才子佳人(三/三)
通話を終えた片桐は、山伏の元へと歩み寄った。山伏は相変わらずお経を唱えていたけれども、片桐はそんなこと気にもとめずに声をかける。
「なあ、あんた。お取り込み中にすまないが、いいかい」
山伏はあからさまに顔をしかめたが、読経を中断すると、渋々こう応じた。
「……何かご用か」
「いきなり現れて、何をしていらっしゃるのかと思いましてね」
片桐のそんな言葉を、山伏はあからさまに見下している。
「何をしているかもわからぬなら、おぬしの出る幕ではない。あるいは、この声すら聞こえぬと言うのなら、なおさら、おとなしく見ていてもらおうか」
山伏の物言いに、片桐は小さく肩をすくめた。
「あんたの大声でどうにも聞こえにくいが、俺にもちゃんと聞こえていますよ。しかし、いきなりお経を唱える理由については、よくわかりませんが。俺は各地にある古い木を世話して回っていましてね。この音には聞き覚えがあるんです。だからこそ、どうしてこんなことをしているのか、と奇妙に思っていまして」
「聞こえるとて、感じ取れぬのなら意味はない。おそらく、これは亡き者の無念の声。先達として、行くべきところへと導かねばならん。素人が口出しせんでもらおうか」
山伏がそう言い放つと、片桐はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「つまり、あんたはあくまでも、この音が普通のものではないって言うんだな?」
いぶかしげな表情を浮かべた山伏には背を向けて、片桐は榎の盆栽の元へと歩いて行く。そうして、その前に立ったかと思うと、山伏に向かって、榎にある洞を指差した。
「人のことをどうこう言うよりも、あんたこそ、よく聞いた方がいいんじゃないのかい。さあ、見てみな。これが音の正体だ」
山伏はけげんな顔になりながらも、榎の盆栽に近づくと、洞の中をのぞき込んだ。その瞬間、山伏は何かに驚いたように後ずさる。
ぶん、という音と共に、穴の中から飛び出てきたのは――
「は、蜂?」
数匹の蜂が、山伏を取り巻くように飛び回り始めた。山伏はあたふたとそれらを手で振り払いつつも、身を屈めて榎の盆栽から遠ざかっていく。
山伏の情けない姿を近くでながめながら、片桐は呆れたようにこう言った。
「その経を読む音、蜂の集り鳴くが如し――だったか。どこかで、そんな風に書かれていたことがあった気もしますが……何かを感じ取れるはずの方が、蜂の羽音を人の声と間違えるなんざ、ちとお粗末じゃあないですかね」
蜂から逃れたことで、山伏はひとまず落ち着きを取り戻したらしい。しばらくは、まごまごと言い訳を並べ立てていたが、片桐がにらみつけると、山伏は苦虫を噛みつぶしたような顔で去って行った。
その後ろ姿が見えなくなる頃には、入れ替わりに近所の人――山伏を呼んだのだろう、その人だ――がやって来る。おそらくは、取り持ったお祓いの顛末を確かめに来たのだろう。
私は彼女に、読経の声の正体が蜂の羽音だったことを話した。
相手は少し残念そうな顔をしていたけれども、表向きには、祟りじゃなくてよかったわ、と言って笑っている。彼女のおさがわせなところには苦笑いを浮かべつつも、私はなぜか、ひどくがっかりしたような――心にぽっかりと穴が空いたかのような、そんな気持ちを持て余していた。
あの声の正体が、実は蜂の羽音だったなんて。
何だ。そんなことだったのか。得体の知れない音の正体が知れたというのに、ほっとするよりもまず、そんなことを思ってしまう辺り、私はやはり、あの音があの人の声だということを信じていたらしい。
心ここにあらずのまま近所の人を見送ってから、私はふと、庭にいるふたりのことを思い出た。
慌てて彼らの元へ戻ると、それに気づいた片桐が、私のことを気づかうようにうなずいている。その傍らでは、少年が榎の洞を少し遠くからのぞき込んでいた。
「とにかく、蜂が巣を作ってるなら、それをどうにかしないと――って、うわ!」
大きな声を上げて、少年は素早く飛び退った。また蜂が出てきたのだろうか、と思ったのだが……
「中に、小さいおじいさんが!」
少年は洞の中を指差しながら、そう叫んだ。
何を言っているのだろう。私はとっさにそう思ったのだが、それを聞いた片桐は、おもしろがるような表情になったかと思うと、怯える少年に向かって、こう問いかけた。
「お。おまえ、こういうの見える質か?」
少年はその言葉に、いかにも不服そうな表情を浮かべている。
「それって、普通は見えないってことですか? じゃあ、見えません」
「じゃあって何だよ」
やりとりの意味がよくわからなかったので、私は自分の目で洞の中にあるものを確かめることにした。
辺りに蜂の姿はない。しかし、よくよく耳を澄ませてみると、読経の声のようなあの音が、かすかに聞こえている気もする。もしかしたら、蜂がまた飛び出してくるかもしれない、と心配しながらも、私は恐る恐る洞の中をのぞき込んだ。すると――
そこには、その穴に収まるくらいに小さな人の姿があった。
体は小さいが、少年の言うとおり、それは紛れもなく老人の姿のように見える。しかも、その老人は、拝むように手のひらを合わせて、もごもごと何かを唱えているようだった。
「これは、いったい……どういうことでしょう」
私がそうたずねると、片桐はこう答えた。
「木というものは、年を振ると化けることがありましてね。要するに、これはこの榎の仮の姿です。今のところ、お経を唱えるだけのようなので、特に害はないでしょう。それでも気味が悪いというなら、うちで引き取らせてもらいますが」
私は言葉を失ってしまったが、少年は困惑しつつもこうたずねる。
「それで……どうして、お経を?」
「こいつはまだ成り立てだからな。はっきりとした意思はないらしい。ただ、生きものってのは、飼っていると主人に似てきたりするだろう。そいつと同じだよ」
片桐はそう答えたが、少年は納得しがたいのか、あからさまに顔をしかめている。
その話が本当なら、この榎はあの人の真似をしている、ということになるのだろう。思いがけない話だが、音の正体が蜂の羽音だと言われたときよりかは、しっくりくる気がする。
とはいえ――
「でも……だとしたら、さっきの蜂は」
「片桐さん。片桐さん。うまくいきまして?」
少年の問いかけに重なって聞こえてきたのは、涼やかな少女のような声だった。
振り返った片桐の視線の先にあったのは、おめかしをした若い女の子の姿。もうひとり、そのとなりには純朴そうな青年が立っている。
「何。この人たち」
「虫が大好きな、ちょっと変わった人たちだ。害はない。特に鴻上は蜂使いの家系でな。さっきの蜂は、こいつのおかげさ」
少年と片桐のやりとりに、青年はただうなずくだけだったが、女の子の方はどこか得意げにこう話す。
「蒅の蜂が、役に立ったようですわね。蜂を操るのに、彼の右に出る者はおりませんわ」
宮古少年は、はあ、と言ったきり、うろんな目をするばかりで、それについては深く追及するつもりはないようだ。
「それでは、片桐さん。お約束の時間まで、あちらでお待ちしておりましてよ」
女の子はそう言うと、青年と共にあっさりと踵を返してしまった。よく見ると、その手にはなぜか虫とり網が握られている。
「って――ちょっと待て。鵜月の嬢ちゃん。まさか、その格好で行くつもりじゃないだろうな。動きやすい服装で来いって言っただろうが。山歩き舐めてんのか。おい」
片桐はそう言って、彼女らの後を追って行く。
目まぐるしく起こったできごとを、ようやく受け止められたところで、私は思わず吹き出してしまった。
けげんな顔をしている少年に、私はこう言い訳する。
「ごめんなさい。何だか、少しうれしくなって……榎のこと。あの人がいなくなって寂しく思っていたのは、私だけじゃなかったのね」
私は、あの人と似た声で、亡きあの人を偲んでいるらしいその木を、じっと見つめていた。少年もまた、それを追うようにして、目を向ける。
「この榎は、あなたのところにあった方がいい気がします」
少年はそう言ってくれたが、私は不安のあまりこう呟く。
「私に、世話ができるかしら……」
「わからないことがあれば、うちのじいさんにでも聞いてもらえれば。まあ、洞の中のものについては、さっきの人に聞いた方がいいでしょうけど」
私はその言葉にうなずいた。
「そうね。そうするわ」
長い時を、あの人と共に生きてきた。だからこそ、これからひとりで生きていくことに、ひそかな不安を感じていたのだろう。
けれども、同じ思いを分かち合える存在がいるのなら、今しばらく――私が終わる、そのときまでは――どうにか生きていける。そんな気がした。




