月下氷人(三/三)
そうして、たまに奇妙なことに出くわしつつも、私は彼の元へと通い続けていた。
何かの存在にも慣れたもので、変わったことがあったとしても、もはや驚くこともない。むしろ、手助けしてくれることを、ありがたく思っているくらいだ。
特に、家主のために茶を淹れることにはどうにもこだわりがあるらしく、気づけば先回りされているのが常だった。そのことを、どこかほほえましく思っている自分に気がついたときには、さすがに己の正気を疑いもしたのだが。
歪なようでいて、安定している彼の生活。今となっては、その真相を知りたいという思いよりも、下手に手を出すことでこの均衡を崩してしまうことへの恐れの方が強くなっていた。
ある日のこと。家主から話があると呼び止められて、私たちは座敷で向き合った。
「私の頼みごとを聞いていただけますか。私が死んだときには、あなたにしていただきたいことがあるのです」
そう切り出されて、さすがの私もぎょっとする。
しかし、あらためて相手を見返したところ、そこには明らかな衰えが見えた。ゆるやかな日々の変化ではわからなかった彼の老いを目の当たりにして、私はわずかに動揺する。
そんなことには気づくこともなく、家主はこう続けた。
「あなたも気がついておられるでしょう。この家に私以外の存在があることを」
その言葉に、はっとした。やはり、彼もそのことには気づいていたらしい。
「それはあなたの伴侶であった方と、その――」
私は思わずそう言ってしまった。しかし、家主は困ったような表情を浮かべて苦笑している。
「いいえ。それはありません。彼女がここへ帰ってくることはありませんから」
どういうことだろう。私の戸惑いを察したのか、彼はこう続ける。
「私はあの人が今どこでどうしているのかを知りません。ただ、私はあの人が幸せであることを今でも信じているのです」
私は困惑のまなざしを彼に向けた。当然、そんなことは彼が知る由もないのだが。
彼は淡々と自身の過去を語り出す。
「私たちの結婚は家同士で決められたことでした。私はそれを受け入れていましたが――彼女の方には、どうやら好いている人がいたようなのです」
彼はそこで、かすかにため息をついたようだった。
「私はしばらくして、そのことに気づきました。その苦悩についても。あるとき、彼女が家を出ようとしていることを知ったので、近々入り用になるからと言って、わざとまとまった金子を置いておいたのです。彼女はそれを持って家を出ました。その後の行方は知りません」
「……なぜ、そのようなことを?」
思わず口にした問いかけに、彼は即座にこう答える。
「愛していたからですよ」
それが心からの言葉であるかのように、彼は満ち足りた笑みを浮かべていた。
「私は、あの人のことを本当に愛していました。だから、あの人には自由に生きて欲しかったのです。愛していたからこそ。その心のままに」
「しかし、それは――」
私は戸惑いのあまりそう口にしてから、それ以上口出しすることをためらった。彼の思いを否定したいわけではないが、これでは互いに、あまりにも一方的ではないか――
そんな私のやるせない気持ちが伝わったのか、彼はやはり苦笑している。
「そのように思われるのが普通なのでしょうね。私のこうした考えは、言葉を尽くしても他人には通じないようだ。今さら、わかって欲しいとは言いません。ですが――」
彼はあくまでも、穏やかに笑っている。
「私は本当に幸せでした。愛する人の幸せを信じることができて。愛する人の自由を守ることができて。本当に、心の底からそう思っているのですよ」
私は彼の告白に啞然としていた。心の内ではさまざまな考えが巡っていく。彼の過去、そして現在。そこに秘められていた彼の思い。
しかし、だとすれば――
彼にずっと寄り添っていた、あれはいったい何だったのだろうか。
そのとき、ふと庭の様子が気になった。
風もないのに藤の木が揺れている。はらはら、はらはらと紫の花弁を散らせながら。音もなく。声もなく。
しかし、なぜかそれは、私の目には静かに涙を流しているかのように見えた。
* * *
荒れ果てた庭に、男がひとり入り込んで来た。
主人を失った家に何の用があるのか。不快ではあったが、まさか誰何するわけにもいかない。それとも、あえて声をかけてみようか。驚いて、逃げ出すかもしれない――そんなことを考えていると、思いがけず、男は私の目の前で立ち止まった。
作業着姿の男で、年の頃は三十くらいだろうか。男はぶしつけにも、不愛想な表情で私のことをじっと見つめている。
「さて、と」
男はそう呟くと、虚空に向かって――いや、藤の木に向かって、こう問いかけた。
「いるんだろう? 出てこいよ」
ぞんざいな物言いに苛立ちを覚えつつも、己に対する言葉であることは明白だったので、仕方なく姿を現すことにした。今ここにある本来の姿ではない、仮初めの姿を。
折しも、私は満開の花を咲かせていて、無数の花弁を下げた房が、いくつもいくつもさざ波のようにしだれている。その影から、私は紫の着物をまとった女の姿を現した。
「おまえは、この藤の木、だな」
「なぜ、そんなことがわかる。私には、私がなぜここにあるのか、わからないというのに」
私がそう言い返すと、男は肩を竦めた。
「なぜあるか、ね。なぜ、については、よくわからんところもあるが……この世にあるものは全て――そうだな、仮に気、としようか――そういうものを放っている。それらはときに凝り固まって、怪を為すことがある。木でも石でも動物でも、あるいは器物でも」
「それが私だ、と?」
「まあ、そんなところだ。特に、おまえのような存在は、十中八九、人の心に感応して化けたんだろうな」
私は初めて己の心を意識したときのことを思い出す。確か、この家に訪れた客人が口さがないうわさ話をしていたときだっただろうか――
「では、人がおらねば私のようなものは生まれぬということか」
「いや。人以外の何かと感応することもある。そうして化けたものは、大抵は不可知な存在だ。人の言葉は通じない。思考も理解できない。人とは遠く隔てられたもの……」
男はそこで、大きくため息をついた。
「本来、俺たちはそういうものに対処するのが専門なんだがな。近頃化けるようなやつらは、ずいぶん俗っぽくなっちまいやがった。仲間うちでも、人と木で夫婦になるやつもいるくらいだ」
夫婦という言葉に、私は思わず嘆息する。そして、あらためて思い返していた。今はもう、亡くなってしまったあの人のことを。
「私はずっと疑問に思っていた。あの人はなぜあんなにも穏やかなのか、と。そして、そんな姿を、いつの間にか愛してしまった……」
男は無言で、私の話に耳を傾けている。
「しかし、あの人の満ち足りた姿は、心の内に愛しい人への思いがあったからなのだろう。私はそんな彼のために己を偽り、あまつさえ思い人の真似ごとなどしてしまった。私は愚かだった……」
私が黙り込んでしまったのを見てとると、男は頭をかきながらこう言った。
「夫婦の形なんざ、人それぞれだ。そうでなくとも、長い間寄り添ったんだろうから、もう夫婦みたいなもんだろう。おまえは人じゃないんだから、それで納得しとけよ」
男の言い草に、私はむっとして言い返す。
「お主は……人のくせに人の心の機微もわからぬのか。お主に、愛がわかるとも思えぬな」
「俺はこれでも既婚者だ。言っておくが、相手は人だぞ」
その返答には釈然としないながらも、私はひとまず口を閉ざした。
「ともかく、だ。俺はここの家主に頼まれたという人物に、おまえを植え替えるよう依頼されている。この家は取り壊されるらしいからな。ただ、おまえのような存在は、勝手に移したりすると、へそを曲げて怪異を為すだろう。そこで、俺が呼ばれたというわけだ」
私はあらためて己の姿を――藤の木を仰ぎ見た。
「あの人はなぜ、私がこの木であることに気づいたのだろう」
男は呆れたように肩を竦めている。
「俺にこの仕事を持ち込んで来たやつも、おまえの姿を見たかもしれないと言っていたが?」
「それは盗まれた花を取り返したときのことだろう。しかし、私があの人に声をかけたのは、あの人が盲いてからのことだ」
私の答えに、男は大きくため息をつく。
「花が咲いたとき、おまえはその人にこう言ってるんだよ。あなたにこの姿をお見せできないのが残念です、と」
そうだっただろうか。覚えていない。しかし、姿は見えずとも、あの人はそんな何気ないひとことを気にしてくれていたのか。
ならば、それでいいか――ふと、そう思った。
私はあの人を愛した。あの人には愛する人がいたが、それでも私のことを気にかけてくれたのだ。それで充分ではないだろうか。
男はあらためてこう問いかける。
「俺の名は片桐だ。おまえを別の場所に移すが、かまわないな?」
「あの人が、願ってくれたことなら、私はそれを受け入れよう」
私は男にそう答えた。




