26.無感情の瞳が映すもの
「ここに今日来るってこと、教えてくれてありがとう。それから、長い間お疲れ様」
ニッコリと微笑むマルヴァス。
視線の先にいるベルナルドは、黙って彼を見ている。
船員たちの視線も、ベルナルドに注がれていた。
「……あ〜あ、とうとうバレちゃったね」
大げさに肩をすくめて言うベルナルドに、カルロたちが身構える。
「依頼、完遂とはいかなかったけどーー」
言いながらシオンを振り返り……そして、言葉を止めた。
自分を見る彼女の瞳が、表情が、あまりに感情を宿していなかったから。
怒っているわけでも、
悲しんでいるわけでも、
呆れているわけでも、
嫌悪するわけでもなく。
ただ、“無”だけが、そこにあった。
しばらく目が合ったまま、時間が止まったようだった。
息をのむでもなく、言葉を発するでもなく。
ただ、沈黙だけが、二人の間に降り積もる。
そして――逸らしたのは、ベルナルドの方だった。
怒ってくれれば、軽口を叩けた。
悲しんでくれれば、慰めるふりして突き放せた。
呆れてくれれば、肩をすくめてみせた。
嫌悪してくれれば、騙された方が悪いと鼻で笑えた。
しかし、この感情のない瞳は予想外で、どう対処していいかわからない。
表には出さないが、心臓が激しく脈打っていた。
わからない、シオンの感情が。
そして、その真意を知ることがーー怖かった。
ベルナルドは気づかれないように小さく息を吐いたあと、いつもどおりの姿を装う。
「お前さんたちが強いのはわかってるけどね?でもあいつ、本当に卑劣で残虐で容赦ないから。狙った獲物は逃さない……って有名だし。ーー覚悟した方がいいよ」
そう言って不敵に笑うと、トランプのようなカードを一枚取り出す。
「俺、巻き込まれるのはゴメンだから。ーーじゃあね」
手の平のカードが、燃えるように淡く光りながら消える。
それと同時に、彼の姿も、まるで最初からいなかったかのように掻き消えた。
無音。
まるで、空気ごと引き抜かれたかのように、その場の温度が一瞬下がる。
(あれは魔道具か……?あんな使い方、見たことねぇが)
ノクスが疑問を持つのとほぼ同時に、静寂を破るような声が響いた。
「さぁて……どうやって遊ぼうか」
その声に、一同の視線がマルヴァスへと移る。
この船全体の戦闘力は、決して低くない。
賞金稼ぎだろうと略奪船だろうと、これまで大した苦もなく返り討ちにしてきた。
シオンや元傭兵のカルロはもちろん、ルナリアも一人で海賊一団を沈められるほどの戦闘力を持つ。
シュゼルは剣の達人であり、ノクスに至っては、あのアイゼルが「使える」と認めたほどの魔術師だ。
相手はたった一人。
それなのに。
構えはするものの、誰一人として動けなかった。
動けるはずなのに、体が重い。
意志が届いているのに、足が床に縫い付けられたように動かない。
本能が、囁いている。
“――動くな。今、動いたら死ぬ”
静かに笑うマルヴァスの姿だけが、不気味なまでに際立っていた。
(何だろう、この威圧感……)
ヘリオスはふと、足元にいるウィスカを見る。
らしくもなく、毛を逆立ててマルヴァスを睨んでいた。
「あいつ……何かおかしい。この感覚、まさか……」
ウィスカが呟くと、その足元に閃光が走る。
「ウィスカ!」
ウィスカは咄嗟に身を翻したが、閃光の衝撃で床に叩きつけられた。
反射的にヘリオスがウィスカに駆け寄り、シュゼルが彼を庇うように間に入った。
重圧の中であろうと、護ろうとする本能が、体を先に動かしたのだ。
「勘の鋭い子がいるなぁ……まあいいや」
魔術の余韻が残る手を引き下げ、マルヴァスは微笑む。
視線を再びシオンに戻し、楽しそうに聞いた。
「さあ、可愛い船長さん。信じてた仲間に裏切られた気分はどう?」
「……あんなやつ、最初から信じてないわよ。別に、裏切られたも何もないわ」
淡々と答えるシオンに、マルヴァスが目を丸くする。
シオンの表情は先程と変わらず、完全な無表情。
そうーー「完全」な。
平然としているのとは、違う。感情が消えたような瞳。
ああ、……そうか。
「あっはっははははははははは!」
急に大笑いを始めたマルヴァスに、ヘリオスの肩が揺れた。
レイジも引いたように一歩下がる。
「いやいや、ごめん……そっかそっかぁ。なんだあいつ、あんな事言ってたのに。
ちゃんと仕事してるじゃないか……」
一人で大笑いしている彼に、呆然とするしかない。
攻撃するチャンスですらない。
こんな様子でも、まったく隙を感じないからだ。
「サイッコーだよ、船長さん。もっとよく見せて、その可愛い顔を」
「あんたも相当な変態ね……」
その言葉ににやりと笑うと、マルヴァスがこちらに飛び移る姿勢を取るーー次の瞬間
「………?」
水が、大きく動く音がした。
同時に船体が大きく揺れ、シオンたちは体勢を崩す。
「これはっ……」
海面に、いつの間にか巨大な渦ができている。
気がついた頃には遅く、船はどんどん飲み込まれていった。
「きゃっ……」
「船長!」
急いでカルロが手を伸ばし、シオンを引き寄せる。
刹那、頭の中に声が響いた。
“何かあった時は、絶対に船長の手を離すなよ”
(言われるまでも……ない!)
聞こえてきた声をかき消すかのように目を閉じると、彼らは一瞬のうちに船ごと海に消えていった。
飛行魔術で咄嗟に距離を取ったマルヴァスだけが、その場に取り残される。
その光景にしばし唖然としていたが、やがて、ふっと笑った。
「……今は、渦潮発生しないんじゃなかったっけ?おっかしいなぁ」
マルヴァスの目が、どこか名残惜しそうに細められる。
「自分の手で壊せなかったのは、ちょっと残念かな……でも、まあ」
唇が、ゆるく歪む。
「いい顔、見せてもらったし」
マルヴァスは、先ほどのやり取りを思い返しながら、うっとりとした表情で呟いた。
シオンの表情には、何の感情もなかった。
怒りも、悲しみも、痛みも、何も。
ただ――「無」。
マルヴァスはそれが、「何も感じていない」のではなく、「壊れかけの感情」だと確信していた。だからこそ、面白かった。
「やるじゃない詐欺師くん。でも……ミイラ取りがミイラになってたけどね」
シオンと別れる間際の、ベルナルドの表情を回想する。
無感情のシオンを見て、僅かに苦しそうに歪められたあの顔。
必死に隠そうとしていたのが、また良い。
ああ、最高だった……!
あの冷めた目をした男の、あんな顔まで見られるなんて。
「刻めなかったのは惜しいけど、楽しませてもらったよ」
心は、思いのほか満たされた。
――充分じゃない。でも、悪くない。
不完全燃焼のこの剣は、他の賞金首で晴らしてこよう。
そう考え、彼はその場から去っていく。
にやりと笑い、薄く開いた瞳はーー妖しく、金色に輝いていた。




