遠方人(一/三)
虫がいる、と母は言う。
どこをどう見ても、そんなものいやしないのに。あるいは、小さな羽虫くらいなら飛んでいるかもしれないとも思ったが、そう問いただしたところで、母はあくまでも、そうではない、と言い張ってゆずらない。
あまりにうるさいものだから、仕方なしに、母がしきりと指差す方へも目を向けてみるのだが、やはり何も見えやしなかった。かと言って、見間違いだ、と指摘したとして、母がその事実を納得することなどないだろう。
虫がいる、と母は言う。そう言われるたびに、僕はそれを否定するのだけれど、それでもいる、と母は言う。家の至るところに。床に壁に天井に。無数の虫が蠢いている、と。
母はまた、ありもしないものに怯えているらしい。
木造二階建ての一軒家。物心ついた頃から、僕はこの家で母とのふたり暮らしだった。
どういう経緯でこの家に住むことになったのかは知らないが、いつからか雨もりもひどくなり、やたらと家鳴りもすることだし、おそらくは相当に古いのだろう。そんな住まいだから、多少の虫が湧いたところで、さして驚くことでもない。それでも、何の根拠もなく、無数の虫がいる、などとさわがれるのは、決して気分のいいものではなかった。
とはいえ、母がよくわからないことでさわぎ出すのは、今に始まった話ではない。それこそ、ただの雨もりや家鳴りが呪いや祟りのせいにされるのはよくあることで、無数の虫とやらが何に感化されたものかは知らないが、悪霊だの狐だのと言い出さないだけ、まだマシな方だった。
そんな母と虫がいるいないの問答を何度かくり返した末の、ある日のこと。
仕事から帰ると、玄関の三和土に見慣れない靴が並んでいた。耳を澄ませてみると、やはり母ではない誰かの話し声がする。
嫌な予感がしたので、すぐさま母がいるだろう北の角部屋へと向かった。
一階には風呂場炊事場、食堂としての洋間の他に二間続きの和室があって、そこが母の私室だ。歩くだけで軋む廊下を通り抜けて、和室へと続く襖を開け放つと、そこには案の定、母と共に見知らぬ誰かが立っていた。
若い女だ。クラシカルなワンピースの正装はこのみすぼらしい民家には不釣り合いで、その立ち姿は明らかに周囲から浮いている。しかし、当の本人は気にすることもなく、室内をぐるりと見回しながらも、こんなことを話していた。
「確かに、いますわね。この家には、無数の虫が――」
その言葉に、はっとする。母がおかしかったのは、こいつのせいか。そう思うと、ふつふつと怒りが湧いた。
とはいえ、それをぶつけたところで、こういう手合いには、のらりくらりとかわされてしまうだけだろう。そんなことを考えながら相手のことをじっとにらみつけていると、女はふいに僕のいる方へと振り返ってから、たった今気づいたとでもいうように、あら、と呟きながら目を見開いた。
「おじゃましております。わたくし、鵜月栲と申します」
女は屈託のない笑みを浮かべながら、そう名乗った。
「うちに何のご用ですか」
冷ややかに問いかけながらも傍らへちらりと視線を向けると、そこにいる母はいたずらが見つかった子どものように縮こまった。そのことに気づいているのか、いないのか、女は澄ました顔でこう答える。
「わたくしが虫にくわしいこともあって、ご相談いただきましたの。こちらに無数の虫がいる、とのことでしたので、何かお力になれるのではないかと思いまして」
白々しい物言いに、僕は思わず顔をしかめていた。
「母の妄想につき合っていただいたようですが、家の中をご覧になられたなら、もうおわかりでしょう。ここには虫なんていません。そのような妄言を吐くためにいらしたのでしたら、今すぐに出て行ってください」
僕は玄関の方を指差しながら、毅然とそう言い放った。しかし、女は怯むこともなく、悠然と小首をかしげている。
「あら、まあ。それでは、お見えにならないのね。あなたには、この家に巣食っている、無数の虫が――」
その言葉に、僕は大きくため息をつく。
やたらと芝居めいた口調といい、場違いな服装といい、この女はどう考えても普通ではない。どうせ、不吉だ何だとさわいで妙な宗教にでも入信させるか、あるいは、不当に金品を得ているような類いだろう。
僕は部屋の隅に立っている母のことをにらみつけた。老いさらばえた母は、この女を家に入れたことに対する負い目があるのか、僕の視線からは必死に目を逸らして、ただひたすらに震えている。
僕は小さく舌打ちすると、あらためて女の方へと詰め寄った。
「そうやって母を丸め込んだのでしょうが、僕はだまされませんよ。虫なんて、一匹だっていやしない。あなたは、この家のどこに無数の虫がいると言うんです。それはいったい何の虫ですか」
「妄念です」
話の隙をついて、女はひとこと、そう言った。虚をつかれ口をつぐんでしまった僕に向かって、女はさらにこう続ける。
「妄念ですわ。この家に巣食う、妄念の化生」
この女は、いったい何を言っているのだろう。とっさには意味が理解できなくて、僕は返す言葉を失ってしまう。
戸惑う僕を見つめながら、女は嫣然とほほ笑んだ。
「あら。ご存知ありません? 生きものは化生するものですの。蛇は蛸に。蛤は雀に。笹の葉は魚に。虫ならば――」
女はそこで一旦、言葉を区切ると、見えない何かの姿を追うように、室内をぐるりと見回した。
「人の妄念より化生するのですわ」
要するに、自分は普通の人には見えないものが見える、とでも言いたいのだろう。蛇が蛸になる、だなんて、本当に信じているのだとすれば、どうかしている。
何にせよ、こちらがどれだけ常識的なことを説いたところで、相手の方はそれを受け入れて引き下がるつもりなどないらしい。いかにして追い出すべきか――そう考えているうちにも、女は親切ごかして、こんなことを提案してくる。
「そうですわね。わたくしが虫送りをしても、よろしいのですけれど……原因はこの家にあるようですから、仮に虫がいなくなったとしても、一時のことでしょう。この場合は、お住まいを変えられた方が、よろしいかもしれません」
言っていることはよくわからないが、そうやって妙な理屈をつけて、こちらに金を出させようという魂胆なのだろう。そうはいくものか、と内心では強く反発しつつも、僕は相手のことを軽くせせら笑った。
「馬鹿馬鹿しい。今すぐにお引き取りください。あなたの助けは必要ありません。ここには、あなたの言うような虫なんていないのですから。何をおっしゃろうと、あなたのような詐欺師に払う金は一銭もない」
女はきょとんとした表情を浮かべると、しばしの間、無言で僕のことを見つめていた。しかし、ふいにどこかへちらりと視線を送ると、考え込むような素振りを見せながらも、こう話し出す。
「あなたには、この家に巣食う虫が、見えていないようですけれども……」
女はその先を言い淀みながらも、室内のとある部分を、か細い指先でそっと差し示した。
母が、虫がいる、と言って、よくさわいでいたところ――床や壁や天井の暗がり――ではない。それは、床の間の柱だった。
「あちらなら、あなたにも見えるのではないかしら。お気をつけくださいまし。あそこにも、虫がいますわ」
部屋の東北に位置するその柱は、節の凹凸を残して磨いたものらしく、普通の角材や丸太とは違う、少し変わった柱だった。特に、節穴だかうろだか知らないが、赤子の拳が入るくらいの穴が空いているのは、他ではあまり見ない趣向だろう。
女は、その穴を指差している。柱の中心にぽっかりと開けている、黒々とした、その穴を。
「虫のことで、何かお困りでしたら、またお知らせくださいな。こちらの虫でしたら、わたくしが引き取ってもよろしくてよ。もちろん、お金などいただきません」
女はそう言うと、僕のことをじっと見つめながらも、にこやかに笑いながら去って行った。




