69.迷いなき忠誠
それは、本当に突然のことだった。
ヘリオスが十二歳になって、半月ほどが過ぎたある日。
王宮から一人の使用人が訪れ、平坦な声でこう告げた。
ノクスは、グレイシャ帝国へと派遣された。
王族間の友好と文化交流の証として、帝国の王宮に仕えることになったのだと。
王弟子息という彼の身分を考えれば、ありえない話ではない。
「……でも、そんな急に……?」
アリウスは思わず口にしていた。
ついこの間、誕生日を祝ってもらったばかりだった。
その時のノクスは、いつも通りで、特別な素振りなど何ひとつなかった。
あれは――演技だったのだろうか。
いつから決まっていたのだろう。
どうして、何も話してくれなかったのだろう。
胸の奥に生まれた小さなざわめきが、不安と疑問にかき混ぜられて膨らんでいく。
一方で、シュゼルは使用人の説明を黙って聞きながらも、その内心には強い違和感があった。
(……あいつが、何も言わずにいなくなる?)
無礼で、不遜で、言葉を選ばない男だったがーー
少なくとも、道理は通す。責任感もある。
何より、アリウスのことを軽んじるような真似は、あいつの流儀ではない。
(……そんな奴じゃなかったはずだ)
違和感は、小さな棘のように心に引っかかり続けていた。
アリウスはいつも通り、講義や鍛錬をこなしていた。
けれど、どこか元気はない。
急にいなくなったノクスのことが、彼の心に長い影を落としていた。
昔は二人だけだった。
あの頃に戻っただけ、……そう思えたなら、どれほど楽だっただろう。
けれど今の彼にとって、ノクスはそれほど小さな存在ではなかった。
もちろん、王命に逆らえないのは当然だ。
だが問題は、去り際の姿勢だった。
どうして、ひと言も残さなかったのか。
「アリウスを王にしたい」とまで言った彼が……。
(可能性としては……「言う暇がなかった」か?)
ノクス自身にも、前もって知らされていなかったのかもしれない。
けれど、そうだとすれば、何故そんな重要な話が直前まで隠されていたのか。
いくら思考を巡らせても、わかるはずがなかった。
本人に連絡は取れず、使用人に訊ねても、皆一様に口をつぐむばかりである。
(考えても仕方ない。私は……今まで通り、アリウスを支えるだけだ)
思考を振り払うようにして、シュゼルは顔を上げた。
けれど、事態はさらに悪化した。
アリウスの食事に、毒が仕込まれていたのだ。
毒見役が苦しみ倒れる姿を、アリウスは目前で見てしまった。
その時の、彼の動揺は激しかった。
自分が殺されかけたこと以上に、“自分のために誰かが傷ついた”という事実が、彼の心を深く抉った。
毒見は、本人の目の前で行われる。
近頃、外部との関係がきな臭くなっていたため、そのような形式が義務づけられていた。
犯人は、それを逆手に取ったのだ。
毒そのものより、精神的に追い詰めることが目的だったのかもしれない。
殺せなくても、心を折ることはできるとーー
まるで、そう言いたげな犯行だった。
その後も、不可解な出来事は続いた。
移動中の襲撃、乗るはずだった馬車の突然の破損、
さらには訪問先の屋敷から、危険な魔道具が発見される事態も起こった。
幸い、いずれも大事には至らなかったが、蓄積された恐怖と疲労は確実にアリウスの心を蝕んでいった。
そんな中、シュゼルの脳裏に、ひとつの疑念が生じる。
(……ノクスがいたら、これほど問題になっていないはずだ)
ノクスは魔力を“見る”力を持っていた。
痕跡さえ残っていれば、どんな細工も見抜くことができるだろう。
犯人にとって、それは極めて都合が悪いはず。
それなら彼を他国へ送ったのは、アリウスから遠ざける目的があったのかもしれない。
(……“文化交流”だなんて、表向きの建前にすぎないのではないだろうか)
いくら考えたところで、証拠はない。
だが、胸の内に渦巻く疑念は、日に日に濃くなるばかりだった。
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月日が流れ、アリウスは十五歳の誕生日を目前に控えていた。
王子としての所作は洗練され、民からの支持もますます厚くなる。
響術の有無にかかわらず、彼を次期王に推す声さえ上がり始めていた。
しかしそれに伴い、暗殺の影はより緊迫していく。
度重なる脅威の中で、昔の明るい笑顔はだいぶ失われていた。
対外的にはよく笑っていたが、彼をよく知る者には、それが作られた笑顔だとわかっていた。
そんなある日。
シュゼルはセレーナに呼ばれた。
アリウスの姿はなく、彼女は「信頼できる侍女に預けている」とだけ言った。
そして、シュゼルを見つめたまま、躊躇いのない目で問いかける。
「シュゼル。あなたに、聞いておきたいことがあります」
その真剣な声に、シュゼルは思わず背筋を伸ばした。
セレーナは彼から目を離さず、静かに口を開く。
「もしアリウスが、王子としての立場も、今の生活もすべて失ったとして……それでも、あなたは彼の傍にいられますか?」
あまりにも突然の問いだった。
だが、シュゼルは迷いなく即答する。
「王妃様。私はアルナゼル第三王子に忠誠を誓ったのではございません」
そして、はっきりと言葉を続けた。
「私が仕えるのは、“王子”ではなく、“アリウス”という人物そのものです。
たとえ彼が平民になろうと、貧民街に堕ちようと、私は必ず彼の傍にいて支えます」
揺るぎのない声だった。
その言葉に、セレーナは微笑む。
「ありがとう。それを聞いて、安心しました」
わかっていた。信じていた。
それでも確認せずにはいられなかった。
これはシュゼルを試すためではない。自分自身の覚悟を確かめるための問いだった。
セレーナは一度、深く息をつき、そして静かに告げる。
「シュゼル。これから、あなたには重い役目を担ってもらいます。辛いとわかっていても、私の願いに応えてくれますか?」
内容はまだ語られていない。
それでもシュゼルは、即座に頭を垂れた。
「仰せのままに」
静寂の中で、その言葉だけが響く。
そしてセレーナは、はっきりと宣言した。
「私は、これから“アリウス”という存在を――この世から葬ります」




