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古木守抄  作者: 速水涙子


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泡沫人(一/三)

 歩いていると、ふと波の音が聞こえてくるような、そんな海辺の町で私は生まれ育った。


 故郷の海はいつ見ても穏やかだ。たゆたう海面にきらめく波間。渡る風に乗って鳴き交う海鳥。潮の香りなんて、きっともう当たり前すぎて気にかけることも忘れていただろう。それくらいに、それらは私の一部だった。


 けれども――


 海沿いの道に、ひときわ大きな松の木が生えている。その木は他の木とは違って、何百年もそこにある古い木らしい。


 しかし、その松の木は奇妙な具合に曲がっていて、ちょうど道行く人の視界をさえぎるような枝振りをしていた。成長するうちにそうなったのか、それとも、どうしてもその近くに道を通さなくてはならなかったのか――


 いずれにせよ、危ない場所であることに変わりはなかったのだろう。現にその場所では、それまでにも何度か小さな事故は起きていたのだそうだ。


 それでも、その木をどうにかしようという話が持ち上がることはなかった。あの日までは。


 今年の初夏。その場所で事故は起こり、そして――


 私の好きな人は亡くなった。





 夏休み。まだ気温が上がらないうちにと、私は早朝から家を出た。


 向かう先は、彼が亡くなったあの場所だ。


 供えるようなものは何も持っていない。何かを持って行ったのは友人たちとともに花を供えた、その一度きり。しかし、現場を訪れてただ祈るだけのことが、私にとっては、もはや日常の一部と化していた。


 松の木のある道は、普段から人通りが少ない。歩道は狭いし車はよく通る。そのせいか、好んでこの道を歩く人は稀だった。毎日のように通っていた私ですら、誰かの姿を見かけたことは数えるほどしかない。


 しかし、この日に限っては、いつもと様子が違っていた。


 松の木の周辺にあったのは、いくつかの人影。近づくにつれて、そのことに気づいた私は思わず顔をしかめてしまった。


 あの事故からいくらか日が経った今、そこにわざわざ訪れるような人はほとんどいなかったからだ。今になって誰かがいるのは、何かあったのか、それとも――


 遠目で見る限り、そこにいるのは見知らぬ人たちのようだった。通りすがりというわけでもなく、同じような作業着姿で、松の木を見上げながら何やら話をしている。


 戸惑いながらも近づいて行くと、少しずつ彼らの声が聞き取れるようになっていった。


「――ですから、確かに昨日、伐り倒したはずなんですって。それが朝になったら元どおりですよ。おまけに、傷ついたところから血みたいなものまで流れてきたんだとか。何とかしてくださいよ。片桐かたぎりさん」


 情けない声でそう話していたのは、この場では一番年若そうな男性だった。


 彼が話しかけていた相手は――おそらく片桐という名だろう――横から呼びかけるその声に耳を傾けつつも、松の木を見上げながら無言で何かを考え込んでいる。こちらは三十代か、それより少し上くらいの男性だ。


 片桐はふいに松の木から視線を外すと、詰め寄る相手に応じる前に、近づいていた私の存在に気づいたようだ。ちょっと待て――と、困り顔の男性を黙らせてから、私の方へと振り向いた。


「お嬢ちゃん。すまないがここは通行止めだ。それとも、この松の木に何か用かい?」


 私は首を横に振った。松の木に用はない。用があるのは彼が命を落とした、その場所だ。


「いいえ。ただ、事故が起きてからは、毎日手を合わせていたので」


 私は淡々とそう答えた。しかし、それだけで片桐は多くを察したらしい。その顔にわずかな哀れみをにじませながらも、そうか、と呟きうなずいた。


 片桐はそれ以上、くわしい事情をたずねることも、なぐさめの言葉をかけることもない。そうした対応にどこかほっとしながらも、思いがけず耳にした話が気になった私は、彼に向かってこうたずねた。


「この木、伐ってしまうんですか?」


 私の視線は、事故の後も変わらずその場に佇んでいる松の木へと向けられていた。曲がりくねった幹と細い緑の葉を透かした向こうには、私の凪いだ心を映したように、茫洋とした海がただ横たわっている。その根元には、少し萎れてしまったお供えの花がかすかな風に揺れていた。


「まあ、そうだな。こんなことになる前に、そうできていればよかったのかもしれんが――せめて、二度と同じことが起きないように、な」


 私の問いかけに対して、片桐は苦々しげな表情でそう答えた。


 もしかしたら彼は、私がこの松の木を恨んでいる、とでも思ったのかもしれない。しかし、私はこの木に対して特別な思いを抱いたことなどなかった。


 確かに、この木がなければ事故は起こらなかったのかもしれない。とはいえ、たとえそれが事実だとしても、今さら何かをしたところで意味があるとも思えなかった。


 心ここにあらずのまま、私はそうですねと言って、ただうなずく。


 私にとって意味はなくとも、この木がなくなることで悲しいことが二度と起こらないと言うのなら、それはきっと正しいことなのだろう。


 私は集まった人たちに見守られつつも、その場で静かに手を合わせた。彼らに軽く会釈してから、来た道を引き返して行く。


 私が遠ざかった頃合いを見計らって、その場にいた人のたちは再び動き始めたようだった。


「それで、どうなんですか。片桐さん」


 深いため息とともに、それに答える片桐の声が聞こえた。


「いや。この木、どうも虚ろでな。このまま伐ったとしても、また同じことになるだろうよ。思いを寄せる何かがあるのかもしれん。今は、どこぞのお姫さまにでも会いに行っているのかもな――」


 何の話だろうか。奇妙に思いつつも、そのときの私には彼らの話を気にかける余裕はなかった。


 遠くから聞こえてくる音に、ずっと凪いでいたはずの私の心がざわめいている。町の空気がいつもと違うのは、海風が太鼓と笛の音を運んでくるからだろう。


 今日は神社で夏祭りが行われる日だ。あの日、彼と交わした約束の――





 夏休みに入る前のこと。


 学校の休み時間に、私は親しい友人たちと話をしていた。私と私の親友と、彼と彼の友人の四人で。


 親友の彼女は彼とは幼なじみで、この春に同じクラスになったこともあって、私たちはことあるごとに四人で行動するようになっていた。そのときも、話し合っていたのは夏休みでの遊びの予定だ。


「夏祭りはみんな浴衣ね。浴衣」


 それを提案したのは私の親友だった。しかし、その話に男子ふたりはあまり乗り気ではなかったように思う。


 去年には彼女とふたり、私は浴衣で夏祭りに行っていた。だからこそ、私にとってそれはごく自然な成り行きのように思えたのだが、彼らにしてみれば、それは思いがけない話だったのだろう。


「それって、まさか俺たちも?」


「当たり前でしょ」


 驚いた様子の彼に、親友は平然とそう返していた。譲らない彼女に根負けしたのか、夏祭りには浴衣で集まることが決まる。


「わかったよ。じゃあ、約束な」


 そう言った彼と、そのとき確かに目が合った。だからこそ、その瞬間に見せた彼の笑顔が、私は今でも忘れられない。


 夏祭りの日に浴衣で会うというだけの、ささやかな約束。けれども、そのときの私には、それだけのことがただうれしくて、その約束だけで自分の中のすべてが満たされるような気がしていた。


 しかし――


 今となってはもう、その約束が果たされることはない。永遠に。


 彼を失ってからの私は、まるですべてを失ってしまったかのように、先のことについて何も考えられなくなっていた。こんなにも小さな願いすら叶わないというなら、これからいったい、どんな希望が抱けるというのだろう。私はまだ、彼に自分の気持ちすら伝えていなかったのに――


 それ以来、私の目に映る現実は虚ろだ。自分という存在から遠ざかり、ただそこにあるだけ。ぽっかりと空いた穴から流れ出て、私の中の海はもう戻らない。


 失われた命が、決して戻らないように。

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