鬼面嚇人(二/三)
気がつくと、俺は道なき道を走っていた。
自分でも何が起こったのかはわからない。ただ、振り向いた相手と目が合った瞬間、言い知れぬ恐怖を抱いた俺は、その場から一目散に逃げ出していた。
あれはたぶん、人じゃない。確かに人の形をしていたけれども。それくらい、恐ろしい顔をしていた。とはいえ――
こんな風に逃げたとして、逃げ切れるものだろうか。もう、どこをどう走ったのかもわからない。元の道へ戻れる気もしない。
どうしよう。どうすればいいのだろう。
俺は泣きそうになりながらも、今はとにかく、この場から逃げ出すことに全力を尽くしていた。しかし、そんながむしゃらが、いつまでも続くはずもない。
徐々に足取りは重くなり、体は思うように動かなくなる。そうしているうちにも、ふいに全身の力が抜けたかと思うと、俺はがくんと前のめりにつまずいた。
どうにか踏ん張ったが、足元がふらついたせいで結局は立ち止まる。視界がノイズまみれになって、しばらくの間、何も見えなくなった。だらだらと流れる汗のせいか、かすかな風が吹くだけでもひどく寒い。
ちりちりと指先がかすかに痺れていた。これはいったい何だろう。もしかして、あの化けものに何かされたのでは。しかし、たとえそうだとしても、俺はもう一歩も動けなかった。
もしも、あれに追いつかれてしまったなら、俺はいったい、どうなってしまうのだろうか。
ふいに、かさり、と音がした。風が吹いただけかもしれないし、森の生きものが立てた物音かもしれない。あるいは――
俺は音の出どころを探そうと、息を殺し耳を澄ました。しかし、そうしてみると森は案外ざわざわとさわがしく、ささいな物音にすら体を強張らせてしまう。
化けものが来るとしたら、右か左か。それとも、やはり後ろからだろうか。そう考えていると、木もれ日で眩しいくらいだった景色がふっと陰った。
流れる雲に陽の光がさえぎられただけかもしれない。しかし、どうにも嫌な予感がして、俺は空を見上げることをためらった。
辺りの明るさに比べると、俺の周囲だけが妙に暗くなっているようだ。そのことが、ひどく心細く思えてくる。
見えないからこそ、背後から迫り来るだろう気配を強く感じていた。やはり、何かいるのだろうか。そのうち、この状況に耐えられなくなった俺は、覚悟を決めると、そろそろと反り返るように頭上を仰いだ。
ひび割れたお面のようなものが目の前にある――それが、背後に立つ何かが上からのぞき込もうとしているのだと気づいたとき、俺は一切の動きを停止した。
そこにあるのは、項垂れて逆さ向きになった顔。落ち窪んだ眼窩は真っ黒に淀んではいるが、それでも、俺のことをじっと見つめていることはわかった。
細く開いた口もまた暗く、中は虚ろな穴のようだ。かと思えば、その口内では無数の脚を持ったおぞましい姿の虫がぞろりと這い回っているのが見える。
俺は頭を抱えて、思わずその場でしゃがみ込んでしまった。現状を受け入れられずに、現実から逃げ出すことを選んだからだ。
そうでなくとも、体は錘のように重い。きっと逃げられはしないだろう。もう、どうにでもなればいい。
俺は静かにそのときを待った。化けものに食われるか、それとも、どこかに連れて行かれるのか――どうなるかは知らないが、とにかく、自分の身に何かが起こる、そのときを。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。俺はただ、新しい世界を知りたかっただけなのに。そのために、いろいろなことを調べもしたし、事前にきちんと準備もした。いったい、何がいけなかったのだろうか。
こんなところに来なければよかった。ここは俺みたいな人間が足を踏み入れてはいけない領域だ。山に登りたい、と言われたあのときに、おまえには無理だよ、って笑い飛ばしていればよかったのか。登山のことを気にしてそわそわしていたあの日々も、未知への挑戦にわくわくしていたあの時間も、全部なかったことにして……
俺はただ、自分の心のとおり、そうしたかっただけなのに。正しい道を外れなければ、こんな目には遭わなかったのだろうか。けれども、俺には正しい道を選ぶこともできなかった。始めから、すべては無謀にすぎなかったということだろう。情けなくて涙が出そうだ。
どれくらい、そうして震えていただろうか。来ると思っていた終わりは、いつまで経っても来なかった。
その代わり、ふいに聞こえたのは、こんな呼びかけの言葉だ。
「もしもーし」
それは、あの化けものが出しているとは思えないような声だった。そんなかわいく話しかけてきたところで、だまされたりするものか。助かったと思って顔を上げたとして、あの恐ろしい顔に意地悪く嘲笑われるのがオチだろう。
そう考えて、頑なに全てを拒んでいたが、それでも続けて、大丈夫ですか、と声をかけられ、肩まで叩かれたものだから、俺は思わず顔を上げてしまった。
視線の先にあったのは、登山服姿の若い女性の顔。あの恐ろしいものは、こんな姿にも化けられるのか――なんてことを思っていると、その顔は心底ほっとしたような表情を浮かべた。
「よかった。意識はありますね」
目の前にいるのは、どうやらあの化けものではないらしい、と気づいたところで、俺は慌ててこうたずねた。
「ば、化けものは……」
「化けもの?」
女性はきょとんとした顔で首をかしげている。
俺は必死になって自分の身に起こったことを話した。見上げるほどに背が高く、恐ろしい顔をした、人に似た何かと出くわしてしまったことを。
しかし、彼女はその話を怖がることもなく、明るく笑いながらこう返した。
「へえ。見越し入道みたいな感じでしょうか。でも、大丈夫ですよ。見越し入道なら、見越し入道見越した、って言えば、退散しちゃいますから」
あまりに場違いな反応に、何を言っているんだろうこの子は、と思うと同時に、この子たぶん俺の言うこと信じてないな、とも思っていた。馬鹿にしているわけではないようだが。
呆気にとられてしまった俺に向かって、彼女は気づかうようにこうたずねる。
「それで、体調はどうでしょう? 歩けそうですか?」
言われてみれば、重く思えていた体も、いつの間にか多少は楽になった気がする。もう一歩も動けない、と覚悟を決めたのは何だったのだろうか。少し気恥ずかしく思いながらも、俺は彼女にこう答えた。
「必死になって走っていたら、急に動けなくなって。でも、だいぶよくなったみたいです」
相手は安堵した様子でうなずいている。
「無理をしちゃうと、そんな風になってしまうことがあるんですよ。少し休めば落ち着きますから。飲み水はありますか? 何か食べるものは? 私、チョコレート持ってるんです。よかったら」
そう言って彼女が差し出した小さな包みを、俺は素直に受け取った。ありがとうございます、と返したところで、にこやかだった相手の顔が、ふいにけげんな表情へと変わる。
いぶかしく思っていると、地面の一点に目を止めた彼女が、不思議そうにこう呟いた。
「こんなところに、イチイの実が……」
彼女の視線を追ってみると、そこには確かに、大きな葉の上に盛られた赤い木の実があった。まるで、お供えものか何かのように。こんなところに、こんなものがあっただろうか。
そうでなくとも、周囲には赤い実の生った木は見当たらない。だとすれば、誰かがここに置いていった、ということになるのだろうけれども――そんなことを考えているうちにも、俺はふと、あることを思い出す。
「そういえば、分かれ道に赤い実の生った木がありましたね。あの辺りで、道に迷ってしまったみたいで……」
そう言うと、彼女も同意するようにうなずいた。
「あの場所、わかりにくいですよね。左右に道があるように見えて。でも、正しいルートは木の向こう側なんです。伸びた枝葉のせいで、さえぎられてしまっていて」
その言葉に、俺は思わず顔をしかめてしまった。思い返してみても、そんなところに道があった覚えがないからだ。しかし、嘘をつく理由もないだろうし、彼女がそう言うからには、そうなのだろう。
釈然としないながらも、どうにかその事実を受け入れようとしていると、彼女は周囲を見回しつつ、こうたずねた。
「ところで、ここに来られたのは、おひとりですか? 道を外れたところから、誰かが手招いているように見えたので……気になって、ここまで来てみたんです。それで、あなたがうずくまっているのを見つけて。お友だちが助けを呼んでいたのかな、と思ったんですけど」
俺はその言葉にぞっとした。あの化けものは、やはりここにいたのだろう。俺だけに見えた幻というわけではないらしい。
すぐにここから逃げなければ。俺は慌てて立ち上がると、彼女も共に立ち去るよう促した。無理をしない方が、と心配されるが、幸いなことに、今はもう歩くだけなら支障はない。それよりも、俺は一刻も早くこの場から離れたかった。
そうでなくとも、手招かれているからといって誘われてしまう辺り、俺のことを助けてくれたこの女性も、しっかりしているようで少し抜けている。ここは俺が守らなければ。
そんな風に気負いつつも、俺は彼女に導かれながら、急ぎ山を下りて行った。木立の向こうに見える、人とも木ともわからない細長い影に怯えながら。




