88.守る者と裁く者
親子連れが、街中の石畳を急ぎ足で歩いていた。
小さな男の子が、不安げに母親の服を握る。
その時だった。
茂みの陰から、牙を剥いた魔物が飛びかかってくる。
「危ないっ!」
母親が子を庇うように抱きしめた瞬間ーー
風刃が一閃し、魔物を真っ二つに切り裂いた。
恐る恐る顔を上げた母親の前には、事切れて霧散する魔物と、優雅に降り立つ影。
黒髪を風になびかせた少女が、親子に向かい落ち着いた声で問いかける。
「怪我はない?」
目を丸くしたまま頷く母親。少年は、その姿にただ見惚れていた。
彼女は二人の無事な姿に小さく笑い、振り返る。
そしてひときわ高い建物を指差した。
「街外れの集会場が避難所になってるの。そこへ行って」
「……ありがとうございます!」
親子は深く頭を下げ、石畳を駆けていく。
小さくなっていくその背中を見つめていると、程なくしてカルロが駆け寄ってきた。
「無事か、船長!」
「問題ないわ。……気配を感じて、とっさに飛び出しちゃったけど」
シオンは頷き、そして険しい表情で周囲を見渡す。
「数が増えてきたみたい。手分けした方が良いわね」
「……君を一人にしたくないんだが」
カルロの不安をよそに、シオンは迷いのない声で告げる。
「私が強いの知ってるでしょ?私の護衛より、街を優先して。
ルナは集会場の守りに回ってるし、レイジは避難誘導に専念してる。
分散して動かないと、守りきれないでしょ?」
数秒の沈黙のあと、カルロは力強く頷いた。
「わかった。気をつけろよ」
背中を向けて駆け出していくカルロを見送った後、シオンはそっと城に視線を向けた。
そびえ立つその姿は、普段ならばただ壮大なものとして映ったかもしれない。
しかし今は、不吉な要塞のようにさえ思う。
(ヘリオスたちは上手くやれてるのかしら。……いえ、彼らなら大丈夫よね)
難しいことは、自分にはわからない。
だけど、彼らが無用な心配をせずに済むように、街を守ることはできる。
余計なことは考えず、自分の仕事に専念しよう。 そう思った直後。
「ほんっとカッコイイねぇ、シオンは」
聞き慣れた声が背後から聞こえ、シオンは呆れた顔で振り返った。
ひらひらと手を振りながら近づいてくるベルナルドに、シオンはぼやくように言う。
「……あんたも仕事しなさいよ」
「やだなぁ、してるって。でも俺、戦闘はあまり向いてないんだけど」
飄々とした笑みを浮かべながら、彼はちらりと茂みの方へ目をやると、一枚のカードを指ではじく。
次の瞬間、それは氷刃となって茂みを貫き、中にいた魔物は悲鳴とともに霧散した。
「ね?」
「……何が『ね?』、なのよ……」
深く長い息を吐きながら、シオンは再び前を向く。
「とにかく、街の被害を最小限にするのが私たちの仕事よ。近くにいたら意味ないの」
それだけ言い残して、再び風を纏い空へと舞い上がった。
ベルナルドは、肩をすくめると、足元にある微かな"気配”に小さく呟く。
「……シオンに何かあったら、すぐ知らせて」
彼にしか見えないその存在は、シオンを追って静かに“気配”を消した。
それを感じ取った後、数枚のカードを取り出しつつ周囲を見渡す。
「人助けなんて、俺の柄じゃないんだけどなぁ。
……でも、愛するシオンの頼みなら仕方ないよね?」
軽口を叩きながらも、ベルナルドの瞳から軽薄さは消えていた。
口角を軽く上げ、ばら撒いたカードが淡く光を宿し、空気を震わせる。
やると決めた仕事は、必ずやり遂げる。
手抜きなど有り得ない。
それが、彼の信条だった。
ーーーーーーーーーーーーー
(仲間……だと? 報告にはなかったはずだ)
ヘリオスの言葉に、宰相はわずかに眉をひそめた。
だが、彼の態度はハッタリには見えない。
ヘリオスの動向については、ある程度報告を受けている。
しかし森の襲撃のあと、どこへ逃げたのかしばらく足取りが掴めなかった。
送った刺客はひとり残らず動きを封じられていたからだ。
少し前、王都に向かう姿を目撃したと聞き、城に戻ってくることは予想していたが。
……仲間の情報までは、聞いていない。
いや、確かに数人で動いてはいたらしいが。
大量の魔物を相手にできるほどの手練れがいるなど、想定外だ。
宰相が眉をひそめたその時、突如、ヘリオスとシュゼルの足元に魔術式が展開される。
小さな檻に閉じ込められたかのように、二人は拘束された。
「!?」
「遅れて申し訳ございません」
宰相は声の主を視界に収め、にやりと笑みを浮かべた。
「ようやく来たか」
「色々と手間取ってしまいまして。……それにしても、妙な客人がいるようですね」
若草色のローブをまとった長身の男が姿を現す。
短く整えられたプラチナブロンドに、鋭い青の瞳。
ただそこに立つだけで、場の空気は重く支配された。
アストリアン公爵ーー現魔術師団長にして、シュゼルの実父。
そして第一王子派の筆頭。
会いたくはなかったが、来ていないのは逆に不自然だと思っていた。
その視線が、まっすぐシュゼルに注がれる。
しかし彼は、何の感情も映さぬ瞳でそれを受け止め、ただ無言で視線を返す。
公爵はやがてつまらなそうに目を逸らし、今度はヘリオスを視界に捉えた。
「しぶとく生き延びているとは聞いていたが、まさかここまで来るとは。もっとも、これから“来なかった”ことになるが」
ああ、そういうことか。
見下すような声色を聞き、すぐに理解する。
ヘリオスたちがここに来たという「事実」ごと、魔術で消すつもりだ。
宰相の薄ら笑いが視界の隅に映るが、ヘリオスは表情を変えない。
驚きこそしたが、要は身体が動かないだけの話だ。
振り返ることは出来ないが、シュゼルも既に動じていないだろう。
「……俺たちを消す気なら、すぐ攻撃しなかったのは間違いだったね」
「それではつまらないでしょう?身の程を知り、恐怖を味わってもらわねば」
不敵に笑った公爵だったが、ふと違和感を感じて目を細めた。
ーーおかしい。
強がりにしては、あまりにも落ち着きすぎている。
恐怖に震えるどころか、むしろ妙な静けさすら漂っていた。
それが演技でないことは、数多の人間を見てきた彼にはわかった。
……そして、宰相も同じ感覚を覚えたらしい。
「もういい、とっとと始末しろ」
焦りを隠すように声を押さえながら、宰相は言った。
その声を合図に、足元の魔術式が光を帯びるーーだが、次の瞬間、その光は弾けるように消えた。
「何だと……!?」
「おい、もういいだろ?」
驚愕する公爵とは対照的に、落ち着き払った声が響く。
一同が扉に目を向けると、黒衣を纏った青年が立っていた。
この国にいるはずのない、見覚えある者の姿に、重鎮たちは愕然とする。
「うん、我慢してくれてありがとう」
ヘリオスが、笑顔でノクスに礼を告げた。
相手の出方は見れた。それだけで十分だ。
公爵はノクスの姿を見据え、やや青ざめ一歩退く。
「……なぜ、お前がここに……」
「“追い出した”はずの俺がいたら、そんなに不思議か?残念だったな、邪魔者が生きてて」
絞り出すような公爵の声に、鼻で笑うようにノクスは返す。
もう知っている、公爵が自分を派閥以外の理由で"邪魔者"と思っていたことを。
彼はかつて、”友好目的”という表向きの名目で帝国へと送られた。
冷遇を覚悟していたが、当時皇太子だったアイゼルの采配により、想定していたような扱いを受ることはなかった。
そこで、以前から疑問に思っていたことを調べられるかもしれないと思ったのだ。
それは、自分自身の魔力。
魔力を目視できるノクスだが、自身のものだけは何故か見ることが出来ない。
だから再測定をしたいとアイゼルに頼んだ結果、その真の実力が明らかとなった。
歴代でも類を見ない強大な魔力量。
そのうえ、属性も術の系統も、彼を縛るものは何ひとつない。
この世界に存在する、すべての魔術を操ることができる才能の持ち主だった。
だが、その能力は喜びではなく災厄を呼んだ。
アストリアン公爵にとって、それは自身の地位を揺るがす脅威そのものだったのだ。
ノクスの力を秘匿した理由も、“邪魔者”として国外に追いやられた理由も、すべて腑に落ちた。
公爵は派閥の後押しを得て、彼を国外へと“処分”することに成功した。
暴君の治める帝国であれば、生き延びられる可能性は限りなく低いーーそう踏んでいたのだが。
……まさか、皇太子に気に入られ側近という地位を得ていたなど、夢にも思わなかっただろう。
ノクスは歩を止め、シュゼルの隣に立つと小声で問う。
「……へし折っていいか?」
一応彼の実父であるため、確認だけは取っておく。
手足か、プライドか、それとも両方か。
真意を確かめぬまま、シュゼルは短く「好きにしろ」とだけ返し、ノクスは黙って頷いた。
次の瞬間、公爵が魔術を展開する。
だがノクスは顔色一つ変えず、片手をかざしただけで、その術式を無効化した。
「……っ」
信じられないものを見たように、公爵の顔が引きつる。
これまで自分の魔力を正面から押し返されたことなど、一度もなかった。
平然を装おうとするが、声の奥に焦燥がにじみ出る。
信じてきた魔術の絶対性が、一瞬で崩れ去ったのだ。
本来、公爵の実力は一線級。
だが今この場では、ノクスの前に立つには力不足だった。
「杖を出すまでもねぇな」
あざ笑うようなその一言に、公爵は更に詠唱を走らせた。
炎弾、雷撃、風刃ーー次々と異なる魔術式が組み上がり、宙に幾重もの魔術陣が浮かぶ。
対してノクスが片手をわずかに掲げると、淡い光が指先に集まる。
複雑な紋が宙へと浮かび上がり、次々と公爵の魔術式を崩していった。
無駄のない所作は研ぎ澄まされた刃のように鋭く、見守る者の息を自然と奪う。
幾重に重なった魔術式が淡光を放つと、玉座の間の重鎮たちは誰からともなく息を呑んだ。
黒衣の青年は、ただ手を掲げているだけーーそれなのに、抗えぬ威圧と凄烈な美がそこにあった。
公爵が魔術の発動を試みるたび、ノクスの手の平から新たな術式が走り、根こそぎ潰していく。
攻撃しようとすればするほど、術式は打ち砕かれ、魔力は乱されていった。
「……っ……馬鹿な……!」
公爵の額に冷や汗が浮かぶ。
最後の砦とばかりに防御結界を張ろうとした瞬間、その光も一閃で消えた。
(防御すらも、成立しない……だと?)
「もう、テメェに用はねぇんだよ」
そう言い放つと同時に、公爵の周囲に複数の魔術式が浮かび上がる。
一斉に展開されたそれは、瞬く間に公爵の身体に吸い込まれた。
彼の身体の奥に、突き刺さるような痛みが走る。
何が起きたのか。周囲が唖然とする中、公爵の顔だけが青ざめていた。
「……何をしたんだ?」
ヘリオスの問いに、ノクスは軽く肩をすくめて答える。
「魔力路をぶっ壊した。時間が経ちゃ多少は治るかもしれねぇけど?」
「エグいことしやがるな……。魔術師の生命線そのものじゃね―か」
声の主を振り返ると、そこにはウィスカがいた。
彼の足元には、いつの間にか重鎮たちが一箇所にまとめて転がされている。
全員が光の鎖に縛られ、苦悶の表情を浮かべながら沈黙していた。
その数は十を超える。
それでも鎖は揺らぎもせず、魔力の糸が淡々と彼の指先から流れ続けている。
ただそれだけで、ウィスカがどれほど桁外れの魔力を持っているかは明らかだった。
「なあヘリオス。一応聞くけど、これ殺していい?」
ウィスカが足元の侯爵を指差す。
先ほどの無礼な発言が、まだ腹に据えかねているらしい。
シュゼルが牽制していなかったら、飛び出していたかもしれないほどに。
「駄目だよ、殺すのは」
「ちっ。……命拾いしたな」
舌打ちしつつも、ウィスカは素直に退いた。
フードからのぞく瞳に宿る強烈な殺気に、背筋が粟立つ。
華奢な外見に似合わぬ異様な重圧。
もしヘリオスが許可していたら、躊躇いなく命を刈り取っていただろうと、誰もが悟った。
玉座の間を覆う沈黙の中、血の気を失った顔で重鎮たちはただ息を呑む。
彼らの目に映るのは、ヘリオスを囲む恐るべき者たち。
ーー剣の天才、魔術の怪物、そして得体の知れぬ子供。
その三人が、迷いなくただ一人の言葉に従っている。
それは、恐怖を超え、畏怖を刻みつける光景だった。
(どうする?……誰が、止められる……?)
公爵ですら無力化されたのだ。
彼らにできることなど、せいぜい怯えて身をすくめることだけ。
拘束のせいで逃げ出すことも許されない。
震える息が静寂に混じり、誰も声を上げられなかった。
恐怖と混乱が、じわじわと玉座の間を侵食していく。
第一王子が宰相に視線を向ける。
その問いかけるような瞳に、宰相は一つ息を吐いて答えた。
「仕方ない。……これは、最後の手段だったのですが」
次の瞬間、空気が一瞬にして凍りついた。
微かに震えるような気配に、ウィスカの目が鋭く細まる。
「っ、上だ!」
ウィスカが叫び、一斉に頭上を見上げた。
突如現れた巨大な魔物が、ヘリオスめがけて襲いかかってくる。
ウィスカが結界を瞬時に展開し、弾かれた魔物が地に着く前に、シュゼルが一閃した。
「これは……」
振り返るヘリオスに、宰相は不敵に笑いかける。
「この場を荒らしたくはなかったのですが、仕方ありませんね」
やがて外から、無数の足音が近づいてきた。
規律ある行進ではない。荒々しく、地を這う獣の蹄と爪の音。
直後、ーー轟音とともに玉座の間の壁が崩れた。
魔力路とは、体内で魔力を巡らせる血管のような器官のことです。
ここに異常が生じると魔術は発動できず、魔術師にとってはまさに生命線とも言える存在です。
その構造は非常に複雑で、本来は他者が干渉することは不可能とされています。
ですが、ノクスは帝国での修行を経て、その領域に踏み込み、干渉技術を会得しました。