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古木守抄  作者: 速水涙子


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泡沫人(二/三)

 夕闇の中、私はひとり、浴衣姿で家を出た。


 向かう先は、近所の神社で行われる夏祭りだ。


 暮れゆく空は夕焼けの赤から夜の色に変わるところで、それも徐々に明るさを失っていった。月が昇る頃には目的の場所にも近づいていて、提灯の光が点々と並んでいるのが見えてくる。


 本当はこの日、友人たちからは別の場所に遊びに行くことを提案されていた。夏祭りに行ったとしても、いなくなった彼との約束がつらく思えるだろうから、と。それはきっと、私を気づかってのことだろう。


 それでも私はその誘いを断って、夏祭りへと向かっている。友人たちには、ひとりでいたいから、と嘘までついて――


 すべては、失われてしまった約束を、私ひとりでも果たすためだった。


 祭りのお囃子とともに、人々の笑いさざめく声が徐々に大きくなっていく。集まってくる人影は皆、遠くまで続く光の列を追っていた。


 神社の入り口にある鳥居の下。私はそこで立ち止まる。誰もいないはずの待ち合わせ場所。しかし、そこには――


 亡くなったはずの彼の姿があった。


 私は呆然とその場に立ち尽くす。これは夢だろうか。それとも――


 強く望むあまり私の心が生み出した幻かもしれない、とも思った。しかし、私のことに気づいた彼は、確かにほっとしたような笑みを浮かべている。


「いいね。それ。とても似合ってるよ」


 桔梗柄の浴衣は、私がひと目で気に入ったものだ。しかし、そう声をかけられても、私はそれに応えることができなかった。


 そこにあるのは、間違いなく彼の姿。初めて見る浴衣姿だが、私が彼のことを見間違えるはずもない。その声もその表情も、記憶の中の彼と少しも違うところはなかった。


「じゃあ。行こうか」


 目の前の彼は、手を差し伸べながらそう言った。


 私はその手を取ることをためらう。そこにあるのは間違いなく、私のよく知る彼の姿だった、が――だからこそ、そんなことがあり得ないこともわかっていた。目の前にいる彼は、いったい何者なのだろうか。


 しかし、そうして迷ったのもわずかな間だけ。祭りの空気に身を投じる人々と同じように、私もまた、その非現実を求めて思わずその手を取っていた。


 お互いの手はつないだまま、私たちはゆっくりと参道を進んで行く。境内にはずらりと屋台が並んでいて、皓々とした灯りに照らされながらも、夜の景色に自然と溶け込んでいた。


 ふと、何かを見つけたらしい彼が、前方を指差す。


「見てよ。魚が泳いでいる。あざやかな赤だ。きれいだな」


 そこにあったのは金魚すくいの屋台だ。お祭りにはよくある光景。しかし、たった今、耳にした言葉と目に映る魚の姿に、私の心はざわついた。


 彼がまだ生きていたとき、こう話していたことを思い出す。


 ――金魚すくいは苦手なんだ。小学生の頃、すくった金魚を死なせてしまったからね。それ以来、何だか見るたびに悲しくなって。


 私はとなりを歩く彼に目を向けた。彼はきょとんとした顔で私のことを見返している。


 そのとき、近くで乾いた破裂音がした。彼は驚いたように辺りをきょろきょろと見回している。


 音の正体は射的の屋台だったらしい。それを見た彼は、照れたように笑っていた。


「鉄砲の音は苦手なんだ。けれども、あれはおもちゃみたいだね」


 ふいに呼び覚まされる、思い出の中にある彼との会話。


 ――射的があったらさ、任せてよ。ああいうのは俺、得意だから。


 記憶の中の彼と目の前の彼の印象が、少しずつずれていく。忘れるはずのない、あの人の姿と声。確かに交わした約束。でも――


 でも、この人は違う。


 思わずその場に立ち止まると、彼は心配そうに私の顔をのぞき込んだ。


「大丈夫? 疲れたのかい? 休んだ方がいいかな?」


 その問いかけにどうにかうなずくと、彼は私の手を引いて、人の流れから外れていった。屋台の並ぶ一画からは遠ざかり、灯りの乏しい暗がりへと向かう。


 彼と似た姿をした何か。私はどこへ連れて行かれるのだろう――


 神社の片隅の、何かの石碑がある場所。そこまで来ると、彼は私を石段に座らせた。彼もまた、背中合わせに腰かける。


 私たちはそこで、かすかに聞こえる祭りの音にただ耳を傾けていた。喧騒からは遠く、だからこそ、よりいっそう静かにも思えるこの場所で。お互いに、言葉を交わすこともなく。


 ふいに甲高い音が天を上っていった。かと思えば、体を震わせるほどの重い響きとともに、夜空にぱっと光の花が咲く――花火だ。


 生い茂る木々の隙間から、それは驚くほど大きく見えた。辺りに人の気配はない。切り取られた空にちょうど花火がのぞき見られるようなところで、人には知られていない場所なのかもしれなかった。


「ここだと、きれいに見えるだろう?」


 彼は無邪気にそう問いかける。私は華やかな花火の輝きに見入っていた。


「少しは元気になったかな」


 その言葉をうなずきながらも、私はこうした彼とのやりとりに戸惑ってもいた。からっぽだったはずの私の心には、自分でもよくわからないほどに、さまざまな感情が渦を巻き始めている。


 この人は彼ではない。わかっていたはずだ。それでもこの人は、私にやさしくしてくれている。彼と同じように。


 花火の音と光の中で、私は知らず涙を流していた。自分でも、それがなぜなのかはわからない。悲しいのか、それとも――


 次々に上がる花火。その間隙でかすかに呟く声がする。


「すまない」


 その声は確かに彼のものだったが、今までの声とはどこか調子が違っていた。


 涙混じりの声で、私はこう問いかける。


「どうして、謝るの?」


「やはり、私では代わりにはなれないようだ。それでも、何かをしたかった。私がいなくなる、その前に。せめて、私にできることを……」


 その答えを聞いて、私ははっとする。


 私に向かって語っているのは、もはや彼ではなかった。たとえ彼と同じ声と姿をしていたとしても。


 言葉を失っている間にも、私が知らない彼は淡々とこう続ける。


「彼が命を失うとき、約束を果たせないことへの無念が感じられた。だから、こうしてここへ来たんだ。彼は、ずっと君のことを思っていたよ。だから、どうか……」


 彼はその先を言い淀んだ。そうしているうちに、それまで聞こえていた花火の音が消えて、辺りはしんとした静寂に沈んでいく。


 それをきっかけにして、かすかな身じろぎの音が聞こえた気がした。私の背に向かって、彼はこう声をかける。


「許してくれとは言わない。しかし、私もまた、願っている。いつの日か、君が心から笑えることを」


 その言葉を最後に、彼の気配は遠ざかって行った。振り返ったときにはもう、そこには誰の姿もない。


 ただ、再び上がった花火の音と、それに伴う歓声だけが、私の耳に虚しく届いていた。

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