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古木守抄  作者: 速水涙子


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泡沫人(三/三)

 祭りの喧騒からは遠ざかって、私はあの場所へと向かっていた。あの日、彼が命を落とした松の木の元へと。


 提灯の光が途切れた道は暗く、月明りだけが頼りだった。かすかに聞こえてくるお囃子をどこか物悲しく思いながら、私はその道をゆっくりと歩いていく。


 そうして松の木の近くまで来ると、辺りは物々しい空気で満ちていた。人工的な光が、あちこちを照らし出していたからだ。


 周辺の道はまだ通行止めになっているらしい。こんな時間なのにいくつかの人影が見えるのは、朝に集まっていた人たちが、まだそこにいるからだろう。明暗のせいか、彼らの姿はよく見えない。


 それでも、周囲の人々には目もくれず、私はただひたすらにあの場所を目指した。


 松の木はまだ伐られずにそこにある。月を背に佇むその立ち姿は、大きな影で暗い海をさらに黒く切り取っていた。


 そのときふいに、誰かが私の行く手をさえぎろうとした――が、それはまた別の誰かによって止められたようだ。


「いや。いいんだ。彼女を通してやってくれ」


 そう言ったのは片桐だった。彼は私と目が合うと、無言で道を譲ってくれる。


 そうして私は松の木の前に立った。彼が命を落とした、その場所に。


 ここに来るたびに、私は彼の死を思い出し、それをただ悲しんでいた。そうすることによって、彼とまた会える気がしたからだ。


 たとえそれが、悲しみの中だけだとしても。彼のことが見いだせるなら、それでいいと思っていた。あの日の約束が、決して果たされることはないと知ったそのときから、私は何もかもを失ったのだから。


 しかし、今このときになって、私の心は揺れていた――


 私は松の木に歩み寄り、その威容を仰ぎ見る。


 彼が亡くなるそのときに、彼の傍らにあったのはこの松の木だ。彼の姿を借りたあの人は、彼の心を知っていた。だとしたら――


 からっぽだった私の心にも、今なら確かに、何かがあるはずなのに――私はまだ、それを言葉にすることができずにいた。だから、私は思わずその手を伸ばす。静かに佇む松の木へと。


 私の指がふれた瞬間、松の木はわずかに震えたように見えた。かと思うと、木はみしみしと軋むような音を立てながら、ゆっくりと傾いていく。


「おい! おまえら、下がれ!」


 片桐の声。周囲の人たちは倒れてくる木を避けようと、散り散りに動いて行く。


 そうしているうちにも、松の木は大きな音を立てて地面に伏した。生い茂る葉を揺らして、静かにその場に横たわる。


 私はそれをただ呆然とながめていた。堂々たる姿だった松の木は根元の方から折れてしまって、もはや見る影もない。


 立ち尽くす私に声をかけたのは片桐だ。


「こいつはもう、限界だったんだ。本当なら、すでに伐られて、なくなっていたはずだからな。ちゃんとお別れはできたかい? あこや姫」


「……あこや姫?」


 彼の言っていることがよくわからずに、私はそう問い返した。その反応に、彼は苦笑いを浮かべている。


「知らないか。有名な民話なんだが。かいつまんで説明すると――お姫さまがある若者と恋をするんだが、そいつが実は松の木でな。ところがある日、その木は橋材にするために伐り倒されてしまう。そうして伐られた木は、誰にも動かすことができなかったんだが、姫がふれるとすんなりと動き出す。それで、そのお姫さまはその松の木を弔った、と――まあ、これに限らず、人と木が情を交わす話は、稀にあってな」


「だったら、やっぱりあの人は……」


 彼の姿を借りて祭りに現れたのは、やはりこの松の木だったのだろうか。私がそうたずねる前に、片桐は何かを察したようにうなずいた。


「この木には、何か心残りがあったようだ。おかげで、伐ってもひと晩で元どおり。どうも、この日まで倒れられん理由があったらしい。お嬢ちゃんには、何か思い当たることがあるかい?」


「約束をしていたんです。一緒にお祭りに行く約束を」


 私がそう答えると、片桐は納得したようにうなずいた。


「古い木っていうのは化けるんだ。俺はそんな木を世話して回っている。この木はずっと、静かなもんだったんだがな。いったい、いつの間に化けたのやら」


 化けるとは、何のことを言っているのだろう。この松の木が彼の姿で現れたことだろうか。


 倒れ伏した松の木を見下ろしながら、私は片桐にこう問いかけた。


「彼はとてもやさしかったです。ここで起こったことを、とても悔いていました。けれどもこの木は、ただここにあっただけでしょう? 彼のせいではないのに――」


 片桐はしゃがみ込むと、松の木にふれながらこう話す。


「そうだな。しかし、それでもこいつには、それを無関係だと切り捨ててしまえないだけの心があったってことだろう。あるいは、自分が伐られることを知ったうえでの、唯一の心残りだったのかもしれん。どうか、一緒に弔ってはくれないか。お嬢ちゃんには、酷なことかもしれないが――」


 その言葉をさえぎるように、私は大きく首を横に振った。


「私は大丈夫です。彼らは――私との約束を守ってくれましたから。だからこそ、私は……」


 私は片桐のとなりにしゃがみ込むと、彼がそうしたように、倒れた松の木にそっと手を当てた。


「いなくなった彼らのことを、忘れたくない――そう思っています」


 事故があったあの日、私は確かに大切なものを失った。その現実が受け入れがたくて、私はずっと心を閉ざしていたのだろう。けれども、今ならようやく、その現実と向き合える気がする。


 それは、彼らが約束を果たしてくれたからだ。たとえ、それが幻だったとしても。


 いなくなってしまった彼は、よく似たその姿の向こうに確かにいた。この別れを、ただ悲しいだけの思い出にはしたくない。たとえ一度きりだとしても、私は彼とまた会えることを願っていたのだから。


 彼らの叶わなかった願いの分だけ、私はせめて、自分にできることをしよう。今はただ、そう思っていた。


 海に浮かぶ泡沫は、たとえ儚く消えてしまったとしても、きっと渡る風とともにこの町を巡っている。そう思って吸い込んだ空気は、どこかなつかしい潮の香りがして――私の中の海を満たしてくれる。そんな気がした。

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