの時は転移陣があったが、ここにはねぇからな。無茶すりゃ変な所に移動しかねねぇ」
「じゃあ、馬車を探すしかないね」
ヘリオスの言葉に頷き、乗り合い所を探しながら歩き出すと、直後その背後に声がかかった。
「ノクス様」
抑えられた声色に、足が止まる。
聞き慣れた響き――そして、あまり聞きたくない呼び方。
振り返ると、数人の青年たちが、港の喧騒の中で目立たぬよう静かに立っている。
見覚えのある黒を基調とした軽装で、金属音を極力抑えた装備を身につけていた。
厚手の外套は動きやすく裁たれ、腰には短剣や小型の袋が目立たぬよう隠されている。
雑踏に溶け込むためか、布の色合いは潮風に褪せた黒と灰。
気配を偽装して周囲と馴染んでいるが、その実は戦闘と潜入の両方に慣れた者たちだ。
「……何でここに?」
ノクスの目が細まる。
現れたのは、グレイシャ帝国の密偵だった。
帝国内に潜伏し、時に他国に忍ばせる、影の組織に属する者たちだ。
「近隣国で調査をしていたのですが、昨日陛下より命を受けました。ノクス様がこちらに向かわれているので、至急王都まで護送するようにと」
青年は淡々と告げた。
「馬車を手配済みです。皆様でご利用ください」
「……は?」
ノクスは眉間を押さえた。
(……言ってねぇぞ、そこまでは)
アイゼルには、定期的に報告はしている。
だが、それはあくまで事後報告――「どこにいたか」「何が分かったか」程度の、最低限の内容に過ぎない。
(次にどこへ行くか、誰と会うか、なんて……書いた覚えはねぇ)
ましてや、アルナゼル王国の中枢に首を突っ込むなど、報告できるはずがなかった。
なのにこのタイミングで、馬車の手配まで済んでいる。
「移動人数も伝えてねぇんだが」
「ご心配なく。必要分ご用意しております」
「……」
ノクスは息を吐いた。
(頭、回りすぎだろ……)
皮肉でも称賛でもない。ただ、喉の奥で苦笑に似た感情がくすぶった。
(毎度毎度、こうして先回りされると、命令されてるんだか世話焼かれてんだか分からなくなる)
詳細を言わなくても伝わってしまう。
先を越され、導かれる。
(……ムカつく。けど)
そう思いながらも、自分はその“先読み”に助けられている。
(――結局、俺はあいつに依ってんだろうな)
そう認めるのが、余計に癪だった。
だからこれ以上考えないように、足を速めた。
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手配された馬車は一見すると、町の乗合と変わらない外観だった。
だが中は静かで、質の良い座席に緩やかな揺れ。
訓練された馬が引いているのだろう、走行音も控えめだった。
二台に分かれて乗り込み、屋敷へ向けて馬車は走り出す。
「これなら、一日早く着けるな」
シュゼルがぼそりと呟く。
ノクスは窓の外、流れていく風景を眺めたまま、低く漏らす。
「……借り作っちまった……」
「でもすごく助かるよ。今度ちゃんとお礼言わないと」
その言葉に、空気がほんの少し和らいだ気がした。
だがノクスだけは、わずかに唇を歪める。
「……言えたらな」
それが何を意味するのか、問い返さなくても分かった。
空気に溶け込むほどの微かな声に、それぞれが小さく頷く。
馬車の一角では、セディが無言のまま窓の外に視線を向けていた。
揺れに身を任せて、騎士らしく冷静な面持ちを崩さない。
車輪の規則的なきしみと馬の蹄の音だけが、沈黙の中で淡々と続いていた。
ヘリオスの口調が少し揺れているのは、“アリウス”としての自覚と、“ヘリオス”としての自然体がまだ混じっているためです。
彼自身がどちらか一方に定まっていない状態なので、あえてそのままにしています。




