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古木守抄  作者: 速水涙子


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月下氷人(二/三)

 何かがいる、という確信が得られたところで、気になることがあるすれば、その正体が何なのか、ということだ。


 考えた末に、私は上司にそれとなくたずねてみることにした。奇妙な現象を出くわしたことも合わせて報告すると、上司はためらいつつもこんな話をしてくれる。


「この件は、あまり吹聴するようなことではないし、関係があるかどうかは定かではないが――まあ、皆が知っていることだし、君もそのうち耳にするかもしれないから、教えておこう」


 そんな風に切り出すからには、聞いて楽しい話でもないだろう。私は思わず身がまえた。


「実は、あの人がまだ若い頃、配偶者が失踪してしまったらしくてね。私たちが立ち入るようなことでもないから、くわしいことはわからないんだが……」


 穏やかで、満ち足りた人だという印象を抱いていたので、そんな過去があるとは思いもしなかった。神妙な顔になった私に向かって、上司は苦笑いを浮かべている。


「ただ、その事実は彼にとってのタブーというわけでもないよ。世間話程度なら、私もそのことについて、それとなく聞いたことはある。彼にしてみれば、それはもはや終わったことなのかもしれない。彼はこうも言っていたからね――彼女がここへ帰って来ることはない、と」




 家主の過去を知って以来、私はずっと、家にいる何かについて考えを巡らせていた。


 いるはずのない何かと、いるはずだった彼の妻。たびたび起こる奇妙な現象は、彼の配偶者が失踪したことと何か関わりがあるのだろうか。


 彼の心の内など、私には知りようもない。しかし、穏やかだと思っていた彼の人生の、その背景を知ってしまったことで、今ここにある平穏はもしかして狂気を秘めているのではないか――と考えるようにはなっていた。


 それでも、この家にある不可解なできごとは決して家主に害を為すものではない。むしろ、それは盲目である彼のことを手助けしているようにも思える。まるで、いないはずの妻がこの家に住んでいるかのように。


 奇妙な現象に出くわしたことを相談したとき、上司が失踪の件を教えてくれたのは、私と同じような印象を抱いていたからではないかと思う。意識的にしろ無意識にしろ、ふたつのできごとを関連づけてしまっているのだろう。


 ともかく、いるはずのない何かと家主の間には、部外者にはふれられない何かがあった。それがどのような過去に根差すものなのかはわからないが、今の彼が穏やかに過ごせているのなら、それでいいのかもしれない――そんな風にも思う。


 ある日、買い出しに向かう前に縁側を歩いていたときのこと。


 ふと目に止まったのは、庭にある藤の木だ。死体が埋められているのは、桜の木の下だったか――そんなことを考えてしまう。


 妙な考えから逃れるように、私は藤の木の根元から目を逸らした。


 今はちょうど新緑の季節で、庭にあるその藤の木は、ともすればぞっとするほど美しく咲き乱れている。こうなるともう、周りを取り囲む松の木など、もはや添えものにすぎないだろう。やさしい紫色の花の群れは、あたかも庭の主であるかのように周囲の緑を従えていた。


 敷地の内と外を分けているのは透垣だけなので、脇を通る道からもこの藤の花はよく見える。そう思って、何とはなしにぐるりと視線を巡らせていたところ、木陰に隠れている枝折り戸から出て行こうとする誰かの姿が目に入った。


 家主ではない。幽霊の姿でも見てしまったかと思って、私は一瞬どきりとする。


 しかし、すぐに見覚えのある顔だと気づいた。近所に住んでいる中年の女性だ。


 とはいえ、彼女はいったい、ここで何をしていたのだろう。そう思って垣根の隙間から透かし見ていると、紫色の花がついたひと枝を手に、こそこそと前の道を通り過ぎて行くのが見えた。


 もしかして、花どろぼう――だろうか。


 呼び止めるかどうかまごついているうちに、その姿もやがて見えなくなってしまった。



 買い出しから戻った私は、再び庭に面した縁側を歩いていた。


 先ほど目にしてしまった所業が気になって、視線は自然と藤の木へと向かう。すると、思いがけず木の下に誰かが立っているのが見えた。


 着物の女だ。紫を基調とした装いはみごとに藤の花と同化していて、私はそれがすぐに人の姿だとは気づけなかった。


 彼女の顔に見覚えはない。しかし、その手にはやはり藤の花のひと枝が握られていた。この女も花を盗みに来たのだろうか。


 女は悲しげな表情で藤の木をながめていたかと思えば、手元に視線を落として不機嫌そうに顔をしかめている。その手にある藤の花は、どうやら少し萎れてしまっているようだ。


 そのとき、彼女はふいに顔を上げ――視線の先にいた私と目が合った。


 女はたった今、私のことに気づいたらしい。無表情でゆっくりとこちらへ近づいて来たかと思うと、女はその手にある藤の枝を差し出した。


 その意味するところがわからずに、私はまじまじとそれを見つめてしまう。


 受け取らないことに業を煮やしたのか、女はその枝を縁側にそっと手放した。残されたその枝を、私はしばし呆然と見下ろす。


 そうして、次に私が目を向けたときには、女の姿はその場から忽然と消えていた。


 枝折り戸が動いた気配はない。彼女はどこへ消えたのか――


 私は藤の枝を手に取った。そこには、紫色の小さな花弁が鈴なりの果実のように垂れ下がっている。


 呆然と立ち尽くしていると、ふと通りかかった家主に、どうかしましたか、と声をかけられた。私は慌ててこう返す。


「いえ。すみません。藤の花の枝が、落ちていたものですから……」


 とっさにそう答えてしまったが、実際のところ、これは見知らぬ女が置いていったものだ。そのことを話すべきか否かを迷っているうちに、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、こう提案した。


「よければ、床の間に飾っていただけないでしょうか」


 彼は目が見えないのだから、当然、その花を見ることもないだろうに。それでも藤の木を気にしていることは知っていたので、今さら――気味が悪いから捨てましょう、とも言いにくい。


 仕方なく、私は物置きにしまわれていた花瓶を見つけ出し、藤の枝をそこに生けた。

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