遠方人(二/三)
思いのほか、あっさりと女が引き下がったものだから、僕は拍子抜けしてしまっていた。
この場に残されたのは、僕と母のふたりだけ。とはいえ、今の心境では、母と冷静に話ができるとも思えない。そう考えた僕は忌まわしい母の姿からは目を逸らし、何気なく室内を見回したのだが――かえって、あれこれと見たくもないものが目についてしまった。
部屋の隅に据えられている、妙な像が祀られた気味の悪い祭壇。床の間に飾られている安っぽい壺。家具や壁の至るところに貼られている、ただラクガキされているだけにしか見えない御札の数々。
これらは皆、母が詐欺まがいの連中から買い求めたものだ。
本当は、こんなものはすべて捨て去ってしまいたいのだが、そうすると、母はまた根拠のない不安に苛まれて、代わりの品を求めてしまう。そうして、大金をだまし盗られるのがオチだった。
だからこそ、二度と同じ過ちをくり返さないために、その手の連中とは一切関わらないよう母と約束した――はずだったのだが。
虫がいる、と言い始めたのは、あの女に感化されたからだろうか。それとも、あの女が母の妄言に乗ったのか。
あそこにも、虫がいる――女はそう言って、その場所をわざわざ指で差し示していった。そのことが気になって、視線は知らず床柱の方へと向かう。
虫なんて、いるはずがない。それでも、しばらくの間、黒々とした柱の穴から目が離せなくなった――そのとき。
ふいに穴の中で何かが動いた、気がした。
ぎょっとして注視しているうちにも、暗がりから這い出るようにして姿を現したのは、毒々しい緑色のしなやかに動く指――のようなもの。それはしばし宙を探るように蠢いていたが、そのうち先端で穴の縁を探り当てたかと思うと、その細長い姿を撫でるようにぞろりとへりに這わせてから、穴の奥へと消えていった。
今のはいったい、何だったのだろう。穴の中に、何かがいる――いや、そんなことが、あるはずはない。きっと、光の加減か何かで、柱の凹凸を見間違えただけだろう。
しばらくの間、息を詰めて柱の穴を見つめていたが、それからは、また中から何かが這い出てくるようなことはなかった。やはり、気のせいだったらしい。そう確信できるようになってから、僕はようやく、ほっとして息をついた。
それでも、心の内には、何かざらりとしたような不安が、澱のように残っている。
いつの間にか母は祭壇の前に跪いていて、安物の念珠を手にぶつぶつと何やら熱心に唱えていた。その姿が、ひどく癪に障る。
どうして、こんな風になってしまったのだろう。
僕が幼い頃、母は何かにつけて手を上げるような人だった。とにかく、話しかけるだけで癇癪を起こすものだから、父のこと、家のこと――いろんなことをたずねることもできずに、僕は今でも多くのことを知らないままだ。
わかっていたのは、母も僕も、お互いの他には身寄りはないということで――そうなると、幼かった頃の僕には当然、他に頼るべき人もいない。そうして、僕は息を潜めるような子ども時代をやり過ごし――もはや、子どもとは呼べなくなった頃には、いつの間にか、母は意味もなく何かに怯えるようになっていた。
押し入れの中に見知らぬ老人がいる。道を歩いていると、時折喪服の女に笑われる。排水溝に泣き叫ぶ赤子が詰まっている。挙げ句には、家の至るところに無数の虫が湧いている、と言う。
しかし、そんなものは全て幻だ。少なくとも、僕は一度もそれらを見たことがない。
あるいは、そうさわぐだけならまだいいが、母はそのうち、その――ありもしないものを消し去るために、うさんくさい連中に助力を求めるようになった。
高い金を払って祈祷を依頼し、高額な商品を買わされる。借金を作るのはもちろん、それができなくなると、近所の知らない人にまで無心し始めるのだから、たまらない。
子どもの頃の僕は、口を開くたびに母に叱られていた。今ではその立場も逆転し、母がおかしなことを言うたびに、僕はそのことを罵るようになっている。
情けない声で何かよくわからないものを拝んでいる母の姿を、僕は冷たく見下ろした。
「変な奴を家に入れるなって、あれほど言っただろう」
そう言って詰め寄ると、母はびくりと肩を震わせた。そうして、母はか細い声で、くり返し許しを乞い始める。
その姿に、僕は哀れみよりも、苛立ちをつのらせていった。
何度言っても聞き入れないなら、仕方がない。
母を言葉で説得することについては、とうの昔に諦めている。
あの忌まわしい家を一歩出れば、僕は至って普通の勤め人だ。勤めているのは小さな出版社で、今はまだ、入社してようやく一年過ぎただけの新人だった。
とある平日の昼休み。先輩に当たる社員から、ランチに誘われた。その人とは偶然、出身大学が同じで――在学中は全く交流がなかったのだが――そのおかげで、何となく目をかけてもらっているくらいの関係だ。
真面目で仕事熱心な人で、その日の会話も、社会問題だの何だのと、ずいぶんと固い話題ばかりだった。しかし、彼女の場合は、それが自然体なのだろうと思う。
彼女もまた、物心つく頃には片親だったらしい。しかし、母親との関係は良好なようだ。会話の中でふいに家族の話題を耳にするたびに、僕は彼女との境遇の違いに、何となく後ろめたさのようなものを感じてしまう。
僕の母のことを、彼女は知らない。
もしも、そのことを話したなら、彼女はどんな反応をするだろう。彼女と話をしていると、たまにそんなことを考えてしまう。
今まで交流があった人たちは、母の奇行を知ると、誰もが僕の元から離れていった。しかし、それも仕方がないことだとは思う。僕自身、母のことを投げ出せるなら、そうしたいくらいだからだ。
それでも、僕には母を見捨てることはできないだろう。
情があるから――ではない。唯一の身寄りとして、それを投げ出してしまうことは、真っ当なことだとは思えないからだ。
真っ当でありたい。それは今の僕が、何より切に願っていることだった。
それは何より、僕が真っ当ではない母のことを嫌っているからだろう。僕が母のことを監視し、その奇行を秘匿し続けているのも、そのためだ。
そんな日々がいつまで続けられるのか、という不安はある。母のことは、せめて他人に迷惑をかけないうちに死んでくれ、と願うばかりだ。と同時に、そんなことを考えてしまうのは、やはり真っ当ではないのだろう、とも思う。
母と共にいる限りは、真っ当にはなれない。かといって、母を見捨てることは、そもそも真っ当ではない。そうなるともう、もはやどうしようもなかった。
真っ当でありたい――たったそれだけの願いが、こんなにも遠い。
ふいに彼女から声をかけられて、僕はようやく物思いから覚めた。どうやら、ぼうっとしていたらしい。目の前には、心配そうな彼女の顔がある。
いつも彼女に対してそうするように、陰りのない表情を取り繕えば、僕の中にある真っ黒いものなど、彼女は気づきもしないだろう。人というものは、どんなことでも、目の当たりにしなければ、本当に理解することなどできはしないのだから。
それでも、彼女なら、このどうしようもない状況から、救ってくれるのではないか――そう考えてしまうのは、都合の良い話だろうか。けれども、そう思うからこそ、僕は決して、彼女に母のことを話しはしないだろう。
心穏やかな時も過ぎ、その日の仕事を終えた僕は、帰宅して早々、母の私室へと向かった。
僕がいない間に、何かしでかしてやしないかと気が気でなかったが、少なくとも、この日の母は部屋でおとなしくしていたようだ。つい先日、さわぎを起こしたばかりだし、今までのことを考えれば、しばらくは家で静かにしているだろう。
ふと気になって、床の間の柱へと目を向けた。そこにある、黒々とした穴に視線が吸い寄せられていく。
女の言葉を信じたわけではないが、かと言って、すぐに忘れられるようなことでもない。僕は知らず、何かに招かれるように、柱の穴へと近づいて行った。
のぞき込んだ穴の中には、動くものは何もない。しかし――
暗い暗い穴の底には、丸い形の何かがあった。陰になっていてよく見えないが、その球体は白と黒の二色に分かれているようだ。
僕にはそれが、目玉がひとつ落ちている――ように見えた。




