22.日常の中の、ささやかな異変
スカリオや屋敷の人たちにお礼を言い、ヘリオスたちはカグルの街をあとにした。
一週間ぶりに戻った船。
甲板に一歩足を踏み入れた瞬間、何かが――ほんのわずかに、違っていた。
見上げた帆の縁、柱の木目、歩いた板の継ぎ目。
どれも綺麗に磨かれていて、整っている。
……いや、それだけじゃない。
(……こんなに滑らかだったっけ?)
雨染みの跡や、削れた木の節。
そこに確かにあったはずの「細かな傷」が、見当たらない。
前に見たときは、もっと色がくすんでいた。
けれど今は、まるで最初から何もなかったみたいに――なめらかで、均一だ。
「すごく掃除、頑張ったのかな……?それとも張り替えた?大変だったろうな……」
船を休ませてる間は好きにしてていいと言われたが、きっと残ったメンバーでメンテナンスなどをしていたのだろう。
申し訳なさと同時に、ちょっとだけ――仲間に完全に溶け込めていないような、そんな寂しさを覚えた。
(次は、僕も手伝おう)
そんな風に思っていると、横を歩いていたレイジが言う。
「相変わらず、休ませたあとはキレイになるんですよね」
「あれ、レイジも手伝ったことないの?」
「はい。船長に何か手伝いたいって言ったら、”特にやることはない”って言われて」
それでも、こんなに綺麗になっていくのを見ていると――誰も、何もしていないとは思えなくて。
夜の間にルナリアが掃除などをしているんだと思い、手伝いたいと申し出たら、「必要ない」と一蹴されたという。
「この船は船長にとって、家族みたいに大切らしいから、下手に触られたくないのかもな」
近くにいたカルロが言う。
普段の掃除や片付けは皆で行っているが、シオンとルナリア以外が整備に携わったことはないらしい。
この船の変化について、誰も不思議には思っていない。
本当に、ただ綺麗になっただけ。そういう空気だった。
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出港してから、いつの間にか数週間が経っていた。
停泊期間が長いほど、出港直後は船の揺れに身体が少し驚いてしまう。
それでも、次第にまた気にならなくなってきた頃――。
船内を歩いていると、ふと目に留まる床材や柱の節。
きれいになってはいるが、当然ピカピカの新品というわけじゃない。
誰が見ても「しっかり掃除したんだな」で済まされてしまう程度の変化だった。
けれどやっぱり、どこかうっすら“直っている”気がする。
(やっぱり、変だよな……)
磨いただけでは消えないはずの、小さなひびや亀裂、歪み、加えて雨染みもなくなっている。
それに、木の色がほんのわずかに若返っていたり。
はじめは、張り替えたのだろうと思った。
でも違う。節の形が以前のものと一致していることから、そうでないとわかる。
全部、覚えている。
一度見たものは忘れない自分だからこそ気づける、その“わずかな変化”。
木の節も、年輪の流れも、繊維の小さなほつれまでも――どれも、前に見たままだ。
使われているのは、間違いなく、同じ木材。
それなのに、まるで時間が巻き戻ったかのように、きれいだった。
「………特別な掃除方法でも、あるのかな」
それがどれほど異常なことか、今の彼はまだ、気づいていない。
考えてもわからないので、そのまま船室に戻ろうとすると、中から言い合う声が聞こえてくる。
「だからテメェは、ヘリオスを甘やかし過ぎなんだよ」
「甘やかしてなどいない。当然の体調管理をしているだけだ」
「いや、あいつすげぇ丈夫だろ!?雨の日に水たまり突っ込んでも風邪ひかなかったぞ!?」
「追いかけた私たちだけが熱を出した時か……素晴らしい免疫力だったな」
「褒めてねぇ!!」
「それに私は身体だけでなく、精神的な部分も含めて見ている。お前は彼がどれほど繊細で、優しくて、可愛いかを理解していない」
「可愛さ関係ねぇだろ!」
「可愛くないとでも!?」
「だから話ずれてんだよ、このヘリオス馬鹿!」
(ああ、また始まった……)
声の主は、もちろんシュゼルとノクス。
冷静沈着を絵に描いたようなシュゼルが、ノクス相手だとなぜか声を荒らげる。
同じくノクスも普段のぶっきらぼうを通り越して、ほぼ喧嘩腰になる。
最初の頃は、ただの喧嘩にしか見えず、狼狽えつつ止めに入ろうとしていた。
けれど今は、日常の一環としてすっかり慣れてしまっている。
険悪というほどでもないし、じゃれ合いに近い雰囲気すら感じた。
「あのさ、ウィスカ。あの二人、何であんなに言い合うんだろ」
「知るかよ。ま、昔なじみらしいし、言いやすいんじゃねーの?」
(言い合ってる内容はくらだねーけどな)
それは口には出さず、心に留めたウィスカだった。
今は入らない方がいいと思い、ヘリオスはウィスカを抱えて甲板に向かう。
海風を受けながら、ウィスカと散歩をするのが日課になっていた。
(確かに。昔なじみだから、お互い本音をぶつけられるのかも)
ヘリオスは小さく笑うと、手摺に手をかけ水平線を見つめた。
今日は確か、小さな島に着く予定だ。
穏やかな気候で、住んでいる人たちも優しい――そんな話を、レイジから聞いている。
穏やかな陽射しと、潮の匂いのなか。
ヘリオスは遠くに見えてきた陸影を見ながら、今日一日をどう過ごそうかと考えていた。
陸影が徐々に島の輪郭を帯びていく。あと少しで、到着だ。
……そう思った、その時。
背後から、聞き慣れた声が風に乗って届いた。
「ねえヘリオス、このあと暇?」
振り返ると、シオンが立っていた。
いつもの赤い海賊服ではなく、どこか上品で可愛らしい装いに身を包んでいた。
柔らかなローズピンクのワンピースは、肘までのふんわりとした袖に、胸元の白い丸襟が愛らしいアクセントになっている。
襟の下には、上品なブラウンのリボンタイが結ばれ、全体にクラシカルな雰囲気をまとっていた。
ワンピースはウエストで軽く絞られ、裾に向かってふんわりと広がっている。
布地にはほどよい張りがあり、歩くたびに柔らかく揺れる。
ボタンが前に並んでいて、控えめながら丁寧に仕立てられた印象を与えた。
頭には生成り色の広めのつばを持つ帽子をかぶり、ベージュ系のリボンが巻かれている。
耳飾りだけは、いつもと同じものを付けていた。
このような格好をしていると、まったく海賊には見えない。
どこかの可愛らしいお嬢様みたいだ。
「めずらしいね、そういう服着てるの」
「ええ。これから着く島にはちょっと買い出しに降りるだけだし。この方が町に溶け込めるでしょ」
変?と首を傾げたシオンに、ヘリオスはすぐに首をふる。
「全然!すごく似合ってるし、かわいい」
ヘリオスがふわりと笑って言うと、シオンは一瞬、目を瞬かせ――帽子のつばを指先でつまみ、目線をそらすように呟いた。
「……サラッと言うわね」
「え?」
「なんでもないわ。それより、暇なら……」
シオンはヘリオスに向き直ると、下から覗き込んでいたずらっぽく笑う。
「私と、デートしましょう」
「……えっ」
「……はあ!?」
ヘリオスとウィスカ、それぞれに違う温度の声が、同時に重なった。
シュゼルとノクスの言い合いは、9割方このノリです。




