64.君に出会った日
甲板に淡く輝く魔法陣が現れ、光の粒子とともにウィスカの姿が現れる。
その細い腕にヘリオスをしっかりと抱えたまま、静かに着地した。
本当は直接船室に行きたかったが、久しぶりに使う魔法なので座標調整が少し難しい。
だから、確実で安全な甲板を選んだ。
(……”アリウス”、か)
ヘリオスの顔を見つめながら、心の中で呟く。
何度か聞いた、その名前。
もうとっくに、彼の正体には気づいていた。
それでも、認めたくなかったのは。
彼が“王子”としての立場に戻ったら、一緒にいられないとわかっていたからだ。
誰かと共に在りたいなどと、昔の自分なら鼻で笑っただろう。
けれど、ヘリオスと出会ってしまった。
あの柔らかな声と手が、この感情を教えてしまった。
生殖本能がなく、群れる習性すらない魔獣に、「愛」なんて感情は存在しない。
そのはず、なのに。
「……誰だ、テメェ」
思考を遮るように、鋭い声が響く。
振り返れば、いつの間にかノクスが甲板に立っていた。
魔力感知能力に優れた彼のことだ。ウィスカの魔術に気づいて様子を見に来たのかもしれない。
「もう戻ってたんだな。ていうか、起きてたのかよ」
「その声……」
声も、喋り方も、そしてフードの奥から覗く金色の瞳も。
どれも、ウィスカと同じものだった。
魔力を見ずとも、そこに立つ人物がウィスカだと気づいたようである。
「……変身できたとはな。で、何があった?」
本当はその姿について、問い詰めたい気持ちもある。
しかしウィスカが抱えるヘリオスの姿を見て、そちらの確認を優先した。
怪我はなさそうだが、意識もない。ただ寝ているだけにも見えない。
ノクスの鋭い視線に臆することなく、しかし軽く目を逸らしながらウィスカは答える。
「詳しいことはわからねー。ただ、急に気を失った」
細かいことは説明しない。今は、したくない。
話せば、ノクスの口からヘリオスの正体が語られてしまうと思ったから。
せめて、彼が目覚めるまではーーあの森で出会った、ヘリオスでいてほしかった。
「部屋で休ませてーんだ。おれを責めるなら後でにしてくれ」
言いながら、ウィスカはノクスの横を通り過ぎる。
ノクスは、引き止めることはしなかった。
ただ、一言。
「シュゼルが戻るまで、ちゃんと見とけよ」と、それだけ残して。
意外な言葉に、足が止まりかける。
しかし振り返ることはせず、そのまま船室へと歩を進めた。
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淡く揺れる草花の匂いが、春の空気に溶け込んでいた。
白い石畳に縁取られた庭園は、朝露を含んだ芝の緑に包まれ、色とりどりの花が季節を告げるように咲いている。
噴水の音が遠くに聞こえ、小鳥のさえずりが、静けさをやわらかく彩っていた。
高い城壁に囲まれた王城の中でも、ここは特に穏やかな場所だった。
誰に気兼ねすることもなく、ただ風と陽射しだけが、ゆるやかに時間を運んでいる。
そんな庭の一角。
まだ幼い一人の少年が、芝の上に寝転がっていた。
「ふわぁ……今日も、いい天気だなぁ」
広い庭園に寝そべりながら、少年は呟いた。
心地よい風が、ふわふわとした金色のくせ毛を優しく撫でていく。
アリウス・リュミエル・アルナゼル。
アルナゼル王国第二王妃の息子であり、つい先日、五歳の誕生日を迎えたばかりの第三王子である。
「アリウス、またここにいたのですね」
風に乗って聞こえてきた声に、アリウスは顔を上げた。
そして、その声の主に向かって嬉しそうに駆け寄る。
水色の長い髪に、若草色の上品なドレス。
目元はやや吊り上がっているが、笑うと途端に表情が和らぎ、きつさはまるで感じさせない。
彼の母親であり、この国の第二王妃でもあるその人は、ほんの少し困ったように微笑んで、アリウスの目線にしゃがみこんだ。
「講義の時間以外は好きにしていていいとは言いましたが……今日は従者が来る日でしょう?主として、そんな乱れた格好ではいけません」
言いながら、王妃はアリウスの髪や服についた草や葉っぱを丁寧に取り除く。
そう。今日は、アリウスに初めて従者が付く日だった。
この離れの塔には、最低限の使用人しかいない。
理由は、第二王妃の出自にあった。
貴族ではあるが爵位は高くなく、後ろ盾も乏しい彼女は、城内で冷遇されていた。
国王から深く寵愛され王妃の座に就いたが、宮廷の権力争いの中では決して有利な立場ではない。
だからこそ、彼女は中心の宮ではなく、城の端にある離れの塔に住んでいる。
けれどアリウスにとって、それはむしろ幸運だった。
ここには冷たい視線も陰口もなく、大好きな母親と長く過ごせる日々がある。
窮屈な規律に縛られることもなく、彼は素直でまっすぐな性格に育っていた。
「従者って、どんな人だろうね!」
アリウスはぱっと顔を輝かせる。
「あなたより一つ年上だと聞いています。アストリアン公爵家の次男だそうよ」
公爵家が子息を王子の従者として差し出すのは、珍しいことだった。
王家との繋がりを強めるためのものか、それとも別の思惑があるのか。
その微笑みにわずかな緊張を滲ませつつも、セレーナはそれ以上語らなかった。
きっと、余計な先入観を持たせたくなかったのだろう。
「楽しみだな〜。早く会いたい」
「ふふ……じゃあ、まずは髪を整えましょうか」
そう言って、王妃はアリウスの手をそっと取ると、柔らかく微笑んで歩き出す。
アリウスも嬉しそうにその手を握り返し、二人は並んで塔の中へと戻っていった。
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侍女に案内されて塔を訪れた少年は、アリウスと王妃の前に通された。
まだ幼さの残る顔立ちではあるが、その所作には無駄がない。
膝をつき、胸に手を当て、丁寧に頭を垂れると、静かに口を開いた。
「お初にお目にかかります。セレーナ・ルミアス・アルナゼル第二王妃殿下、アリウス・リュミエル・アルナゼル第三王子殿下。
私はアストリアン公爵家次男、シュゼル・アストリアンと申します。
本日より、第三王子殿下の従者の役目を賜りました。誠心誠意、務めさせていただきます」
その流れるような挨拶に、アリウスは思わず目を見張った。
「……かっこいい……」
心の声が、ついそのまま口をついて出る。
アリウスはトコトコとシュゼルに近づくと、顔を覗き込むようにして言った。
「ねえ、顔上げて?」
促されて、シュゼルは一瞬戸惑ったように目を伏せたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
自分とは違う、サラサラとしたプラチナブロンドの髪。
きちんと整った顔立ちと、膝をつくだけでも優雅な姿。
一歳差とは思えない、どこか完成された雰囲気。
そのすべてが、「綺麗だ」とアリウスは思った。
「今日からよろしく!君に会えるの、すごく楽しみにしてたんだ」
満面の笑顔でそう告げるアリウスに、シュゼルは明らかに面食らう。
だがすぐに真顔に戻り、再び頭を下げた。
「……勿体ないお言葉にございます」
「だから、顔上げていいよ?」
屈託なく繰り返すアリウスに、後ろから王妃ーーセレーナが咳払いをした。
「アリウス」
その声に、アリウスは「あっ」と小さく呟いてから、姿勢を正す。
「今日からよろしく。……期待してるよ」
できる限り威厳を込めた声でそう言ってから、すぐにセレーナを振り返る。
「ねえ、庭園に連れてってもいい?」
「まったくあなたは……。ふふ、好きになさい」
苦笑を浮かべつつ、セレーナは頷いた。
止めても無駄だと、よくわかっているのだろう。
「じゃあ、行こう!」
嬉しそうに声を弾ませると、アリウスはシュゼルの手をぐいっと引く。
驚いたように瞬きをするシュゼルを気にも留めず、そのまま外へと連れ出そうと走り出す。
手を引かれながら困ったように振り返るシュゼルに、セレーナはやわらかく微笑みかけた。
「従者としての心得やお仕事については、明日説明します。今日は、アリウスの相手をお願いしますね」
「……はい」
まだ困惑を残したまま、シュゼルは小さく返事をすると、導かれるまま庭園へと向かっていった。
ヘリオスが“アリウス”だった頃の記憶を、ここから綴っていきます。
彼らの原点となるこの物語に、しばらくお付き合いいただけたら嬉しいです。




