61.月の名をくれた人
任務に失敗して、帝国に戻った。
報告の言葉も、謝罪も、用意はしていなかった。
報告すべき内容がない。
謝罪の意味も、よくわからなかった。
次に何をすればいいのか。
ただ、それだけを待っていた。
けれど、命じられたのは"次”ではなかった。
「命令を果たせぬなら、存在する価値はない」
低く、冷たい声だった。
それだけで、空気が張り詰める。
次の瞬間、視界が揺れた。
頬を打たれたのか、腹を殴られたのか、よくわからなかった。
気づけば床に叩きつけられていて、口の中に血の味が広がっていた。
動かない。
動けない。
抵抗など、思いつきもしなかった。
その人の言葉は、絶対だったから。
「任務の失敗は、死と同義だ」
吐き捨てるように言うその声に、何の感情もわかなかった。
ただ、それが処分の合図だということだけは、理解する。
けれどその時、扉の向こうから別の声がした。
「……何をなさっているのですか、父上」
その声の響きに、心のどこかがふと揺れた。
ゆっくりと視線を上げる。
そこに立っていたのは、数年前に見たあの少年。
ーー今はもう、凛とした気配を纏う青年となっていた。
背が伸び、声も大人びている。
けれど、その瞳だけは、あの頃と変わっていなかった。
“父上”と呼ぶその言葉から、この人が陛下の息子……
以前耳にした、この国の皇太子なのだと察した。
その後ろに、もうひとつ人影が見える。
黒髪の青年。
こちらを見て、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに視線を逸らす。
……そんなに、私はひどい見た目をしているのだろうか。
「アイゼル。この部屋への立ち入りを許可した覚えはないぞ」
威圧的な低い声に動じることなく、アイゼルと呼ばれたその人は答える。
「約束の時間にいらっしゃらなかったので、探していたのです。それで、一体何を」
その言葉に対し、陛下は彼を一瞥しただけだった。
そして、その場に控えていた部下に向かって告げる。
「我が命に従うことが出来ぬ者など、要らぬ。処分しろ」
あまりに自然で、機械のような命令だった。
「……まだ幼い少女のようですが」
皇太子が再び口を開く。
「処刑に値するほどの失態を?」
その声には、驚きと、わずかな怒りがにじんでいた。
彼は知らないのだろう。
私が誰なのか。
何をしてきたのか。
何をしなかったのか。
この国で育てられ、命じられ、動いてきたことを。
皇帝は冷たい声で言った。
「お前が気にすることではない。お前は、任されたことをやっていればいい」
「父上!」
「早くその娘を連れて行け」
命令が、下された。
部下が動く。
足音が近づく。
腕をつかまれ、引きずられる。
その瞬間、誰かの気配がぐっと近づいた。
「待て――!」
皇太子の声だった。
彼が腕を伸ばしかけたのが、視界の端に映る。
けれど、その手が触れる前に、誰かが遮った。
あるいは、彼自身が途中で止まったのかもしれない。
(ああ……)
また、声がした気がする。
まだ何かを訴えていた。
けれどその声は、もう届かなかった。
頭の中が、じん、と響いている。
音が、どんどん遠くなっていく。
もう、何も聞こえなかった。
ーー違う、聞こえないのではない。
私は、聞くのをやめたのだ。
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私の処刑場は雪山だった。
頑丈な杭に磔にされ、そのまま放置される。
刺しても、焼いてもすぐに再生する私は、殺すのも困難らしい。
だからこうして、朽ちるのを待つしか無い。
寒さは、感じる。
凍りつきそうな吹雪に息苦しさもある。
でも、凍傷になりかけても回復するし、体力も落ちない。
意識を失うことも出来ない。
放っておけば、いずれ魔力が枯渇して死ねるのだろうか。
あるいは、魔物にでも食べられれば、さすがに死ねるのか。
……もっと確実な方法はなかったのだろうか。たとえば、首を落とすとか。
いや、こうして曝されるのも罰のひとつなのかもしれない。
どうでもいいのに、考えてしまう。
いつまでも身体が衰えないせいだ。
意識を失えないことが、今は苦しい。
このまま死を待つだけなら。
ーー早く、死にたい。
そう思って、目を伏せた時だった。
「……女の子?こんな所に?」
声が聞こえて、目を開ける。
この場に似つかわしくない、少女の声だった。
少し、年上だろうか。
ややつり上がったきれいな瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「……早く、離れた方がいいですよ」
不思議と、口から言葉が出てきた。
「どうして?」
「ここは処刑場。私は罪人です。……誰かに見つかったら、あなたも危険です」
心配して言っているわけじゃない。
人がここにいることに、違和感を感じているだけ。
でもその人は、少し考えたあと、私に言った。
「あなた、死にたいの?」
何でそんな事を聞くんだろう。
わからないけど、答える。
「死ぬしかありません。それが命令です」
「じゃあ、要らない命ってことなのね」
要らないーー。
あの、皇帝陛下の言葉が蘇る。
「我が命に従うことが出来ぬ者など、要らぬ」と。
ああ、そうだ。要らないのだ、この命は。
そう思った瞬間、少女は私に向かって手をかざした。
「いらないなら、私にちょうだい」
その言葉とともに、私の周りに風が渦巻いた。
そしてその風は刃のように、拘束具を切り裂いていく。
かなりの硬度があったはずだ。
それなのに、紙でも切るように、簡単に。
ーー同時に、杭も切られていたが。
「一部だけ切るのって難しいわね。まあ、怪我させてないならいいか」
言いながら、雪の上に手をつく私の前に立った。
呆然と見上げる私に手を伸ばすと、その人は言う。
「あなたが気に入ったわ。私と一緒に来て。……私の旅の、手伝いをしてほしいの」
その瞳を見た瞬間、心臓を掴まれたようだった。
瞳の奥に見えた、強い”光”。
――あの光を、人は希望と呼ぶのだろうか。
気がつけば、その手を取っていた。
「さてと。こんな寒いところ、さっさと出ましょう。掴まって」
そう言って、彼女は私を引き寄せる。
私は、訳がわからないまま、その腕に掴まった。
瞬間、風が巻き起こった。
視界が一気に動く。
地面が、雪が、杭が、あっという間に遠ざかっていく。
「……っ!」
足が浮いた。
体が空を切った。
掴んだ腕の感触だけが、現実に繋がっている。
風が、翼のように背中を押す。
白い吹雪を裂くように、上昇していく。
寒さが、痛いくらいに肌を叩くのに、怖くなかった。
むしろ、気づいてしまった。
私は今、生まれて初めてーーこの世界を“上から”見ていた。
「あ……」
思わず、小さく息が漏れた。
そのとき、彼女がこちらを見て言う。
「名乗ってなかったわね。私はシオン。あなたは?」
聞かれて、うまく言葉にならなかった。
多分、あれが「名前」なのだろうけど。
口にするのが、何だか怖かった。
そんな私の様子を見て、彼女は言う。
「そうねぇ……。じゃあ、ルナリアなんてどう?月みたいにきれいなその瞳に、ぴったりだと思うわ」
優しい微笑みに、思わず目を奪われた。
その名前は、少しだけ、自分にはもったいない気がする。
けれど、この人が言うのなら、きっとそうなのだろう。
それに、この瞳を褒められるなんて思っていなかった。
……”きれい”の、正しい意味は、わからないけど。
褒められているのは、わかったから。
私が頷くと、その人はまた笑った。
「じゃあ、決まりね。よろしくルナリア」
あそこから逃げたことが、正しい選択だったのかはわからない。
でも、この人の力になりたいーーこの人に、すべてを捧げたい。
心から、そう感じた。
それが、”私”の始まりだった。
これにて、ルナリアの過去編はひと区切りとなります。
次回からは再び、現在の物語へと戻ります。




