【番外編】嘘の始まり
“ローラン”と呼ばれた少年が、“ベルナルド”という仮面を手にするまで。
生まれたのは、貧民街だった。
地図にも載らない路地裏の、湿気と埃の匂いが染みついた場所。
昼でも薄暗く、雨が降ればすぐぬかるみ、夜は誰がどこで倒れていてもおかしくない。
父親の顔は知らない。
母親と、ボロボロの家で二人暮らしだった。
母さんがどんな仕事をしてたのかは知らない。
ただ、夜に出ていくことが多かった。
その時間が、俺の自由時間だった。
生活は苦しかったが、それなりに何とかなっていた。
俺には、「味方」がいたから。
「今日も収穫あり、と」
盗みやすい屋台、捨てられたパンが拾える店の裏口、スリの成功率が高そうな人間……。
全部、「何か」が教えてくれた。
目に見えない、でも確かに存在する“何か”が。
その正体を知ったのは、七つの時だった。
夜は、特にその「何か」がよく話しかけてきた。
母さんがいない時間、寂しくないように相手をしてくれた。
だけどある晩、母さんが珍しく早く帰ってきてーー
俺を見た瞬間、顔を真っ青にした。
「ローラン……あなた、誰と喋ってるの……?」
「え……?」
子どもには、よくある話だ。
自分に聞こえるものは、他の人にも聞こえると思っている。
特に、他人とあまり関わらずに育ったなら、尚更だ。
「母さんには聞こえないの?」
「何言って……」
「じゃあ……見えればいいのかな」
声のする方に手をかざして、意識を集中した。
初めてだったけど、何となくできる気がする。
ーーイメージする。姿を、現せるようにと。
そして。
現れた“それ”を見た母さんが、悲鳴を上げた。
「母さん、どうしたの?この人は……」
「近寄らないで!」
化け物でも見るような目で、俺を睨んだ。
俺、何か悪いことしたのかな……。
混乱する俺と目が合った母さんは、震えた声で言った。
「……ずっと、気味が悪いと思ってた……。その瞳で、私を見ないで!」
紫色の、俺の瞳。
生まれつきのこの色を、母さんは「気味が悪い」と思っていたらしい。
その日を境に、母さんは家に帰ってこなくなった。
「ほとんど」じゃない。本当に、一度も。
捨てられたと、本能で悟った。
盗みと残飯漁りで、生きていくことはできる。
話し相手だって、いる。
それでも、胸の中にぽっかりと穴が空いたようで、居心地が悪い。
そんな時に出会ったのが、一人の男だった。
「……“死霊の目”とは、珍しいモンを持ってるな」
知る人ぞ知る、忘れられた異能。
それを見抜いた男の目は、どこか探るように光っていた。
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その男は情報屋だった。
色んなことを知っていた。
“死霊の目”――それは、死者の声を聞き、その姿をこの世に映す力を持つ者に現れる徴だという。
生まれながらに備わる資質で、その瞳は、紫の光を宿している。
「修行すれば、死霊を呼び出して使役することもできるぞ」と言われたが、断った。
興味がまったくわかなかったから。
ただ、なんとなく、この男の話を聞くのは楽しかった。
けれど面白い話には、すぐ値札がつく。
「ここから先は有料だ」
金なんて、ない。
最近はスリの腕も落ちていた。
「じゃあ、お前……俺の仕事、手伝ってみないか?」
「仕事?情報屋の?」
「いや、“裏”の方だよ」
男は、にやりと笑った。
「嘘をつく、仕事だ」
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最初は、俺が騙すわけじゃなかった。
男の言う“仕事”に、子連れは都合がいいらしい。
警戒心が緩むし、ちょっとした芝居がやりやすい、と。
俺はただ、隣で手を引かれて歩くだけ。
それでも、一応の「受け答え」は教えられた。
「お父さんの仕事、手伝ってるの」「今日はおでかけ」
そんな、簡単なやつ。
最初のうちは緊張して、何度も言葉が詰まりそうになった。
でも、不思議なもんで、繰り返しやるうちに、だんだんと楽しくなってきた。
本当じゃないことを、それらしく言う。
相手が信じてくれる。
それが、なんだかおかしくてーー心が、ふっと軽くなるような気がした。
もっと上手く言えたら、もっと騙せる。
相手の表情が変わるのが、面白かった。
気がついた時には、嘘が口をついて出ていた。
教えられたことじゃない。自分で考えた、もっと自然な言い回し。
その場に合わせて、言葉がするりと出てくる。
まるで、呼吸をするみたいに。
「……やっぱり、お前は面白いな」
仕事の帰り道、男が笑った。
にやにやと、含みのある笑いだった。
「ベルナルドって名前、知ってるか?」
「……何、それ。人の名前?」
「そう。“嘘つき”って意味さ。諸説あるけどな」
意味なんてどうでもよかった。
響きが、どこか自分にしっくりきた。
「じゃあ、今日からお前はベルナルドだ」
「……俺の名前、ローランだけど」
「捨てちまえ。もうその名前に未練はねぇだろ?」
一瞬だけ、言葉に詰まった。
でも……確かに、あの名前を呼ぶ人間は、もうどこにもいない。
戻る場所も、思い出す顔も、何も残っていなかった。
なら、どうでもよかった。
「……わかった。じゃあ俺、ベルナルドになる」
それが、俺の第二の人生の始まりだった。
"ローラン”は、あの夜と一緒に置いてきた。
もう誰も呼ばないし、思い出すこともない名前として。
俺は詐欺師として、嘘を積み重ねていった。
この顔に生まれたのは、運が良かったと思う。
仕事をする上で、とても都合がいい。
きれいな顔ってだけで、人は安心してくれる。
警戒心が緩んで、こっちの嘘を信じる。
その点は……母さんに、感謝してるよ。
唯一、あの人からもらった“使えるもの”だから。
忌々しがられた、この紫の瞳も。
何も知らないやつらは、「綺麗」「吸い込まれそう」なんて、簡単に言ってくる。
そのたびに、心のどこかに落ちるどす黒い感情に、気づかないふりをして。
それを隠して、利用して、騙す。
ーー嘘は、武器になり、道具になり。
いつしか、俺の“居場所”になっていた。
本当のことを話すより、嘘をついていた方が、ずっと楽だった。
だから俺は、笑って騙す。
信じさせて、奪って。気づけば、それが“日常”になっていた。
誰にも、本当のことなんて教えないままーー
ずっと書きたかった、ベルナルドの過去編でした。
シオンにだけ「本当の名前」を呼ばれたかったのは、彼女の前でだけは「嘘じゃない自分」でいたかったから。




