52.偽りの幕間に
舞踏会のホールから少し離れた、休憩室として開放された一室。
今この部屋にいるのは、銀髪の執事と、気を失った貴族の男――それだけだった。
ベルナルドは雑に頭をかきながら、窓の外へと無言で視線をやり、乱れた髪を気にすることなく深く息を吐いた。
貴族たちが次々と帰路につく光景が見える。舞踏会は、どうやら終わったらしい。
(……これで、ひと通りは終わり。だけど――)
視察目的での滞在という建前がある以上、あと数日はこの街に留まる予定だ。
けれど今は、それを早める口実を探したい気持ちが強かった。
理由のひとつは、すぐ傍に倒れているこの男。
シオンに、あの“探るような視線”を向けていた貴族だった。
怪しい動きを察知したカルロが廊下で制止し、その場に戻ったベルナルドが魔術で拘束。
二人でこの部屋へと運び入れ、人よけの魔道具を展開して封鎖した。
外からは誰にも気づかれないようにしてある。
そして――
ベルナルドは、さっきまでこの男に「質問」を繰り返していた。
怯えた目で返ってきたその返答に、思わず口元が引きつった。
(被検体、だと? ……冗談じゃない)
この男は、地下施設の組織に“実験体”を提供していた。
詳細までは知らないらしいが、普段は身寄りのない裏路地の人間を引き渡していたという。
だが今回、研究側から「より有用なサンプルが欲しい」と求められ、偶然目にした“新興貴族”――つまりシオンに目をつけた。
実際に彼女を一目見て、「使える」と判断したらしい。
あとは帰路で襲って連れ去るだけだった、と……まるで天気の話でもするかのように語った。
(……ふざけんな。こんな連中に、渡すかよ)
胸の奥がひやりと冷える。
怯えと図太さが同居するような男の口ぶりに、ベルナルドは笑みを崩さずにいたが。
……心の中では、苛立ちが小さく火花を散らしていた。
この男の記憶に、ベルナルドの姿は残らない。
“ぼかし”をかけて、名前も容姿も曖昧にしてある。
存在を辿られる心配は、まずない。
あとは、どうやってこの街から引き上げるかだ。
長く留まるのは危険だが、怪しまれてもまずい。
……だが、そもそも“実在しない貴族”なのだ。
逃げ切ることさえできれば、足がつくことはないだろう。
「……明日で切り上げられるように、書状でも偽造するか」
自宅で緊急事態が起きた、という報せを早馬で届けさせればいい。
それを理由にすれば、急な帰還にもそれなりの体裁がつくだろう。
静かに立ち上がると、ベルナルドは懐からカードを取り出し、何気ない仕草で軽く弾く。
火花のような魔力の光が瞬き、空間が揺れた。
「……ま、そろそろ“執事役”も疲れてきた頃だしね」
ぼそりと呟きながら、彼は光の中に姿を消した。
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使用人用として割り当てられた、主人の隣の客室。
その空間にふわりと揺らぐ魔力の光とともに、銀髪の男が姿を現した。
転移の余波が消えるより早く、その姿に声がかかる。
「……終わったのか?」
声の主はカルロだった。
部屋着に着替えた彼は、いつものように淡々としていたが、わずかに眉が動いている。
「うん、完璧」
短く答えると、ベルナルドは自室の奥を顎で指し示す。
「ちょっと話があるんだけど……こっち、来てくれる?」
二人の部屋は、緊急時のため主人の部屋と内扉で繋がっている。
ベルナルドが静かに取っ手を引くと、扉の向こうにいたシオンが反応した。
入ってくる二人を見て、静かに駆け寄ってくる。
「……ずいぶん時間かかってたけど、何かあったの?」
少しだけ心配を滲ませる声。
その言葉に対し、ベルナルドは何も言わず、部屋に一歩踏み込んだ瞬間――
彼女を、強く抱きしめた。
「……っ!?」
思考が一瞬飛んだらしい。
抱き返すでもなく、拒むでもなく、シオンはただ固まったまま言葉にならない声を上げた。
ベルナルドは軽く呼吸を整えたあと、いつもの調子を取り戻すように耳元で囁く。
「……心配してくれたの?嬉しいなぁ」
その声に、ようやく我に返ったシオンは、腕の中でもがき始めた。
「してないわよ!!」
彼女が手を振り上げるより早く、ベルナルドはスッと身を引く。
ふと横を見れば、カルロが口を半開きにして凝視していた。
ベルナルドは「ごめんごめん」と肩をすくめ、すぐに真面目な表情に戻る。
「……で、本題なんだけど」
気配を切り替えたベルナルドに、シオンとカルロが姿勢を正す。
シュゼルはすぐ傍のソファに腰掛けたまま、こちらを見ていた。
「明日には、ここを発とうと思う」
「随分急だな」
予定では数日滞在予定だと聞いていたので、少し驚く。
「うん。早馬で“自宅で緊急事態が発生した”って書状を届けさせるつもりだよ。それを理由に、視察中止ってことで」
「……あんた、そういう嘘だけは準備早いのね」
シオンの呆れ顔に、もう怒りは残っていなかった。
続けて、確認のためにシュゼルが問いかける。
「調査は終わったのか?」
「抜かりなく。用が済んだなら、早く帰りたいしねぇ」
笑顔で答えるベルナルド。
だがその笑みは、どこか一線を引いたような“わざとらしい”軽さだった。
本当の理由を、ベルナルドはあえて口にしない。
言ったところで、彼女の心を乱すだけだと分かっていた。
そして――もうひとつ。
“別の理由”で、これ以上ここにいたくないことも。
(……本当に。あんなもん見せつけられて、平気な顔してられるわけないからね?)
内心の声は、いつもよりずっと静かだった。
「……まあ、早く帰れるならそれでいいけど」
不意に、シオンがぼそりと呟く。
「貴族のフリも、長くて重いドレスも、疲れるだけだもの」
心底もうやりたくない雰囲気を漂わせるシオンに、ベルナルドの顔が若干やわらいだ。
返したのは、ほんの小さな笑みだけ。
けれどそれは、いつもよりずっと――
柔らかくて、あたたかかった。




