25.賞金稼ぎは不気味に笑う
航路を確認する手が、ふと止まった。
地図の上、点線で描かれた航路に沿って視線を辿っていたレイジの眉間に、かすかな皺が寄る。
「……ここ、なんですけど」
談話室に広げられた地図を指さして、レイジが口を開く。
シオンは、その指先が示す位置を覗き込んだ。
「この先に、大きな渦潮が発生する海域があるみたいです。年に何回かの事みたいで、可能性が高いわけじゃないですけど。……発生した場合、通れなくなります」
静かだった室内に、重みのある沈黙が落ちる。
「迂回すると?」
シオンが聞く。
レイジは迂回路をなぞりながら答えた。
「かなり時間がかかりますね。到着が遅れると、情報を持っている相手とすれ違ってしまうかもしれません」
「……ギリギリの賭けってことね」
談話室の隅で本を読んでいたヘリオスと、座っていたシュゼルも顔を上げた。
レイジの言葉を聞いて、シュゼルが静かに目を細める。
誰からともなく、場に慎重な空気が漂いはじめた、その時だった。
「だったら、突っ切る方がいいんじゃない?」
シオンが座る椅子の背にひょいと腕をかけて、ベルナルドが顔を出す。
いつからいたのか、その気配に誰も気づかなかった。
「渦潮の発生条件は、結構限定的なんだよ。気温、風向き、潮の流れ……この数ヶ月の記録を見れば、予測できる。数日以内なら起きないだろうね」
「記録って、俺の?」
レイジが驚いた顔で聞き返す。
「そう。お前さんのノート、ずいぶん前に借りたことがあったろ?最近の観測も照らし合わせたら、発生確率はかなり低いってわかってさぁ」
「……なんでそんな詳しいのよ?」
シオンが訝しげに尋ねると、ベルナルドはあっさり答えた。
「情報を持ってる奴のことを、最初に聞き出したのは俺だから。行けなかったら困ると思って、あれこれ調べておいたんだよ。……まあ、航海術もちょっと興味あったし?」
軽い口調に、どう反応していいものかとレイジが困る。
だが、その時だった。
「……それ、信じていいんでしょうね?」
問いかけたのはシオン。
真っ直ぐな眼差しに、ベルナルドが片目を伏せて微笑む。
「もちろん、愛しの船長様のために」
いつものような調子。だが――
ヘリオスの視線が、ふとベルナルドの横顔に留まった。
(……なんだろう、この感じ)
軽く笑う唇。
飄々とした瞳。
そのすべてが「いつも通り」のはずなのに、どこか……微かに、違う。
ヘリオスが違和感を感じる中、シオンは黙ったまま、地図とベルナルドの顔を交互に見つめた。
ーーさて、どうしようかしら。
確かに、筋は通っている。
レイジの記録を根拠にしているという話も、理にかなっていた。
でも、確信は持てない。
今の自分の頭は、いつもより少し鈍い気がしている。
疲れているのだろうか。
思考が霞んで、判断の輪郭が曖昧になる。
けれど。
(……信じても、いいかもしれない)
それが、結論だった。
理由なんてどうでもいい、ただ――……
今この場で、彼の言葉を疑い続けることの方が、何よりもしんどかった。
「……突っ切りましょう」
静かに言った自分の声が、ほんの少しだけ震えているような気がした。
「了解です。念のため、周囲の観測は続けておきますね」
レイジが返し、シュゼルが目を細める。
ヘリオスは、誰よりも静かに、ベルナルドを見ていた。
「信じてくれて嬉しいよ、船長」
「……別に。間に合わないと困るだけよ」
「ま、そうだよね」
軽やかな声音。丁寧な仕草。
それは、何度も見てきた“いつものベルナルド”のはずだった。
……それでも。
(あれは……笑っているように見えて、笑っていなかった気がする)
ヘリオスの中に残った、名もなき違和感が、ふと冷たい波のように心を撫でた。
それが何なのか、この時はまだ、誰にもわからなかった。
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例の渦潮が発生するという海域に入った頃、風向きが少し悪くなり、船の進みが通常より遅くなった。
できるだけ早く抜けたいところなので、その速度に不安を感じる。
「……ちょっと、風向きを変えようかしら」
船を動かせるレベルで風を動かすのは、シオンといえども簡単ではない。
それでも、少しでも変化させられればーーと、手をかざした瞬間。
「やあ、会いたかったよ」
穏やかな、しかしゾッとするような響きのある声に、シオンは動きを止める。
いつの間にか、船の進行方向に一隻の船が浮かんでいた。
そこに、誰か立っている。
深緑の緩いウェーブのかかった髪を高い位置で一つに結び、動きやすそうな白い剣士服と茶色いマントを身にまとっていた。
穏やかそうに整った顔立ちは女性のようにも見えるが、肩幅や全体のバランスを見る限り、どうやら男性のようだ。
朗らかに笑う青年に、シオンは顔をしかめる。
「……初対面だと思うけど、どこかで会ったかしら?」
身体が警笛を鳴らしているのか、冷や汗が一筋頬を伝った。
すると青年は、ゆっくり首を横に振る。
「いや、初対面だよ。ただ、ボクが君に会いたかっただけ」
顔も、喋り方も穏やかなのに、背筋が凍るような気味の悪さがある。
すると、カルロが前に出て言った。
「何で、あいつがここに……」
「あれ、君……もしかしてカルロ?何で海賊船に乗ってるの?」
驚いたように言う青年に、カルロは黙る。
「知り合いなの?」と問いかけてくるシオンに視線を移すと、カルロは答えた。
「傭兵時代に一度だけ、一緒に仕事をしたことがあるだけだが……」
マルヴァス・ヴァリエール。
凄腕の賞金稼ぎとして名を馳せている青年である。
「生死不問」の賞金首ばかり狙うことも有名で、そのやり方はかなり残虐で嗜虐的。
相手を追い詰め、絶望させながら苦痛にゆがむ顔や命乞いする姿を見るのが大好きという、サディスティックな性格の持ち主だった。
そのため、付いた呼び名は「悦楽の狩人」
「そのやり方に、ついていけなくて……協力依頼を受けたのは、一度きりだ」
賞金首の集団を捕えるためにと、傭兵団に協力依頼がかかったことがある。
その時カルロも同行したが、あまりの残虐性を目の当たりにして、賞金首に同情したほどだった。
そんな会話を気にせず、マルヴァスはシオンを見てうっとりとした表情を浮かべる。
「ああ、やっぱり、本当に可愛いなぁ。可愛らしい顔を歪めるのが、一番楽しくて大好き」
「……狂ってるわね」
嫌悪感を隠しもしない表情で、シオンは言った。
ただしそれは、相手を喜ばせるだけである。
「君の色んな顔が見たくて、ずっと考えてたんだよ。切り刻んで苦しめるか、身動き取れなくしたあとに、仲間を一人ひとり目の前で殺すとか……でも、それより」
くすっと笑いながら、マルヴァスは言った。
「裏切られて、精神的に傷ついたら、どんな顔するか……それが見たくなっちゃって。それで、お願いしたんだ。ねぇ?」
薄笑いを浮かべた、その視線の先にはーー
ベルナルドの、姿があった。




