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古木守抄  作者: 速水涙子


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鬼面嚇人(一/三)

 山中に足を踏み入れば、その先には見渡す限り樹々の海が広がっている。()もれ日に輝く緑のモザイクは目にも楽しい波紋のようで、風が吹くたび聞こえる葉ずれの音はさざ波のように心地よい。


 嗚呼、素晴らしき大自然。辺りには人の気配もなく、時折耳に届くのは鳥の歌声、ただそれだけ。非日常なこの世界に、その身をしばし漂わせていれば、誰もが心洗われることだろう。


 進むべき道を見失い、ここがどことも知れず、この深い森の中をひとりさまよい続けている――という状況でさえなければ。





 始まりは、相手が口にした何気ない呟きだった。


 おそらく、何かに感化されてのことだろうと思う。テレビ番組かネット動画か有名人のSNSか、あるいは雑誌か何かの記事か――今となっては、そう考えるに至った理由なんて、わかるはずもないのだけれども。


 とにかく、彼女は確かにこう言った。山登りがしてみたい、と。


 当時つき合っていたその彼女は、登山はおろかアウトドアとは一切無縁で、そんなことを言い出すような相手ではなかった。だから、そのときは冗談かと思って、適当に流したように思う。


 しかし、後になって、その言葉が妙に引っかかるようになる。山登り。残念ながら、アウトドアと縁がないのは俺も似たり寄ったりで、だから、山に登ってみよう、なんて思ってみたこともなかったのだけれど、あらためて考えてみると、心惹かれるものがあるような気がしたからだ。


 俺はそのうち、登山についていろいろと調べるようになった。初心者は何から始めればいいか。道具は何が必要か。服装は、注意事項は。そうして、近場で行きやすそうな山をいくつかピックアップし、そろえるべき物をリストにしたところで、俺は彼女に提案した。一緒に、登山に必要なものを買いにいかないか、と。


 そのときの彼女の答えは、何それ、だ。


 何それって――おまえが言い出したんだろう、なんて思いつつも、俺は彼女に登山のことをあれこれと話した。しかし、反応は芳しくない。彼女は自分が言ったことをすっかり忘れてしまったらしい。あまつさえ、きっかけの言葉を、他の女と勘違いしているのだろう、などと責められる始末。


 それだけが原因のすべてというわけではないけれども、それがきっかけで俺たちは別れた。そのこと自体は、もうすでに終わったことだ。何の未練もない。しかし――


 登山のことを調べている間、俺は山に行くことを少しだけ――いや、かなり楽しみにしていた。きっかけのことを思えば、依然としてそれに固執していることについては、自分でもどうかと思わないわけではないのだが――それでも、せっかく下調べをしたのだから、それを無下にするのも惜しくて、俺はひとりで山に登ることを決意する。


 必要な道具を買いそろえて、無理のない計画を立てた。当日の天気は良好。登山届けも提出し、完璧な装備を整えた上で、俺は意気揚々と山へと向かう。


 もしかしたら、これをきっかけに登山に目覚めたりなんかして、俺もそのうち、有名な登山家とかになったりするかもしれない。そうして、誰かにきっかけをたずねられるようなことがあれば、こう答えよう。あのときの、彼女の何気ない呟きに感謝します、と――


 そんな馬鹿なことを考えながらも、俺は純粋に登山を楽しんでいた。目の前に広がるのは未知の世界。見るものすべてが目新しく、ほんの小さな花のひとつや、見慣れぬ鳥の影を見つけるたびに、俺の心は高揚した。


 それなのに――




 運命の分かれ道は、おそらくあの分岐点だったのだろう――と思う。


 それまで順調に登山道を歩いていた俺の前に、一本の見慣れない木が立ち塞がった。葉の形からして針葉樹かと思うのだが、松でもなく杉でもなく、よく見ると、ところどころに赤い実をつけている――そんな木だ。


 植物にくわしくない俺には、それが何の木なのかはわからない。とにかく、その木を突き当たりに道は左右へと分かれていたので、俺はそのどちらへ進むべきなのかを迷ってしまった。


 正しい道はひとつだけ。しかし、そのどちらもそれらしいルートに見える。


 あらかじめ用意していた地図と方位磁石とを用いて、俺はどうにか正しいと思われる道を選んだ。そうして、再び歩き始めたのだが――どうやら、それがいけなかったらしい。


 俺が進んだ先は獣道となって、やがては下生えに消えてしまった。しかし、唖然としながらも、そのときにはまだ俺も冷静だったのだろう。すぐさま来た道を引き返し、赤い実の生る木まで戻ることができた。しかし――


 今度こそ合っているだろうと反対の道を歩いて行くと、次は切り立った崖に突き当たってしまう。どう見ても行き止まりでしかない岩肌を前にして、俺は呆然と立ち尽くした。


 どこで道を間違えたのだろう。あるいは、分かれ道にたどり着いたときには、すでに進路を誤っていたのでは。それとも、赤い実の木を目印にしたのがいけなかったのだろうか。珍しいと思ったのは俺だけで、本当はその辺りによく生えている木だとしたら……


 もうこの時点で俺は半ば恐慌をきたしていたのだろう。とにかく、見覚えのある場所を探して歩き回るのだけれど、どこもかしこも、見たことがあるような、ないような――そんな似たような景色ばかりで、俺はそのうち、戻っているのか進んでいるのか――そんなことすら、わからなくなってしまった。


 どうやら俺は、完全に迷ってしまったらしい。


 こういうときには、どう対処するのが正しいのだろう。やはり、その場にとどまって救助を求めるべきだろうか。しかし、今ならまだ、他の登山客を見つけることもできるかもしれない。そんなわずかな希望を抱いて、俺はひたすら道を歩いていた。そのとき――


 遥か前方に人の姿のようなものが見えた。


 助かった、と思うと同時に、あれは本当に人だろうか、という不安が頭をよぎる。なぜなら、その人は山道を歩くわけでもなく、何をするわけでもなく、ただ木の傍らに佇んでいたからだ。


 もしや、焦りのあまり何かの影を見間違えただけなのでは。そんな疑念に苛まれながらも、とにかくそれを確かめようと、俺は心持ち早足になって、その人がいる方へと歩いて行った。


 それが明らかに人の形をしているらしいことを確信したところで、俺はひとまずほっとする。やはり誰かいるのだろう。


 これでどうにか正しい道に戻ることができる。あるいは、あの人も俺と同じように道を見失って途方に暮れているのかもしれないが――それでも、ひとりでいるよりかはマシだろう。


 そんなことを考えながら、徐々に近づいていくその人に向かって、声をかけようとした――そのとき。俺はその姿に、ふと違和感を覚えた。


 傍らに生えている木と比べても、この人の背は、いくらなんでも高すぎやしないだろうか。


 そう思った途端、足取りが鈍くなる。目の前にいるのは本当に人なのだろうか。そんなことを考えてしまったからだ。


 世の中には自分より背の高い人くらい、いくらでもいる。何を怖がることがあるのだろう。とはいえ――


 そんな人がこんなところでひとり、いったい何をしているのだろう。どうして、こちらを振り向きもせず、じっとうつむいているのか。何か得体の知れない恐怖を感じて、俺はその人に話しかけることをためらってしまった。


 近づくにつれて、気がかりだった相手の背丈は、思っていたよりも遥かに高いらしいことがわかってくる。ここまで来ればもう、相手の方も、すでにこちらのことには気がついているだろう。立ち止まるべきか、引き返すべきか――


 とはいえ、たとえ引き返したところで、どうしようもないことも確かだ。下手をすれば、変な道にでも迷い込んで二度と戻って来られないかもしれない。


 とにかく、それを判断するのは、あの人に一度声をかけてみてからでも遅くはないのではないだろうか。仮にそれが人ではなく、本当に恐ろしい何かだったとして――そのときは、全力で逃げ出せばいい。


 山道をゆっくりと歩いていた俺は、自分の影が相手に届くかどうか、といったところで一旦立ち止まった。目の前に佇んでいるその影は、間違いなく人の姿をしている。しかし、やはり見上げるほどに背が高い。


 意を決して、俺が相手に声をかけようとする、その前に――その人はゆっくりと、こちらを振り向いた。

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