56.綴られた実験録
棚には、簡易的に綴じられた紙の束が並んでいた。
厚みのあるものには背表紙も付いている。
ノクスはその中から、一つの束を手に取り、静かにページを捲った。
それは研究記録というより、どこか日記に近い印象だった。
方法や理論が綿密に書かれているわけではなく、感想のような文言が多く混じっているせいだろう。
日付を見る限り、三十年以上も前から書き継がれているようだ。
“魔核の発見、運搬方法がようやく確立した。これで研究が進められる”
“魔核は放置しておけば自然の魔力を吸収して魔獣になる。だが、実験用の観察ケースに封じた状態で、人間の魔力を与えたところ、奇形のような魔獣が発生した。
しかしすぐに崩れてしまった。供給法か魔力そのものか、どちらかに原因がありそうだ”
“魔核同士を至近距離に置いたら、二つの体が融合したような魔獣が生まれた。これは面白い。いろいろ試してみたい”
資料を読み進めながら、ノクスは顔を顰める。
(……まともな精神じゃねぇな)
そのすぐ後ろで、レイジも息を呑むような気配を見せていた。
ただの実験記録とは違う、異様な熱――好奇心のような、歪んだ興奮が文面に滲んでいる。
“人間に直接魔核を近づけたら、魔力を吸いつくされ死んでしまった。やはり直接は耐えられないか”
“実験を始めて◯人目。なんと、生きている。
瞳は金色に変質していた。魔獣のような輝きだ”
(……ミレナ以外にも、成功例が?)
ところどころ文字は掠れ、数字も一部読み取れない。
だが、少なくとも人体実験が以前から行われていたことは間違いなかった。
ページを捲る手を止めず、ノクスは読み進める。
だが、そこに綴られていたのは「成功」とは到底呼べない結果だった。
“常人ではありえないほどの魔力量と戦闘能力を得た。まさに兵器――だが、精神に異常をきたし、制御不能”
“強すぎる。殺すことができなかった。結界を張り、封じた”
“数カ月後様子を見に行くと、姿が消えていた。残されたのは血の跡のみ。
おそらく肉体が崩壊し、朽ちたのだろう”
(……確認もせず、それで片づけるか?)
ノクスは舌打ちした。
二十年近く前の話のようだが、仮に今もどこかに“それ”が存在しているとしたら?
ーー想像したくもない。
思考を切り替えるように手記を棚に戻し、次に読む資料を選んでいると、見慣れない国名が書かれた背表紙が目に入る。
『スィルフニア王国』
かつて、"風の王国”と呼ばれた国。
十七年前に魔物の襲撃を受け、滅んだとされている。
険しい山々に囲まれ、閉鎖的だったため、いまだ不明な点が多い。
ノクスは王宮の史実講義で、一度だけ聞いたことがあった。
街は全滅、生存者なし。だが、死体の数が人口に対して少なすぎるという噂もあった。
“魔物に喰われたのだろう”という言葉で済まされていたが――
ノクスの胸に、不穏な予感が広がる。
無意識に近い動作で、その資料を手に取った。
そこに書かれていたのは、スィルフニア王国への襲撃計画と実行記録。
合成獣の性能試験、実験体の確保。
外部からの干渉を受けにくい国を、実験場として利用する計画が、淡々と記されていた。
(……最低だな)
ノクスの目が険しくなる。
さらに最後の数行で、その胸はさらに重くなった。
“性能は良好。数さえ揃えれば国は落とせるとわかった。王侯貴族の魔力も、被験体として上々。波継の資質を持つ者は特に興味深い”
“ただ一つ残念なのは、赤子の王女が行方不明だったこと。
自我が芽生える前の王族で、実験をしたかったのに”
(……マジで狂ってんな)
王族の赤子など、通常はどんな手段を使っても手に入らない。
だからといって、それが手に入らなかったことだけが"残念"とは――
ふと、思考の淵である少女の姿がよぎった。
風を操る、黒髪の少女。
ノクスは、彼女が風を纏うたびに、あの“共鳴波”を確かに感じていた。
(……風の響術、か)
それが何を意味するかは、ずっと前から知っていたはずだった。
響術使いだと気づいていたのに、なぜ今まで、深く考えようとしなかったのか。
そのたびに、他の出来事に気を取られていたせいか。
あるいは、無意識に――考えないようにしていたのかもしれない。
国が滅んだのは十七年前。
シオンの年齢、術の属性――偶然にしては出来すぎている。
魔物の襲撃の際、誰かが王女だけでも逃がしたのだとすれば……。
今、彼女がここにいる理由にも、辻褄が合う。
だがノクスは顔を僅かに顰めると、小さく首を振った。
(……確証はねぇ。仮にそうだとしても、俺に何ができる?)
声には出さず、彼は資料の束を懐にしまう。
他にも証拠となりそうな手記を集めていると、後ろから声がかかった。
「ノクスさん……ここ、壊すんですか?」
険しい顔をしていたノクスに、レイジが遠慮がちに問いかける。
ノクスは短く息を吐き、答えた。
「……壊せば、すべて消える。だが、それじゃ“伝わらねぇ”」
静かに答えると、ノクスは片膝をついて床に触れる。
淡い光が走り、封印用の魔術式が展開されていった。
魔核の干渉を遮断し、内部から外への“逃走”を封じる構造。
その一方で、この空間に掛けられていた隠蔽魔術は意図的に弱めた。
――一定の距離に入れば、気づく者には異変が伝わる程度に。
「……俺たち以外は出られねぇようにしておいた。あとは、気づくのを待つだけだ」
この国の問題は、この国の手で対処させる。
リヴァレーナ王国の警備隊は、無能ではない。
痕跡さえ残しておけば、いずれ必ず辿り着く。
報告しないのは、自分たちの関与を隠すためだ。
特にノクス――グレイシャ帝国皇帝の“側近”という立場で関われば、下手をすれば国家間の火種になりかねない。
魔術式が完成し、ノクスは踵を返した。
部屋を出て階段を上がり、来た道を戻る。
罠はすでに機能を停止しており、敵の気配もない。
ただ、重たい沈黙だけが、肌にまとわりつくように残っていた。
ようやく地上に出た時、ノクスは足を止めて振り返る。
通路は閉ざされ、ただの石壁がそこにある。
それなのに、目の奥にはまだ檻の影が焼き付いていた。
彼は一度目を閉じると、ひとつ息を吐き、壁に背を向ける。
再び瞼を開ければ、僅かな月明かりの差す暗い路地だけが瞳に映った。
少しずつ、現実が戻ってくるような感覚だった。
深夜。
時間の感覚も曖昧になるほどの、長く重い探索だった。
「……行くぞ」
そう告げると、ノクスは音もなく歩き出す。
レイジも黙ってそれに続いた。
情報の断片が、思考の底で蠢いている。
失敗作、合成獣、滅びた王国、そして……襲撃の中で逃された“誰か”の存在。
胃の底に澱のような違和感が沈んでいる。しかも――
(……どこ行きやがった、あの魔物ども)
誰かが動かしている。
しかも「改良」「再実験」などという言葉もあった。
(まさか、またどこかの国が……)
胸騒ぎは、まだ消えない。
細道を抜けた頃、冷たい夜風が頬を撫でた。
頭にこもっていた熱が、ほんのわずかに抜けていく。
「……静かですね」
後ろでレイジが、小さく呟いた。
ノクスは空を見上げる。
夜空にはいつの間にか雲がかかっていて、星も月も見えなかった。
この研究施設はもう終わりだ。
証拠も手に入れた。
だが、肝心の中心人物たちは、魔物とともに消えている。
「……嫌な予感しかしねぇ」
ノクスはぼそりと声を落とす。
そして二人は沈黙のまま、静かに船へと帰還した。




