53.仮面を脱いだその先で
ベルナルドの限界。
朝一番で届いた“報せ”は、完璧に用意されたもので、問題なく使われた。
「大旦那様の急病により、一刻も早い帰還を要する」という書状は、侯爵にとってもそれなりの衝撃だったのだろう。
わずかに驚いた様子を見せながらも、「それは大変だ」とすぐに納得し、快く送り出す準備を整えてくれた。
本来なら、もう数日ほど滞在するはずだった。
それが突然の出立となったことについて、シュゼルが丁寧に詫びと礼を述べたとき、侯爵はわずかに目を細めただけで、それ以上は何も言わなかった。
静かな朝の光のなか、石畳の前に馬車が用意される。
先日とは打って変わって、見送りに集まった人数はまばらだったが、それはかえって都合がよかった。
シュゼルが手早く荷を確認し、カルロがそれを受け取って積み込む。
今回は乗ってきた御者がそのまま手綱を握るため、ベルナルドも中に乗るらしい。
貴族夫妻と執事、そして護衛。
揃って乗っている光景は一見それらしく見える。舞台の幕はまだ下りていない。
シオンは馬車の中から、屋敷の門に一度だけ視線を向けた。
ーーこの屋敷に、何があったのか。
本当の意味で知ることは、もうないかもしれない。
「出発しますね」
御者の言葉に、誰もが静かに頷いた。
揺れる車輪の音が、屋敷の石畳を静かに転がっていく。
馬車の中には、しばらく誰の声もなかった。
シュゼルは相変わらず背筋を伸ばして座り、カルロは扉側の座席で目を閉じている。
ベルナルドは軽く目を伏せて下を向いていた。
シオンは窓の外に視線を向けたまま、静かに息を吐く。
街を抜け、石畳の道が少しずつ土の道に変わっていくのが見えた。
見知った風景のはずなのに、昨夜までの“仮面”がまだ体のどこかに残っている気がして、肩の力が抜けきらない。
「……こんなに早く帰ることになるなんて、思ってなかったわ」
誰に向けたともなく、ぽつりと零す。
それでも、その言葉に対して返ってきたのは、思ったよりあっさりした声だった。
「予想以上の情報が手に入った。悪くない結果だったよ」
ベルナルドだった。
軽く顔を上げて言ったその顔には、いつもと同じ笑みが浮かんでいる。
「ただ、滞在が延びたら厄介な事になったかもしれないし。……引き際としては、ちょうどいい」
そうなのかもしれない。
けれどーー。
(それでも、何かが置いてけぼりになった気がする)
シオンはそっと頭を振り、考えるのをやめた。
終わったことだ、今さら気にしたってどうにもならない。
正面から彼女を見ていたベルナルドは、僅かに苦笑する。
だが視線の先には、自然と彼女と並ぶシュゼルの姿も映っていた。
もうすぐ、この作戦は本当に終わる。
森に入って、御者に馬車を任せて、船に帰るだけ。
もう少し……なの、だが。
「……無理。もう限界」
「は?」
ベルナルドの呟きに、不思議そうな声が返る。誰のものかはわからなかった。
それでも彼は、馬車の中だというのに立ち上がると、いきなりシオンを抱き上げる。
「きゃっ!? ちょ、なに、えっ……!?」
シオンが動揺混じりの声を上げた。
あまりに唐突な行動に、カルロどころかシュゼルまでもが呆然と見つめている。
しかし、そんな視線を気にする様子もなく、ベルナルドは御者に向かって早口にまくしたてた。
「悪い、あと頼んだ」
短い一言だったが、御者はそれだけで察したのか、振り返らずに片手を上げた。
「貸し一だ」と、小さく呟いた声が耳に届く。
この短いやり取りで通じるのだから、よほど気心の知れた「仲間」なのだろう。
「お前さんたちは後から来て。詳しくはそいつに聞けばいいから」
「は!?おい、何言っ……」
ベルナルドが言い終わると同時に、彼とシオンの体が淡い光に包まれる。
カルロの声が言葉になりきる前に、二人の姿は光の粒子とともに消え去った。
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シオンが目を開けると、そこは船長室だった。
三日前に地獄の特訓をしたのが、遠い昔のようである。
突然のことにしばらくぽかんとしていたが、我に返ったようにシオンは言った。
「……ねえ、降ろしてほしいんだけど」
「嫌だ」
即答され、シオンは言い返そうとするーーが、声にならず言葉に詰まった。
間近にあるベルナルドの顔が、普段の不敵な笑みでもふざけた感じでもなく、まるで拗ねた子供のような表情をしていたから。
「……どうしたの?」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
彼女の言葉に対して、「どうしたも何も……」とベルナルドは呟く。
「シオンが演技とはいえ、他の男と夫婦になって、同じ部屋に泊まって、密着してダンスして……。しかもお似合いときたら、いい気分なんてするわけ無いだろ」
これ以上見ていたくない、何度そう思っただろう。
ぶつぶつと独り言のように呟いていたが、近かったため内容はしっかり届いた。
何だか、言葉遣いまで子供っぽい気がする。
そして、その呟きを聞いたシオンは、呆れ顔で口を開く。
「……いや、あんたがやれって言ったんだけど」
作戦を考えたのも、配役を決めたのもベルナルドだ。
そのために地獄の特訓までやらされたのに、文句を言われるのは腑に落ちない。
ごもっともな意見に、ベルナルドはため息混じりに言った。
「ああ、そうだよ、全部俺だよ。でも、こんなにキツイなんて予想外過ぎだ!」
顔を僅かに赤らめ、駄々をこねるように腕に力を入れるベルナルドに、何故か抵抗する気が起きない。
いつもと違いすぎるせいだろうか。
ふと、海底の村から戻った時のことを思い出す。
爺様が言っていた。「素のベルナルドは案外可愛い」って……。
あの時は「何言ってるの?」って思ってたけど、こういうこと??
まさか、これが”素”なの?
何だか、少し可笑しくなってきた。
「あんたでも、こんな顔するのね」
「……俺も、知らなかった。……いや……」
以前は、そんな顔もしていた気がする。……ずいぶん、昔のことだけど。
そこまで思ったところで、ベルナルドは何かを思い出したように動きを止めた。
どうしたのかと不思議そうにしているシオンに、ベルナルドは問いかける。
「あのさ。前に、お願いがあるって言ったの、覚えてる?」
「え?……ああ、なんか言ってたわね」
裏切り前に、星空を見た時のことを言っているのだろう。
やっぱり今じゃない、と言ってやめた。そんなことがあった気がする。
ベルナルドは一呼吸置いた後、いつもよりやや低い声で静かに言った。
「二人の時はさ。俺のこと、"ローラン”って呼んでくれない?」
「……?」
意外な願いと、聞き慣れない響きの名前に、シオンが目を瞬かせる。
何で?と疑問が浮かんだ瞳に、ベルナルドは少しだけ、いつもの調子に戻って口を開いた。
「シオン限定の、特別な呼び方がほしいなって」
こういう顔の時は、大抵嘘だ。シオンは思った。
嘘というか、何かを隠しているというか……。
けど、正直理由はどうでも良かった。
"お願い”そのものは、真剣なことがわかったから。
シオンは少し躊躇ったあと、軽く首を傾げ、確認するように呼んだ。
「……ローラン?」
刹那、ベルナルドが固まる。
僅かに見開かれた目で、シオンを見つめーーそして。
気がつけば、その端正な顔でシオンの視界は塞がれていた。
「………っ!?」
唇には、触れてない。
かろうじて触れていないが。
口の、すぐ横に、彼のそれが触れたのがわかった。
「なっ……に、」
「いやぁ、あんまり可愛かったから、ついね?」
うまく言葉にできず、口をパクパクしながら顔を赤くするシオンに、軽口混じりに言うベルナルド。
あまりに動揺していたので、彼の瞳が揺れていることには気付けなかった。
「あ、ついでにお願いしていい?口以外なら、キスしていい許可とか……」
「〜〜〜っ、聞く前にしてるじゃない!」
シオンが急に動いたため、一瞬バランスを崩しかけたが、すぐに立て直す。
そして優しくベッドに座らせると、顔を覗き込んで聞いた。
「それで、返事は?」
「もう、いちいち聞かないで!どうせ許可とか関係ないんでしょ!?」
怒ってはいるが、拒否はされてないことに、ベルナルドは満足そうに微笑む。
その表情に勢いをそがれ、シオンは気まずげに目を逸らした。
「……疲れたの。だからもういいでしょ?出てって」
言い方は素っ気ないが、その耳は赤く染まっていた。
ベルナルドは立ち上がると、わざと執事っぽく礼をしながら、「了解しました、ごゆっくり」と言って踵を返す。
そして扉を開ける手前で、振り返って聞いた。
「あ、一人で着替えられる?良ければ手伝うよ?」
「いらないから!」
シオンの反応を見て楽しげに目を細めながら、彼は部屋を出る。
ドアを閉めた後、中から大きなため息が聞こえた。
対するベルナルドは、今さら赤くなった頬を隠すように、片手で顔を覆う。
「……思った以上に、破壊力あったな……」
もう、誰にも呼ばれることはないと思っていた名前。
シオンにだけは呼んでほしいと、あの時からずっと願っていた。
それが叶ったことは、彼にとって大きな意味をもっていた。
“ローラン”
それは、もう誰にも呼ばれなくなった名前。
"詐欺師ベルナルド"になる前の、
彼の「本当の名前」だった。
次回は番外編として、ベルナルドの過去を描いたエピソードをお届けする予定です。




