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古木守抄  作者: 速水涙子


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清風故人(三/三)

「そりゃあ、天狗笑い、だな」


 ざわざわと、さわがしい居酒屋の店内。男ふたり、カウンター席に並んで酒を飲んでいた。


「天狗笑い?」


 大して酔ってもいないのに顔が熱を持っているのを自覚しながら、俺はひとまずそう問い返す。


 ひと段落ついた頃、飲まないかと誘ってきたのは珍しく片桐の方だった。その席で事件のあらましを話したところ、片桐から返ってきたのがそんな答えだ。


 俺より飲んでいるはずなのに、片桐は涼しげな顔でこう続ける。


「人のいない山中で、どこからともなく笑い声が聞こえることがある。それを天狗笑いと呼ぶんだよ」


 俺は思わず黙り込んでしまった。


 あのとき笑い声がしたのは、人のいない山中――ではなかった気がするが。それでもやはり、天狗笑いと呼ぶのだろうか。とはいえ、あの場面であんな楽しげな笑い声が聞こえてきたことは、よく考えるとけっこう不気味だし、それについては、天狗のせいにでもしてしまった方がいいのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、こちらの沈黙をどう思ったものか、片桐は苦笑を浮かべながらこう言った。


「まあ、音や光ってのは、案外遠くに届くもんだからな。思わぬ形で返ってきたりもする。今でも、怪火や怪音といわれる現象が報告されることはあるが、原因を探ってみれば、そんなもんだよ」


 現実的に考えれば、そうなのだろう。あのときの笑い声だって、近くで行われていた宴会か何かの音が、風にでも運ばれて来たに違いない。思いがけずあの場が静かになったから、笑い声だけが場違いに響き渡ってしまった、というだけのことで。


 それにしても――


「天狗倒しだの、天狗礫だの、天狗火だの……何でもかんでも天狗のせいなんですね」


「そうだな」


 と返した片桐の顔は、いつもの無愛想とは違って、少しばかりおもしろがっている風だった。それでも肩をすくめながら、片桐はこう続ける。


「いちいち調べてられんだろうから、天狗のせいにでもしてしまった方が、都合がよかったんだろう。まあ、そういうもんだ。ただ――」


 片桐はそこでなぜか、俺に意味深な目を向けた。


「そうやって責めを負わされる存在ってのは天狗に限らない。他にもいろいろあるんだが――狸だの狐だのってな。あの辺りに、天狗はいないと思ってたんだがな。どこからやって来たんだか……」


 あの辺り、というのは、例の工事現場のことを言っているのだろう。天狗がいないなら、それらは狸や狐が化かしたことにでもなるのだろうか。しかし、片桐はそれでも、あれらのできごとは天狗のせいだと確信しているような口振りだった。


 なぜだろう。とはいえ、天狗倒しだのについてはともかく、笑い声が起こったのは俺の会社の近くだし、そう考えると、やはりあの村は関係ないような気もする。


 だとすれば――





 実家の近くにはわりと大きな寺があって、その境内には地元でも有名な杉の木がある。


 高さは遥か見上げるほどで、幹の太さは大人が五人がかりでやっと囲えるかどうか、といったところ。樹齢は千年に届くだろうという話だが、本当のところはよくわからない。


 この木には、天狗が休みに来るという言い伝えがある。


 杉の木がある辺りは広場になっていて、地元の人たちにとっての憩いの場だ――というと聞こえはいいが、今となっては、要するに老人のたまり場だった。


 俺が幼い頃にはまだ子どもたちの姿もあって、鬼ごっこやら隠れんぼやらでよく遊んでいたものだが。昨今の子どもは外で遊ぶことはないのだろうか――などと、現状を前にして少しだけ切なくもなる。


 俺が杉の木に近づいて行くと、傍にあるベンチに腰かけていた老人が目ざとく気づいて振り向いた。どこそこの家の坊主じゃないか、とすぐに身元がバレる。これだから田舎は恐ろしい。


 何だ何だ、何しに帰って来た、と老人たちが口々にさわぎ出すので、俺が冷たくあしらうと、そのうちのひとりがこんなことを言い出した。


「大きな仕事任されたからって、天狗になっとるんじゃないかね」


 ――何でそんなことまで知ってるんだよ。この、じじばばどもめ。


 心の中で悪態をついてから、あらためて杉の木の方へと目を向ける。老人たちは、そりゃあどういうことだい、なんて言って、俺の話で勝手に盛り上がり始めていた。


 苔むした根元からでは、遥か向こうにある樹冠は見えない。しかし、真っ直ぐに伸びた幹の先に広がっている、輝く木もれ日の天蓋に目を向けていると、周囲のざわめきなど何も気にならなくなる。


「この木には、天狗が休みに来るんだっけ?」


 誰にともなくそうたずねると、ひととおり俺の現状を共有したらしい老人たちは、何がおかしいのか声を上げて笑い始めた。今どき真面目な顔で天狗の話を持ち出したことが、よほど奇異に思われたらしい。


「そうだなあ。おまえも小さい頃は、よく遊んでもらっていただろう」


 という誰かのひとことには、多分にからかいの要素が含まれている。しかし、俺にとってその言葉は、思いがけずなつかしさを思い出させるものだった。


 ここが遊び場だった頃、知らない子どもがいつの間にかまじっていたことを話すと、それはきっと天狗のしわざだ、なんて返されたものだ。


 もちろん、本気で言っていたわけではないだろうけれども。おかしなことが起これば、すべて天狗のせいになる、というだけのことだ。


 そのとき、ふと上空から何かが落ちて来た。真っ直ぐに俺を目がけて飛んでくるものだから、危ないと思い身をすくめたところ、それは見事に俺の頭へと的中する。いて、と呟いた拍子に差し伸べた手のひらのうちに、跳ね返ったそれはきれいに収まった。


 落ちてきたのは、探していた腕時計だ。どうしてこれが、こんなところに。


 これはもしかして、天狗の落としもの、だろうか。


 天狗のせいなら、仕方ないか――そんなことを考えて、俺は思わず苦笑する。


 ふいに吹いた秋風が、杉の木を笑うようにざわめかせていた。

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