72.懐かしさという名の痛み
「ヘリオス……」
静かに眠る彼を見下ろしながら、シュゼルはその名をそっと呟く。
ベルナルドがシオンを連れて突然馬車から姿を消したあと、残された者たちは森の奥へと馬車を走らせた。
人の気配を感じない静かな場所で馬車を止めると、御者の空間転移の魔術で、船へと戻ってきた。
高等魔術である空間転移を自在に使える術者を事前に手配していたことに、シュゼルは改めてベルナルドの人脈の広さに戦慄を覚えた。
だが、船室に戻ったその瞬間。
彼は、その場に息が詰まるような空白が落ちたように感じた。
ベッドの上に横たわるヘリオス。
その姿は、ただ「眠っている」のとは、どこか違っていた。
ウィスカから、「昨日の夜明けから一度も目を覚まさない」と聞かされた時、頭の奥が真っ白になった。
ーーやはり、彼と別行動すべきではなかった。
まだ幼かったあの日から、何度も、何度も誓ってきたのに。
命を、すべてをかけて護ると。
(私を、初めて認めてくれた君を……)
夕方の赤い日差しが部屋に差し込み始める、その時だった。
ヘリオスの指先が、微かに動く。
シュゼルは咄嗟に椅子から立ち上がると、彼の顔を覗き込みながらーー
その名を、再び呼んだ。
「ヘリオス……?」
……ゆっくりと、瞼が動く。
まるで、遥かな夢の底から這い上がってくるように。
焦点はまだ定まらず、ぼんやりと宙を見つめていた。
だが、心配そうに覗き込むシュゼルの顔に気づき、わずかに視線を合わせる。
「……シュゼル……?」
「……目が覚めてよかった」
心から安堵したように、シュゼルは言った。
ヘリオスは天井を一度見上げ、身体を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。
慌てて支えたシュゼルに礼を言うと、軽く額を抑えた。
そしてーー静かに問いかける。
「……俺は……。どれくらい、寝てたんだ?」
その一言で、シュゼルの身体がぴくりと強張った。
喉の奥が震える。
目覚めた彼を見た瞬間から、どこかに感じていた違和感ーー
……いや、違う。
……いや、違う。
それは、"違和感”ではない。
そこにあったのは……“懐かしさ”、だった。
「二日。……いや、二年……だな」
自分がどんな表情をしているのか、もうわからなかった。
ヘリオスは部屋を見渡し、そっと身体を伸ばしてから、穏やかにシュゼルに向き直る。
「……二年。そうか。うん、そうだな。……大丈夫、覚えてるよ」
多くは語らない。
けれど、その言葉だけで伝わるものがあった。
ーー”ヘリオス”として過ごした日々も、彼の中にあるのだと。
そして、シュゼルの視線が少しだけ俯いたのを見て、ヘリオスは申し訳なさそうに呟く。
「ごめん。……君に、全部背負わせて」
自分がすべてを忘れていた間、彼がどれほどのものを抱えていたか。
想像するのも苦しかった。
だが、シュゼルは小さく首を振り、顔を上げる。
そしてまっすぐに、ヘリオスを見つめた。
「謝る必要など無い。……私が、決めたことだ」
心から、そう思っている。
この二年間、全く苦しくなかったと言えば嘘になる。
押し潰されそうな夜も、泣きそうになった朝も、何度もあった。
けれど、それでもーー
彼の傍にいられた日々は、間違いなく、かけがえのない時間だった。
“王子”ではなく、“ただの青年”として生きる彼を見ていられたこと。
笑ったり、悩んだり、迷いながらも前に進もうとする姿を、誰より近くで支えられたこと。
(それだけで、十分だった。……後悔など、あるはずがない)
むしろあの時間こそが、自分にとっての救いだったとさえ思う。
変わらぬ笑顔を見せてくれた彼と、共に過ごせた日々だったから。
シュゼルは静かに、ほんのわずかだけ微笑んだ。
しばしの静寂が、二人のあいだに流れる。
やがて、その静けさを破るように、ヘリオスが思い出したように言った。
「ところで、もうみんな帰ってきたのか?」
ふと疑問を口にしたヘリオスに、シュゼルが頷く。
「ああ、私たちが最後だったようだ。すでに全員、戻ってきている」
皆が無事だったということに、ヘリオスは安堵した。
「今は情報のすり合わせをしているところだろう。まとまり次第、声を掛けると言っていたが……」
現在、談話室にはベルナルド、ノクス、セディがいるらしい。
あの牢獄での出来事を伝えるため、セディ自ら同席を申し出たようだ。
各自の情報を確認し、ある程度まとめてから全体に伝えるとのことだった。
情報が多いので、その方が合理的だろう。
今はまだ、彼の傍を離れたくなかったシュゼルにとって、それは静かな救いでもあった。
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「……これ、思ったよりヤバそうだねぇ」
資料をテーブルに置きながら、ベルナルドは冗談交じりの口調で言う。
ただし、その目には笑みの色など欠片もなかった。
「すでに王城内では、混乱が起きていると聞く。加えて、王都にまで手が及べば……」
「冗談じゃねぇ……」
真剣なセディの声に、ノクスは吐き捨てるように言った。
「まあ、結論はほぼ出てるけど。
……でも俺達がどうこうできるレベルじゃないんじゃない?国家問題だし」
どこまで伝えるかなぁと言いつつ、ベルナルドは一つの資料に目を通す。
先程から、何度も読み返しているものだった。
内容など、とっくに頭に入っているだろうに。
「……それも、伝えんのか?」
ノクスが静かに問いかける。
ベルナルドが何度も眺めていたのは、スィルフニア王国の襲撃記録だった。
地下施設から持ち帰った、研究資料のひとつ。
ベルナルドはそれを閉じると、わずかに口元を歪め、ノクスを見た。
「伝えるって、誰に? 何を?」
ーー沈黙。
返事はなかった。
だが、その瞳がすべてを物語っていた。
"テメェだって、予想はついてんだろ”
"だから、何度も見返してんじゃねぇのかよ”
声には出さずとも、ノクスの視線はそう訴えていた。
ベルナルドは、わざとらしく肩をすくめる。
「まさか。確証のないことを言う気はないよ。……言ったところで、どうにもならないしねぇ」
軽い調子のままそう言いながら、ふと手の中の資料が、ほんの僅かに震えているのに気づく。
繰り返し見返さなくても、最初に見た時点で予想はついていた。
でも、認めたくなかった。
確認する術も、否定する根拠も、どこにもないままーー
ただ、不安だけが、じわりと胸の奥に広がっていく。
今回の作戦で、シオンが風の響術を使った場面はない。
だから、彼女が実験体として狙われたのは、単なる偶然のはずだ。
顔がまだ広くない新興貴族で、健康そうで、魔力がそれなりに高い。
ただ、それだけ。
「彼女だって、きっと興味ないよ」
二人の会話から取り残され、セディが小さく首を傾げる。
その様子に気づいたベルナルドは、「ごめんごめん」と言って手をひらひらと振った。
「まあ、とりあえずこんなもんかな」
椅子の背にもたれながら、小さく肩を回す。
いつも通りの気の抜けた口調だが、その目はどこか遠くを見ていた。
「報告すべきは、騎士団長さんに冤罪がかけられた理由と、地下施設にいた組織の動き。そして……今の狙い」
そう続けたあと、一拍置いて、手元の資料に視線を落とす。
ごく短い沈黙。
しかし、その間に何かを選び取っていたような気がした。
「皆が知りたいのも、このくらいだろうからさ」
わずかに口角を上げて笑う。
けれどセディは、その笑みにほんの少しのぎこちなさを感じ取った。
まるで、何かを言いかけて、飲み込んだようなーーそんな印象。
「じゃあ、皆を集めようか」
最後はいつもの調子に戻って、明るく言い切る。
けれど手を叩いた音は、どこか空々しく響いた。
「そういえば、金髪くんは起きたのかな?」
「……様子見てくる」
ずっと気になっていたのだろう。
ベルナルドの言葉に、ノクスはすぐに談話室を出た。
「俺も他の奴らに声かけに行ってくるから、ちょっとくつろいでてよ」
軽い感じでそう言い残し、談話室を出る。
扉を閉めると、途端に静寂が押し寄せた。
甲板へ続く廊下には誰もおらず、灯りの揺らめきだけが壁を照らしている。
ベルナルドは数歩、無言で歩いたあと、立ち止まった。
壁にもたれ、深く息を吐く。
「……関係ない、出自なんて」
誰にともなく呟いたその言葉は、天井に吸い込まれて消えていく。
ただの独り言。
言い聞かせるような、そうでもないような、曖昧な声。
少しだけ、震えが残る掌を強く握った。
彼女にとっては、なんでもないことかもしれない。
風の響術が使える理由とか、どこの血を引いているかとか。
自分には、関係のない話だと。
でも。
「……もし、“そう”だったら……」
誰にも聞かれていないとわかっていても、口の中で言葉が詰まる。
最後まで吐き出せずに、掠れた笑いが喉を震わせた。
「ほんと、運命とか血筋とか。ロマンチックな話は似合わないなぁ」
軽口で誤魔化すように笑ったが、その声はどこか空虚だった。
俯いたその目は、どこか遠くを見ている。
胸の奥で燻る、小さな不安と劣等感。
彼はそれを、笑いで押し込めることに慣れすぎていた。
亡国とはいえ王家の血筋と、貧民街出身の自分。
何も感じないわけがない。
それでもーー
「……あの名を、呼んでくれたから。まだここにいられる」
ぽつりと落とした声には、もう虚勢の影はなかった。
誰に向けたわけでもない。
ただ……それが、彼の“真実”だった。




