57."存在しない"牢獄
迷宮牢獄編、スタートです。ようやく主人公が出てきました。
街の喧騒が遠ざかるにつれ、あたりの景色は次第に荒れた岩肌と低木の茂る山道へと変わっていった。
足音と風の音だけが響く中、三人はほとんど言葉を交わすことなく歩き続けていた。
目指すのは、街の外れにひっそりと存在する岩山の一角。
地図にも載らないその場所は、近づいてみなければ見落としてしまうような、地形のくぼみにあった。
ヘリオスは足を止め、周囲を見渡してから、ぽつりと呟く。
「……あれが入口、かな」
岩の裂け目のように見える場所に、鉄でできた重厚な扉がはめ込まれている。
門番の姿はない。
だが、それも当然のことだった。
この牢獄は、そもそも表向きには“存在しない”ことになっている。
扉には高度な錠前が施されており、無理にこじ開けようとしてもそう簡単には開かない。
仮に中へ入れたとしても、内部は入り組んだ構造になっていて、ひとたび迷えば、唯一の出入り口にたどり着くことすら困難だ。
加えて、内部には常時警備が配置されており、囚人たちが脱獄するのはまず不可能だった。
それを知っているからこそ、この扉の前には誰も立たない。
ヘリオスの隣で、ルナリアが茂みからそっと様子をうかがう。
「聞いた通り、誰もいませんね」
「うん、鍵はこれで開くって言ってたけど……」
ヘリオスは、ベルナルドから渡された鍵を取り出した。
上部には魔晶石がはめ込まれ、これで開ければ感知の心配はないらしい。
これは、あの牢獄の鍵を、精巧に模倣したものだと言っていた。
「どうやってこんなもの、手に入れたんだろ?……しかも、一晩で」
首をかしげるヘリオスに、ルナリアが小さな声で呟く。
「……胡散臭いくせに、仕事はするから面倒なんです。あのクソ男」
「ちょ、ルナリア!?」
ヘリオスは声を押さえたまま、驚いて振り返った。
「女の子がそんな言葉使うのは……」
「船長を泣かせた最低野郎なんて、それで十分です」
あくまで淡々と、ルナリアは言い切る。
その丁寧すぎる口調とのギャップに、ヘリオスは思わず黙った。
どうやらルナリアの中で、ベルナルドの評価は底を這っているようだ。
気持ちはわからなくもないが、意外すぎて反応に困る。
「……んなことより、時間ねーんだろ。さっさと行くぞ」
ウィスカの言葉に、そうだったとヘリオスが頷いた。
ルナリアも彼に続き、静かに扉へと歩み寄る。
恐る恐る鍵を近づけると、魔晶石が淡い光を放ち始めた。
その光が扉全体を包み、やがて、重たい音とともにわずかな隙間が生まれる。
鍵は、確かに開いた。
「鍵の形してるけど、差し込む必要なかったんだね」
「気分だけの問題か?」
ウィスカが呆れたように目を細めたが、何にせよこれで入れる。
ルナリアは扉に近づこうとしたヘリオスを静かに制し、自ら前に出た。
「私はあなたの護衛です。先に確認します」
「え? でも……」
「何かあっても、私は大丈夫ですので」
まったく引く気のない様子に若干気圧され、ヘリオスはしぶしぶ頷く。
(何かあっても大丈夫って……どういうことだろう。強いから、かな)
ヘリオス自身も、この旅で鍛錬を重ねてきたつもりだ。
剣の腕も、以前より遥かに上がっている。
けれど実戦経験の差は埋まらず、頼りなく見えるのも無理はないのかもしれない。
少し肩を落としつつ、それでも気持ちを切り替えた。
凹んでいる暇なんてない。
今はただ、騎士団長を救い出すことだけを考えなければ。
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中に入ると、そこは薄暗い通路になっていた。
岩壁に囲まれ、少しひんやりとした空気が漂う。
道幅は二人並んで通れるくらいの広さで、長い剣を振り回すには窮屈そうだ。
もっとも、この場にいるメンバーの戦闘スタイルならば、それほど問題にはならない。
「……何の音もしない……」
不気味なくらい静かな道を、歩き出す。
地図は頭に入っている。
周囲はまったく同じように見える岩壁とはいえ、ヘリオスにとって「同じ」はない。
仮に道を間違えたとしても、元の場所まで確実に戻ってこられるだろう。
覚えている道を、辿ればいいのだから。
だから彼は、"迷う”という心配は一切していない。
ただ、この空気が、漠然とした不安を煽っているだけだ。
(何だろう……はじめて来た場所なのに。妙な既視感がある……)
冷たい壁、薄暗い通路、静かすぎる空気。
奇妙な感覚が、ヘリオスの心の中で渦巻いている。
“……なあ。……の様子、何だか少しおかしくなかったか……?”
“……の……となるのだから、いつも通りとはいかなかったのだろう”
急に、耳の奥で声が聞こえた気がした。
誰かと、もうひとり誰かが話している。そんな気配だった。
とても、聞き覚えがある気のする声。
しかし、ぼやけていて、誰だかはっきりしない。
「ヘリオス?」
「あ、……ごめん、何でもない」
ウィスカの声で我に返り、思考を振り払う。
ぼんやりしている場合ではない。
分かれ道に差しかかるたび、ヘリオスは即座に判断を下す。
警備兵の足音が近づいた瞬間も、別のルートへ滑り込むように進み、事なきを得た。
この牢獄には、同じ場所に出る道がいくつもある。
所々でつながっているのだ。
「本当に、よく覚えていますね……」
「え?そうかな」
驚きと呆れを含んだルナリアの言葉を、軽く流すように答える。
本人はあまり気にしていないが、この正確さは普通ではない。
尚、どうしても避けられない警備兵は、ルナリアが音もなく意識を奪った。
あまりに鮮やかな手並みに、目が追いつかないほどである。
(……本当に強いんだ……)
しかしシオンやカルロのような、正面からの強さとは違う。
隠密に長けている、という評価も頷けた。
「今、どのあたりまで来たんでしょうか」
「う〜ん、地図でいうと……半分弱かな」
すでに数時間が経っているが、まだ半分にも届いていないようだった。
かなりの広さである上に入り組んでいるので、なかなか先に進めない。
「大丈夫?疲れたなら休もうか?」
「いえ。疲れないので必要ありません。……あなたが疲れているなら、休みます」
疲れないって何。疲れてない、じゃなくて?
……気になるけれど、聞いても答えてくれる気はしない。
そういえば、前にも「眠らない」なんて言っていたのを思い出す。
悩みつつ歩を進めていると、踏み出した足元が僅かに沈む。
罠だ、と気づいた時には遅い。
「ヘリオス!」
彼に向かって、鋭い刃が側面から襲ってくる。
しかしウィスカの結界が展開されるよりも早く、ルナリアが音もなく飛び出した。
そして、その刃を正面から受ける。
咄嗟のことで受け止めきれなかったのか、彼女の武器で防ぎきれる威力ではなかったのか。
床に滴り落ちた赤は、やがて小さな水たまりのように広がっていった。
ヘリオスは目の前の光景を、しばらく理解できなかった。




