71.すべてを記憶する代償
脱出の準備は、静かに進められた。
もともと使用人の少ない塔では、アリウスの身の回りのことをシュゼルが担うことが多かった。
そのため、目立たぬよう事を運ぶことができた。
予定通りに講義をこなし、訓練を終え、普段通りに食事を取り、夜を迎える。
いつもと変わらぬ一日は、これからこの場所を離れることなど微塵も感じさせなかった。
周囲にも、そして彼ら自身にも。
日がすっかり落ち、塔の明かりも最小限に抑えられた頃。
彼らは動き出した。
見つからぬよう、王族しか知らない隠し通路を進む。
薄暗く、石の匂いの染みついた狭い道を静かに歩きながら、アリウスがぽつりと呟いた。
「……なあ。母上の様子、何だか少しおかしくなかったか……?」
就寝の挨拶という名目で部屋を訪れたとき、セレーナはいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていた。
優しい声、穏やかな態度。……それなのに、何かが違っていた。
「……最後の挨拶となるのだから、いつも通りとはいかなかったのだろう」
そう応じるシュゼルに、アリウスは頷きかけて、ふと止まる。
「そうかも、しれない……けど」
わからない。
何が、どこが、どう違っていたのか。
ただ、飲み込めない何かが、確かに胸の奥に残っていた。
その瞬間だった。
鋭利な刃が心臓を射抜いたような衝撃。
理由もなく、ただ、恐怖が背筋を駆け上がる。
気がつけば、アリウスは反射的に走り出していた。
今来た道を引き返し、離れの塔の方向へとーー。
「アリウス!?」
シュゼルが声を抑えながら追いかける。
「どこへ行くつもりだ、そっちは……」
「わからない、でも……行かないといけない気がするんだ!」
なぜかはわからなかった。
けれど、そうしなければならないと心が叫んでいた。
必死で追うシュゼルだったが、アリウスの方が足が速い。
しかも先に動かれていては、距離は広がるばかりだった。
(今、戻らせてはいけない……何か、止める手段は……)
思考を巡らせるが、焦りで頭がまとまらない。
通路の構造は入り組んでいる。
特定の部屋へ向かう道を選ぶのは、普通ならば非常に困難だろう。
だがアリウスは、迷いなく進んでいく。
そう、彼は“覚えている”のだ。
一度見ただけの道も、細かな分岐も、そのすべてを。
この時、シュゼルは初めてその才能に恐怖を覚えた。
あまりに正確に、何もかもを記憶してしまうその能力が、彼の心を壊してしまうのではないかと。
それはまるで、祝福の皮を被った"呪い”だった。
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王妃の部屋にたどり着いたアリウスは、静かにその扉を開ける。
……とても、静かだった。
いや、静かすぎた。
「母上……?」
人の気配がない。
こんな時間に、どこへ?
不安が、胸を圧し潰していく。
「アリウス……」
ようやく追いついたシュゼルが、息を整えながら声をかける。
だがアリウスは振り返らず、低く問いかけた。
「なあ、シュゼル。母上から……何か、聞いていないか?」
その問いに、即答できなかった。
すぐに否定すべきだった。だが、遅かった。
アリウスは、部屋の奥にある扉に視線を移す。
セレーナとアリウスの部屋を繋ぐ、簡易な内扉だ。
この離れの塔に来た当初、セレーナの意向で設けられたものだった。
「待て。どこへ行くつもりだ。今は一刻も早く、ここを離れるべきだろう」
「わかってる。……でも、変なんだ」
その時だった。
空気を切り裂くような、冷たい震えが背中を這う。
呼吸が一瞬止まり、鼓動が乱れた。
凍えるようなその気配が消えても、震えは止まらない。
けれど、身体は動いた。
……いや。勝手に、動いていた。
静かに、扉を開ける。
扉の向こうには、濃く、紅いものが広がっていた。
床一面を濡らすそれは、明らかに“血”だった。
そして、その中心に倒れていたのは――
「……俺……? なんで……」
理解できなかった。
だが、すぐに光が揺らぎ、倒れていた“アリウス”の姿がかすんでいく。
そしてそこに現れたのは、セレーナ。
「な、んで……」
視界が歪み、脳が追いつかない。
それでも、彼女の指がかすかに動くのを見て、アリウスは駆け寄った。
「母上……!?」
セレーナは、彼の顔を見るなり、驚いたように目を見開き、そして……笑った。
「……だめよ。戻ってきては……。あなたは今夜、死んでいなければならないのだから」
「何を言ってるんですか……」
混乱の中で、頭の一部だけが、やけに冷静に働いていた。
先ほど見た幻。
"今夜”、逃げろと言った意味。
そしてーーこの光景。
気づいてしまった。
彼女が、自分の身代わりとなって暗殺されたことに。
「あなたには、何も知らずに行ってほしかった……。
“忘れることができない”あなたが背負うには、辛すぎるから……」
セレーナは手を伸ばし、彼の額に触れる。
その指先から、光が生まれた。
「……ごめんなさい。せめて……忘れて、“すべて”……を……」
光は、アリウスの額へと染み込むように流れていく。
そしてそのまま、彼の意識は闇へ沈んでいった。
「……シュゼル」
「はい」
セレーナの呼びかけに、シュゼルは膝をつく。
掠れる声で、途切れ途切れに、セレーナは伝えた。
「アリウスを……お願いします。……違う名前を……別人として……」
最後の魔力を振り絞り、アリウスに術をかけたセレーナの声は、もう微かだった。
記憶は消せない。
けれど、他の魔力で包めば、封じることはできる。
……誰が、そう言っていたのだったか。もう、思い出せない。
そのまま、セレーナが再び口を開くことはなかった。
シュゼルは深く頭を下げ、アリウスを抱えて立ち上がる。
そして一度も振り返ることなく、扉の奥――隠し通路へと、再び足を踏み入れた。
石造りの狭い通路を、無言のままひたすら進む。
曲がりくねった道の先に、ようやくわずかな外気が混じり始めた。
やがて、通路の出口から夜の空気が吹き込んできた。
その先に広がるのは、人気のない城壁裏手の森の淵。
城の敷地外ーー誰にも気づかれず、逃走するための抜け道だ。
そして通路を抜けきった、その瞬間だった。
背後から、夜を裂くような閃光が走る。
闇を照らす異様なその明るさに、シュゼルは思わず振り返りそうになる衝動を押し殺した。
塔が、燃えていた。
炎が天を舐めるように立ち昇り、その赤が夜に滲んでいく。
……きっと、彼女が仕掛けていたのだ。
すべては、“王子の死”を偽装するため。
最期まで誰にも知られぬよう、用意していたのだろう。
シュゼルにさえ、知らせぬまま。
「……私が、必ずアリウスを護ります」
この命に代えても。
どれほどの困難が待ち受けていようとも。
全てを終わらせた炎を背に、彼は静かに夜の闇へと消えていった。
アリウスの記憶が封じられた夜。
一つの物語が終わり、そして“新しい物語”が始まりました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて過去編は幕を閉じ、次回より本編の時間軸へと戻ります。
ぜひこの先も、旅の続きを見届けていただけたら嬉しいです




