50.仮面の下の本音
屋敷内の灯りはすでに落ちつつあり、廊下に立つ燭台の火だけが壁を照らしていた。
足音を立てずに歩きながら、ベルナルドは軽く口元に笑みを乗せたまま、人とすれ違えば自然に会釈し、ごく短い挨拶を交わしていた。
「少々、迷ってしまいまして……ああ、大丈夫です。すぐに戻りますので」
差し障りのない言葉と、柔らかい態度。
その全てが“ここにいて当然”であることを装う演技だった。
(……昼間の侯爵との話。剣士くんが言うには――)
思考の端で、シュゼルから受け取った情報を反芻する。
最近、この屋敷と付き合いのある商人の話。
表向きは珍しい遺物や魔道具を取り扱う、少数精鋭の上級商人ということになっている。
取引先には貴族や学者が多く、その名はこの都市でもそれなりに知られている。
だが、話を聞けば聞くほど、どこか“整いすぎている”。
(変に手慣れてるっていうか……経歴が綺麗に出来すぎてる)
作られた経歴。
触れさせたくないものを、上から丁寧に覆い隠したような印象。
表面だけでは何も見えてこないタイプだ。
(それに、晩餐会でシオンを見てたあの視線……)
考えただけで、眉間にうっすら皺が寄る。
シオンが緊張していた“あの”視線。
男たちの中には、彼女を品定めするような不埒な視線を向けていた連中も確かにいた。
だが彼女の背筋が凍ったのは、そういう生臭いものではなかった。
(……可愛いから狙ってる、ってだけじゃなかったな)
感情や欲ではなく、“意味”を探す目。
何かを知っていて、試そうとするような、そういう視線だった。
(まあ、誰であろうと……手出しなんて、させないけど)
思考の温度がひとつ下がる。
冗談を混ぜる気も起きない。
そういう相手には、迷いなく牙を剥くつもりでいた。
足音を殺し、気配を紙一重まで薄めながら、廊下の影を縫うように進む。
人気のない廊下を抜け、控えの間を通り、ついには隠された扉の先へ向かう影を見つけた。
(……あれか)
姿は見えなかったが、複数人の気配がある。
会話は壁に遮られて聞き取れない。
だが、それがただの談笑でないことはすぐに察せられた。
扉の先に続いていたのは、隠し通路。
地図にも載っていなかった構造。
屋敷の中で“別のルール”が動いている証だった。
(今は、深追いしない)
今夜は宴の余韻が残る。
下手に動いて疑われるのは、得策ではない。
明日――舞踏会の喧騒の中で、屋敷が緩む瞬間があるはずだ。
そのとき、もう一度踏み込めばいい。
そう考え、ベルナルドは音もなく踵を返すと、来た道を戻る。
ひとつ息を吐いたとき、ふと、今日の出来事が頭をよぎった。
深紅のドレスに身を包み、背を伸ばして椅子に座る少女。
隣に座り、柔らかく会話をさばく青年。
まるで、本物の貴族夫妻だった。
(……似合いすぎてたな、あの二人)
心のどこかで、そう思ってしまった自分がいた。
しかも、今日あの二人は同じ寝室にいる。
演出として組んだ配役。
お互いに気なんてものは、全く無いのもわかってる。
けれど、それでも。
どうしようもなく、胸がざらついた。
(……はあ、格好悪。どんだけ本気なんだよ、俺は)
自分の中にあるものが、もはや隠し通せないことは、とうに気づいていた。
“惚れた”だの、“好き”だの。
そんな軽口で済むものではなくなっている。
それでも。
彼女が笑っているなら、それでいい――と、そう言えた頃よりも、
もっと厄介なところまで来てしまっていた。
「ま、いいさ。……後戻りなんて、出来ないんだから」
誰も聞くことのないその呟きは、夜の闇に溶けていった。
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翌朝。
陽がまだ高く昇りきらないうちから、シオンの部屋では慌ただしい準備が始まっていた。
慣れない手順に四苦八苦しながら、何とか髪を整え、化粧を施し、身体をドレスに通していく。
昨夜の深紅の衣装とはまた違う、舞踏会用の装いはより華やかで、動きにくさも増していた。
(……この袖、通しづらっ……!)
あくまで貴族としての雰囲気は崩さないようにしつつ、着づらい服に顔を顰めたくなる。
使用人の手も借りながら、時間をかけてようやく着付けが完了したとき、鏡に映る自分の姿に、シオンは小さく目を見張った。
まるで、知らない誰かのようだった。
艶のある黒髪は美しくまとめられ、繊細な髪飾りが揺れている。
ドレスは深い群青に銀糸の刺繍が施され、胸元には昨夜とは違う宝石が輝いていた。
(これ……あいつが、用意したのよね)
この姿を見て、どう思うのだろうか。
軽口を叩くのか、今は執事役だから直接は何も言ってこないのか。
……それとも、特に何も感じないのか。
(待って、何であんなやつの反応気にしてるのよ!?そんな場合でもないでしょ)
思考を慌ててかき消し、深呼吸をしながら改めて気を引き締めた。
(……大丈夫。昨日も乗り切ったんだから、今日だって)
そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を整える。
失敗はできないのだ、と。
やがて時間となり、シオンはシュゼルとともに会場へと向かった。
舞踏会の広間はすでに整えられ、数多の灯が天井を照らし、光は床の磨かれた大理石に反射していた。
開幕まであとわずかという空気が、辺りに淡い緊張を漂わせている。
シュゼルとシオンは、あらかじめ指定された立ち位置へと案内された。
一対の貴族夫妻として、会場の一角に並び立つ。
主役ではないが、目を引く位置。
主催者側からの“期待”が、無言で滲んでいた。
二人は互いに言葉を交わすことなく、ただ静かにその場に立っていた。
シュゼルは少しも崩れない姿勢で、まるで像のように佇んでいた。
その隣でシオンも、背筋を伸ばして沈黙を守っている。
笑顔は張りつけではないが、会話が必要な場面でのみ動く、最低限の仮面だ。
遠く離れた位置には、カルロの姿があった。
壁際、視界の開けた位置から常に二人を見守っている。
控えめながら、鋭く場を見渡すその視線に、ただの護衛ではない存在感が宿っていた。
そして、会場の別の側面――
そこには、燕尾服に身を包んだベルナルドの姿もあった。
数人の貴族たちと軽く言葉を交わしながらも、彼の意識は常に“中央”に向いていた。
視線の先にいるのは、誰よりも完璧に見える“二人”。
(……さて、舞台は整った。ここからが、本当の勝負だ)
その思いと共に、舞踏会の開幕を告げる音楽が、静かに鳴り始めた。
音楽が会場に馴染んできた頃、主催者が会場に現れる。
挨拶が終わると同時に、会場に柔らかな拍手が起こり、舞踏会は正式に開始された。
最初の時間は、貴族たちの歓談の場として設けられていた。
テーブルの周囲ではワインのグラスが軽く鳴り、日常の些事や最近の情勢が交わされる。
そのどれもが表向きの会話であり、裏の探りを含んでいることは明らかだったが、誰もそれを表には出さない。
シオンも、それなりに言葉を交わしていた。
シュゼルが隣にいるだけで、相手の態度が自然と軟化するのは有難かった。
何も言わずとも漂う気品と、あまりにも完璧な振る舞いが、黙って「格」を示してくれていた。
やがて、会場の音楽が一段階高まりを見せ、演奏が変わる。
舞踏曲だった。
騎士たちが姿勢を正し、紳士淑女たちが静かに動き出す。
その中で、シュゼルが何の前触れもなく、手を差し出した。
「最初くらいは、踊っておかないと怪しまれる」
その声音も、仕草も、ごく自然だった。
あくまで“配偶者”として、すべきことを果たすだけの動き。
けれど、その手の美しさと、無駄のない所作に、周囲の視線が徐々に集まっていく。
シオンはほんの一瞬だけためらい、しかし笑顔を浮かべてその手を取った。
二人は、舞踏会の中央へと静かに進み出た。
音楽の拍に合わせてステップを踏む。
シュゼルの手が、シオンの背を自然に導き、動きに迷いはない。
彼女のドレスが舞い、二人の髪がふわりと揺れるたびに、周囲からさざめきが漏れる。
美麗な男女――その組み合わせが、あまりにも絵になっていた。
その中心で、他者には聞こえぬ小声が交わされた。
「意外だな。君は踊れたのか」
「誘っておいて失礼ね……。まあ、スパルタ特訓の成果よ」
思い出すだけで顔を顰めそうになるが、堪えて笑顔を保つ。
ベルナルドとの特訓は、本当に笑いなど一切ない実技指導だった。
とはいえたった一晩の特訓では、ステップを覚えるだけで精一杯だ。
それでもこの踊りが“様”になっているのは、リードするシュゼルの技量のおかげだろう。
「……あんたは慣れてるのね、踊るの」
「“貴族”としてここに立つ以上、これくらいは普通だ」
その言葉に、シオンは思わず口元を引きつらせた。
(……普通のレベルがわからなくなってきたわ)
ぎりぎり表情に出さずに飲み込み、視線を逸らす。
しばらく音に身を預けるように踊っていたシュゼルが、ふと静かに言った。
「……私は、君に謝罪しなければならない事がある」
「……は?」
唐突な切り出しに、シオンは思わず聞き返す。
しかしシュゼルは視線を逸らさず、静かな声で続けた。
「船に乗せてほしいと言っておきながら、当初、私は君のことを海賊という色眼鏡で見ていた。理由も知らぬまま、罪人扱いすらしていたと思う。……だが、君はそんな人間ではないと、今はわかっているつもりだ」
その言葉には、演技のかけらもなかった。
普段は口にしない想いを、こういう機会でなければ言えないとばかりに、真面目に告げてきた。
シオンは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「……別に。海賊なのは、事実だもの。どう見られたって気にしてないわ」
ーー言わなければわからないのに。
わざわざ謝罪してくるあたり、本当に真面目だと思った。
その不器用な誠意が、少しだけ心に触れた気がする。
(……ほんと、まっすぐすぎるわね)
会話はそれきりになり、再び音楽だけがふたりを包む。
シオンの足取りも、先ほどより自然になっていた。
音楽の終わりが近づいても、視線は絶えることなく注がれていた。
その中に、ただの興味とは思えないものが混じっていることに、シオンはまだ気づいていなかった。




