74.光継ぐ者の決意
船室に戻った三人は、しばらく無言だった。
誰もが言葉を選びかねている空気の中、シュゼルは椅子に腰かけたヘリオスを一瞥し、ゆっくりと手元に視線を落とす。
手の中には、先ほどベルナルドから渡された一枚の紙。
誰にも気づかれぬよう、それをそっと開いた。
開かれた紙面に走る、予想外の文字列。
それを見たシュゼルは、わずかに目を見開く。
対面の棚に腰かけていたウィスカが、その反応に気づいたが、何も言わなかった。
ただ、尻尾の先を小さく揺らしながら、シュゼルの顔を見つめている。
……彼の変化が、それだけで何かを物語っていた。
そして。
コツ、コツ、と扉を軽く叩く音がした。
「……入るぞ」
開けられた扉から現れたのは、ノクスだった。
無言で部屋の中を見回すと、一拍置いて、ヘリオスに視線を向ける。
「……変わったな」
「そうかな」
その短い言葉の奥に、明確な“変化”の痕跡があった。
ノクスは、さきほどベルナルドたちと情報整理を終えたあと、ヘリオスの様子を見に彼らの船室を訪れていた。
そして、すでに目覚めていたヘリオスたちとともに、談話室へと向かったのである。
その時から、「違和感」はあった。
いつものヘリオスより、僅かに落ち着いた雰囲気。
纏う空気も、どこか違う。
そして、さきほどの“アルナゼル王国”に対する反応で、違和感は確信に変わった。
記憶を失っている彼が、あの国名に反応するはずがない。
シュゼルから話したとも思えない。なら――
「……テメェは、“誰”だ?」
その問いに、ヘリオスはふっと笑う。
「ヘリオスだよ。……今は」
“今は”――それは、別の名で生きていた記憶を思い出した者の言葉だった。
ノクスの中で、その確信が静かに形を成していく。
やはり、戻っていたのか……と。
ノクスは少しだけ目を細め、その事実を静かに受け入れた。
「……いつからだ」
「完全に戻ったのは、さっき。でも、なんとなく感じてはいた。自分には、どこか戻る場所があるって」
ヘリオスは静かに語った。
「だけど、知るのは少し怖かった。……自分が何者なのか思い出して、それがとんでもなく重たいものだったらどうしようって。
ーー知らないままでいた方が、ずっと楽だったのかもしれない」
言葉に嘘はなかった。
だが、それでも彼は、多分もう“選んでしまった”のだ。
ノクスは黙ったまま、腕を組む。
「お前は、これからどうするつもりだ?」
その問いは、感情を極力廃したものだった。
けれど、その奥に揺れる何かを、ヘリオスは感じ取る。
「……俺は、アルナゼル王国を救いたい」
その一言に、空気が張り詰めた。
ノクスは無意識に、彼の顔を見る。
「母上は、俺を守るために……命を捨てた。逃げて、"普通の人間"として生きてほしいと――そう願ってくれた。でも……」
ヘリオスはそっと、自分の手を見つめた。
「俺はもう、ただ逃げるだけじゃいられない。……あの国を、民を、放っておけないんだ」
……ノクスは、沈黙を保った。
けれどその瞳の奥には、複雑な光が揺れている。
その様子を見たヘリオスは、そっと目を閉じ、呼吸を整えた。
次の瞬間ーー
彼の手に、淡い光がふわりと集い始める。
「!」
ノクスが目を見開く。体に感じる共鳴波が、「これは魔術ではない」と伝えていた。
「それは……」
「まさか、今更使えるようになるとは思わなかった」
光が掌から溢れ、その中で、ヘリオスの瞳が鮮やかな緑に染まる。
ーー波継の資質を持ちながら、長く目覚めなかった“光の響術”。
そしてそれは、アルナゼル王国王位継承者の証でもあった。
「俺はもう、王位を継げる立場になった。……だから、行くよ。あの国を取り戻す。宰相の思い通りには、させない」
ヘリオスの声は静かだった。
けれど、そこに宿る決意は、誰の耳にもはっきりと伝わる。
彼の背筋はまっすぐに伸び、もう迷いはなかった。
この声音、この目、この背筋。
(……ああ、君は戻ってきたんだな)
シュゼルの中に、懐かしさと誇らしさとが、痛いほど入り混じっていた。
そして、彼はゆっくりと立ち上がり、ヘリオスの前へと歩み出る。
ヘリオスが差し出したその想いに、何の躊躇いも見せず、膝をついた。
「君がそれを望むならば、私はそれに従おう」
それは、今までのように“幼馴染”として寄り添う姿ではない。
“従者”としてーーかつての忠誠の誓いを、再び捧げたのだ。
そんなシュゼルの姿に、ヘリオスは優しく微笑む。
「ありがとう」と呟くヘリオスの言葉を聞きながら、シュゼルはそっと、手元の紙片を握りしめた。
ヘリオスは、次にノクスへと視線を向ける。
「ノクス。君が今、グレイシャ帝国に仕えてることは知ってる。……それでも、力を貸してほしい」
その声は、真っ直ぐで揺るぎなかった。
言い終えると同時に、ヘリオスは深く頭を下げる。
ノクスは、やれやれとばかりに長く息を吐いた。
「ったく……王を目指すってのに、簡単に頭なんか下げてんじゃねぇよ」
腕を組んだまま、わざとらしく他所を向く。
けれど、次に発された言葉は、彼なりの本音だった。
「どうせ、組織の殲滅は俺の任務だ。……ついでに国も救ってやる」
感情のない口調。
だがその瞳には、かすかな熱が宿っている。
彼が、かつて願った未来。
幼かったあの日、“アリウス”が王になることを、誰よりも願っていた自分の姿を――彼自身が忘れてはいなかった。
そのことを、言葉にはしないまま。
やがて、静かに三人の視線が交差する。
それぞれが、異なる道を歩いてきた。
けれど今、この瞬間だけは、同じ未来を見つめている。
ただし、それは同時に、別れの兆しでもあった。
「あの国へ行くなら、……もう、この船には戻れないな」
ヘリオスが小さく声を漏らす。
シュゼルも、静かに頷いた。
「……ああ。船長に、話をするべきだ」
立ち上がり、扉の方へ向かうその背中に、ウィスカが小さく鳴くような声で呼び止める。
ヘリオスは振り返らず、ただ微かに頷いて見せた。
ノクスがふと視線を移すと、猫のような姿をしたその魔物は、相変わらず感情を見せず、じっとヘリオスの背中を見つめている。
そして、他の誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「……テメェの件は、全部片付いた後だ」
ウィスカは何も言わず、ふいっと視線を逸らす。
けれど、そのしっぽは小さく揺れていた。
まるで――言いたいことを飲み込んだ者のように。
船室の扉が、音もなく閉じられる。
決意を携えた三人の背中は、それぞれの想いを胸に、静かに進み始めていた。




