92.背中越しの信頼
相談の末、ウィスカは「従者見習い」という立場に決まった。
従者とは通例、シュゼルのように幼少時から育成された者が付くことになっている。
だから妙齢の王太子に突然新たな従者をつけるのは、形式的にも体裁的にも難しいらしい。
そのため、このような形で緩やかに迎え入れることにした。
見た目年齢から考えても、その方が自然だ。
ウィスカとしては、ヘリオスのそばにいられるなら、立場はどうでもいいのだが。
さらに人間の名としては不自然だという理由で、「ウィスカ」という名も改められ、今は“リーヴァ”と名乗っている。これもシュゼルの提案だ。
その名を口にするたび、ヘリオスは不思議と馴染んでいくのを感じていた。
また、"幼い外見”と言われた時、ウィスカがぼそりと言った言葉が印象的だった。
「本当は百歳超えてるけどな」
「それを知られると、人間ではないこともバレるだろう」
シュゼルのもっともな指摘に、ウィスカは不服そうに口をつぐむ。
ヘリオスは、ただ苦笑するしかなかった。
なお、問題だった瞳の色を変える魔道具は、ノクスが一晩で作ってくれた。
それはいつもの彼の几帳面さを物語るように、とても細やかな仕上がりだった。
ウィスカの件を告げた時は、さすがのノクスも呆れ顔だったがーー
文句を言いながらも、その手は決して抜かないのがノクスらしい。
シュゼルとウィスカのやり取りを見ていたヘリオスは、ふと隣りにいるノクスに視線を移す。
「ノクスは今日、戻るんだよね」
「ああ。立太子の礼まではと思ったが……早く帰らねぇとうるせぇからな」
誰が、とは言わなくてもわかってる。
昨日の会話を思い出しながら、ヘリオスは思った。
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ノクスは賓客用の部屋の窓辺に立ち、ただ黙って外を眺めていた。
かつてずっと願い続けていた、アリウスの王位。
彼の立太子が決まった今、その願いが叶おうとしている。
王になったアリウスを支えたいと、幼い頃から思っていた。
ならばこのまま、この国に残るという選択肢もあるのではないか。
一度国を出た身ではあるが、アリウスなら喜んで迎え入れてくれるだろう。
しかし、アリウスに付くことは、アイゼルを裏切ることになってしまう。
ーーアイゼルを、独りにすることになる。
この数日間、そればかり考えていた。
とんでもない俺様皇帝だが、その素顔をさらすのは自分の前だけだとわかっていた。
そしてそれは、彼にとって唯一、肩の力を抜ける場所だということも。
(何でそれが俺なのかとか、こっちはいい迷惑だとか……まあ、色々言いたいことはあるけどよ)
自分勝手で、ワガママで、高圧的で。
しかし誰よりも国を想い、桁外れの才を振るって多くの民や臣下に絶大な信頼を寄せられている。
だがーー孤独だ。
あまりに規格外すぎて、誰も彼に並び立つことが出来ない。
ノクス自身も、まだ肩を並べられているとは思っていない。
ただ、その完璧さの陰にある傷に触れるたび、放っておけなくなるのも事実で。
(……どうすりゃいいんだよ)
その時、不意に扉がノックされた。
聞き慣れた叩き方で、すぐにヘリオスだとわかる。
入っていいと返事をすると、静かに扉が開いた。
「ごめん、今ちょっといいかな」
「ああ。別に構わねぇが、どうした?」
「実は……」
言いかけて、ヘリオスは止まる。
ノクスがどうしたのかと眉を寄せると、ヘリオスは遠慮がちに聞いた。
「……何か、悩んでた?」
「は?」
「ノクスって、考えごとしてる時、指を動かす癖があるんだよね」
その指摘に、ノクスが固まる。
そんな癖があったことを、自覚していなかったからだ。
相変わらず人のことをよく見ている。感心を通り越して、呆れるしかなかった。
「別に、大した悩みじゃねぇよ」
目を逸らしながら言うノクスに、ヘリオスは少し考える。
ノクスが何かに悩んでいることは、薄々感づいていた。
ただ、それを自分から言っていいかどうか決めかねていたのである。
けれど、多分、ノクスからは言ってくれないだろう。
だから、背中を押すことにした。
ヘリオスは真っ直ぐな眼差しで、ノクスを見つめる。
「ノクス。……俺は、大丈夫だよ」
「……は?」
「記憶が戻ったのは色んな要因が重なってのことだし、ノクスが責任を感じる必要はない」
そう。ヘリオスの側にいたいと思った理由は、昔の願いだけじゃない。
記憶が戻った要因に、少なからず自分が関わっていると考えていたからだ。
シュゼルの反対を押し切り、アリウスと関わりが深かった自分が同行したこと。
ヴィゼリアで、セディを気にかけたこと。
その結果、あの作戦が決行され、ヘリオスはアリウスとしての記憶を取り戻した。
セディを案じたのはシュゼルも同様だったし、シオンが心を留めたからベルナルドが動いた。
ノクスだけに原因があったわけではない。
それでも。
ヘリオスとして、平穏に過ごしていた日々。
それが崩れた責任の一端が、自分にある。そう思っていたのも事実だった。
ヘリオスはそれに気づいていた。
「だからノクスは、今、本当に支えたい人の所に行くべきだよ。それに……あの人にも、ノクスが必要だと思う」
一度しか会っていないが、そう感じた。
横暴さの中に見え隠れする、信頼と執着。
何より、素を見せられる相手がいることは、あの立場の人間には特に必要だと思う。
「俺にはシュゼルがいるし、大丈夫」
「……全部、お見通しかよ」
ノクスは深いため息をつくと、ヘリオスに言った。
「……だったら、早いとこ帰り支度しねぇとな」
その言葉を躊躇いなく口にした瞬間、胸の奥にわずかな安堵が広がるのを、ノクスは否応なく感じていた。
その安堵は、寂しさよりも確かに強くて。
……無意識に、自分の居場所を決めていたことに気づく。
その言い方に、ヘリオスは小さく笑ったあと、ふとノクスに会いに来た元々の目的を思い出す。
「あのさ、ノクスって、魔道具作れる?瞳の色を変えたりとか」
「は?何だ突然。その程度ならすぐ出来るが……何に使うんだよ」
ヘリオスは、ノクスにウィスカを人間として王宮に住まわせることを伝えた。
そのため、魔獣の特徴である瞳の色を変える必要があると。
それを聞いて、ノクスは心底呆れた顔で言う。
「結局連れ戻したのかよ……」と。
連れ戻した、と表現をしたあたり、なぜウィスカが戻ってきたのか、察しがついていたのだろう。
ウィスカの決意を聞いていたので、当然かもしれない。
「誰を従者にしようがテメェの勝手だが、ヘマだけはすんじゃねぇぞ」
「大丈夫だよ。シュゼルと対策してるから」
正体が露見しないよう、変身の制限や装飾の細部まで、シュゼルが徹底して整えている。
話した時は一瞬だけ渋い顔をしていたが、それは危険を察してのことだとヘリオスにはわかった。
不安はあるものの、シュゼル自身もウィスカの能力は高く評価しており、何よりヘリオスの意志を尊重している。
それを聞いた彼は肩を落とすと、観念したように言った。
「わかった、今夜中に作ってやる」
「ありがとう、助かるよ」
お礼を言って、ヘリオスは部屋から出ていった。
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「うるさいって、寂しがってるってこと?」
「何でそうなる。……少なくとも、寂しがる柄じゃねぇな。仕事を回したくて仕方ねぇだけだ」
何となく想像がついて、ヘリオスは笑う。
彼の素直じゃない物言いに、かえって安心させられる自分がいた。
別れの時は近いが、不思議と胸は静かだった。
今回は急な別れではないし、お互いの状況もわかっている。
何も心配はない。
「まあ、外交もあるし、また顔を合わせる機会くらいあんだろ」
「そうだね」
ノクスの言葉に、ヘリオスは頷く。
そして、ふと表情を引き締め、気になっていたことを口にした。
「叔父上に……挨拶はしていくのか?」
「しねぇ。あいつだって、俺の顔なんざ見たくねぇよ」
吐き捨てるような口調に、ヘリオスは言葉を選んだ末、何も返さなかった。
王弟の話を聞く限り、二人の間には誤解があるように思える。
けれどーーこれは、自分が口を出すべきことではない。
ノクスが荷物に手をかけたその時、ウィスカとのやり取りを終えたシュゼルが声を掛ける。
「出立前に顔を見せに来るとは、お前にしては殊勝だったな」
真っ直ぐにノクスを見つめる彼は、どこかからかうような口調で言う。
「せいぜい、あちらで皇帝陛下の“お世話”を頑張れ。お前がいないと、向こうも困るに違いない」
皮肉に聞こえて、どこか優しさの滲んだ言葉に、ノクスは鼻を鳴らす。
その仕草には、否定しきれない照れが混じっていた。
「……一言余計なんだよ。テメェも程々にしとけよ、過保護従者」
背中越しのそのやり取りは、確かな信頼の証だった。
部屋を出たノクスの足取りは、もう迷ってなどいなかった。