遠方人(三/三)
穴の中に妙なものを見つけて以来、僕はふとしたときに、どこからか視線を感じるようになっていた。
柱の穴に見つけた目玉――のように見えたものについては、よくわかっていない。穴の口は狭く、取り出すことはできなかったし、角度が悪くて、光で照らすことも難しかったからだ。
ただ、そこに何かがあることは確かで、おそらくは、母が何か球体のもの――たとえば水晶玉か何か――を落としたのではないか、と僕は考えていた。
だとしたら、やはり奇妙なことは何もない。視線を感じるのも、ただの思い過ごしだろう。
あるいは――
もしかしたら、あの女が何かしたのではないだろうか。僕はそうも考えていた。
あの女に特別な何かがあると思っているわけではないが、あのとき、あれほどあっさりと引き下がったのは、違和感があったからだ。とはいえ、あれ以来、あの女が現れたこともないのだから、それもただの邪推に過ぎないが。
そんなことを考えながら日々を過ごしていた、ある日のこと。
家に帰る途中、ふいに誰かが見ているような気がして、僕は周囲を見回した。
もしかして、あの女がどこかにいるのではないか。とっさに、そう思ったのだが――
近くの物陰には、確かに女の姿があった。しかし、それはあのとき家に虫がいると宣った、あの女――ではない。それより、ずっと年嵩で――僕の母より少し上くらいだろうか――それでいて身なりのいい、凛とした佇まいの女性だった。
その人は、僕が見ていることに気づくと、嘲るような笑みを浮かべてから、何を言うわけでもなく、踵を返し去って行く。何だか嫌な感じがして、考える間もなく、僕はその人のことを追っていた。しかし――
いくらもしないうちに、僕はその姿を見失ってしまう。
僕は本当に、その人の姿を見たのだろうか。そんなことすら自信が持てなくなって、僕はその場で呆然と立ち尽くした。
どこからから、話し声が聞こえてくる。近所の人が立ち話をしているようだ。話している人たちは、僕のことには気づいていないのだろう。聞くつもりはなかったのに、その会話が聞こえてしまっていた。
話しているうちのひとりは、どうやら近くに引っ越してきたばかりらしい。もしかして、自宅の裏手にある、長く空き家だったところだろうか。そう考えていると、誰かがこんなことを言い出した。
「お宅の裏に住んでる人、ねえ……こんなこと、あまり言いふらすのも何だけど。ほら、山の手の方に立派な邸宅があるでしょう。そこの富豪が建てたらしいんだけど――こういうの、今では何て言うのかしら――いわゆる、お妾さんの家なのよ。あそこ……」
僕は気づかれないうちに、すぐにその場を立ち去った。
家に帰った僕は、真っ直ぐに母の部屋へと向かう。
柱に目を向けると、ちらちらと何かが動いているのが見えた。茶色く小さな赤子のような手。それはひらひらと、まるで手招くように忙しなく動いている。
いや――違う。
手のひらだと思ったものが、ふいに穴の縁から飛び立った。
不安定に飛ぶそれは、決して得体が知れないものではない。この姿は――おそらく、蛾だ。
小さな蛾は、何かに誘われるようにして、部屋を出て行ってしまう。はっとして、僕はその虫を追いかけた。
一匹の蛾が、迷うことなく廊下を過ぎ、玄関を通り、家の外へと飛んで行く。
その行く手には、女がひとり立っていた。虫がいる、と言った、あの女だ。
飛び去った蛾は、差し伸べられた女の手に、吸い込まれるようにその脚を止めた。女はそれを、手にした虫籠の中に、そっと招き入れる。そして、僕のことに気づくと、嬉しそうに笑みを浮かべた。
女は、ただそれだけで去って行く。僕はその姿を見送りながらも、今までのことを思い返していた。
柱の穴から這い出た指。中に落ちていた目玉。そこから飛び立った一匹の蛾。
――なんだ、そういうことか。
虫は、いた。あの女の言うとおりに。
僕はずっと、母はありもしないものに怯えているのだと思っていた。しかし、それも違うのかもしれない。
あの家は、歪んでいる。始めから、僕たちが心穏やかに過ごせるような――そんな場所は、どこにもなかった。そのことに、母は早くから気づいていたのだろう。
気づいていなかったのは、僕だけだったらしい。
僕は今まで、いったい何を見ていたのだろうか。今となってはもう、何もかもが、ひどく虚しく思えていた。
* * *
「片桐さん。片桐さん。見てくださいまし」
久々に里へ帰ったところ、唐突にそう呼び止められた。
その独特な話し方からして、それが誰であるかはわかっていたのだが、振り返れば案の定、背後に立っていたのは顔見知りの若い娘だ。相変わらず、山中の隠れ里には似合わないどこか古風な洋装姿で、そのくせ手にしているのは竹製の虫籠という、よくわからない取り合わせだった。
「鵜月のとこの嬢ちゃんじゃねえか。何だ。また、変な虫でも捕まえたのか?」
「ええ。人の妄念より化生した虫――アマノジャクですわ」
娘は心底嬉しそうに、そう言った。その表情からして、よもや本当にひねくれ者の悪鬼でも捕まえたのか、と虫籠をのぞき込んだのだが――そこに入っていたのは、どう見てもただの虫。枯れ葉のような翅を持つ一匹の蛾だった。
「アマノジャクってか――こいつはイラガだろう。一部の地域では、確かにそう呼ばれているらしいが。そんな珍しいもんでもないだろうに」
娘はたいそうな虫好きで知られている。何でも、自室にはびっしりと虫籠が並んでいるらしい。しかし、隙あらば虫を愛でている他は、特に害のない娘だ。
「そんなことおっしゃらずに、見てくださいな。このアマノジャクは、こちらの柱の穴に生じていたのを、わたくしが見つけましたの」
娘はそう言いながら、どこからか自身の携帯端末を取り出すと、目当ての画像を表示してから、それをこちらに差し出した。
画面には、どこの家かは知らないが、床の間の柱が映し出されている。
「おそらく、人の妄念から化生した虫ですわ。昔から、そういうことは、よくありましたもの。けれども、家主の方が協力してはくださらなくて……折を見て待ちかまえていたのですけれど、捕まえられてよかったですわ」
無念を残した人の思いが虫となって湧いて出る――そういうことが、たまにあるらしい。その手の生きものに関しては、専門外なので、くわしいことはよくわからないが。
そんなことより、目の前に差し出された画面の方が気になって、知らずため息をついていた。
「虫一匹のために何やってんだよ。相変わらず、分家にはおかしなやつしかいねえな……そうでなくとも、他人様の家なんて、勝手に撮るんじゃねえ。近頃の若いやつはこれだから――」
そのときふと、見せられた画像に違和感を覚えた。理由はすぐにわかったので、その答えを口にする。
「この、出節丸太の床柱は欅だな。しかし、これは……逆さ柱のようだが」
逆さ柱は、本来生えていた向きとは上下逆に立てられた柱のことだ。不吉なことを引き起こすとして、忌まれている。
娘はその言葉に目をしばたたかせた後、端末を自分の方へ引き寄せると、その画面にまじまじと目を向けた。
「木を世話されているだけあって、さすがにおくわしいですわね。そのようなことも、おわかりになりますの。確かに、ずいぶん歪んだ家だと思っておりましたけど――」
娘は少しだけ憂う表情を見せながらも、端末をしまい込む頃には、すでに平然とした顔へと戻っていた。
「まさか、逆さ柱だなんて。この家に住んでいる方に、よほどの怨みでもあったのでしょうか。そうでなくとも、古い木のうろには、悪いものが巣食うものですわ。空っぽになったあの木の虚ろが、もっと悪いものを、呼び寄せないといいのですけど」
娘はそんなことを言いながらも、虫籠を大事そうに抱えて、無邪気な笑みを浮かべていた。




