清風故人(二/三)
落石の件からしばらく経った、ある日のこと。
その日は仕事の終わりが遅くなり、辺りはすっかり暗くなっていた。
特に寒い日だったこともあり、誰もいないプレハブ小屋に入った俺が、真っ先に向かったのは石油ストーブの前。ふと何かの異臭を感じたが、給油したばかりなのだろうと深くは考えず、そそくさとストーブに手を伸ばした、ちょうどそのとき。
目の前の空中に、ふいに火が灯った。
ぎょっとして手を引っ込めたが、視線の先には変わらず火の玉が浮いている。俺はぽかんとした間抜けな顔で、しばらくその火を見つめてしまった。
そうしているうちにも、揺らめく火はゆっくりと移動していき、ストーブの近くを照らしていく。それを目で追っていると、死角になっていたところに、灯油で汚れたボロ布が落ちていることに気づいた。
――危ないな。火事になったらどうするんだ。
無意識のうちに、俺はそのボロ布を取り除いていた。その瞬間、そこに浮いていた火の玉は忽然とかき消える。
得体の知れない現象を前にして、長居する気をなくした俺は、ストーブの周辺を片づけてから、その日は早々に帰ることにした。
次の日のこと。昨夜のできごとを片桐に話した俺は、答えがわかっているというのに、それでもこうたずねていた。
「今度は何ですかね」
「それは天狗火だな」
案の定、返ってきたのはそんな答えだ。
「天狗が火をつけるんですか」
「まあ、そうだな」
俺が納得していないことがわかったのか、片桐は苦笑を浮かべながらも、こう続ける。
「天狗火は、いわゆる怪火のひとつだな。不吉な言い伝えもあるが、山の中でこれに会ったおかげで暖をとることができた、なんて話もある。あまり悪いように考えるなよ」
片桐はそう言うが、能天気な俺も、そろそろこの状況には不安を感じ始めていた。
この日の朝には同僚にまで、大丈夫か、と声をかけられている。俺が気づいていないだけで、実のところ、何かもっとまずいことが進行しているのでは――そんなことを考えてしまっていた。
それもこれも、何もかも天狗のせいだ。半ばやけくそのように、そんなことを思いもするのだが、そもそも天狗のせいにすること自体、現代の感覚ではないだろう。
天狗だ、などと言い出したのは、誰だったか――片桐だ。そう考えると、村人たちがこの男に託した仕事の内容が、急に気になり始めた。
許可なく木を切ってはいけないのは、なぜだろう。切ると祟られるような木が、この辺りにはあるのではないだろうか。別に俺個人が切ったわけではないから、俺の周囲にだけ奇妙なことが起こることについての理由にはならないかもしれないが――祟りなんて、そもそもが理不尽なものだろう。
とはいえ、祟りだって、天狗と同じくらい現実的なことではないのだけれど。
あるいは、村人のしわざではないだろうか。やはり、この工事には不満があったとか。
とはいえ、この辺りの住人とは何度か話をしているし、いい人たちばかりで、新しい施設にも期待のほどがうかがえた。あれらがすべて演技だったとでもいうのだろうか。だとすれば、俺にはもう何も信じられない。
もしくは、全員ではなくとも、村人の一部に、工事をよく思っていない人がいるか。他の人たちが歓迎している手前、そういう人がいても、表立っては反対しづらいだろう。だからこそ、怪奇現象を装うなんて陰湿な行為に走ったのかもしれない。
……考えすぎだろうか。もういっそのこと、子どものいたずらだった、ということにでもなれば、気持ちとしては楽になれるのだが。とにかく、おかしなことが起こらないよう、よりいっそう注意しなければ――
そんな俺の心配をよそに、その後の工事は何ごともなく、施設は無事に完成した。
帰って来たオフィスには、誰の姿もなかった。
この日の夜には打ち上げの飲み会が行われる予定だったので、他の社員は早めに切り上げてしまったらしい。とはいえ、本来であれば、出先で仕事を終えるつもりだったので、今頃は俺も予約した店で先に待っているはずだったのだが。
ここに戻ってきた理由は、思いがけないトラブルが起きたから――といっても、大したことではない。腕時計をなくしてしまった、というだけのことだった。
人に知られれば、そんなもの明日になってから探せばいいじゃないか、と言われるようなことかもしれない。しかし、その腕時計は就職が決まったときに家族から贈られたもので――とにかく、それなりに思い入れのあるものだった。
紛失に気づいたのは、今日の仕事をすべて終えたとき。それ以後、その日の行動を追いながら、周辺をくまなく探していた。そうして、最後にたどり着いたのがこの場所だ。
そんなわけで、今の俺は冷たい床に這いつくばりながら、腕時計を探し回っていた。あまりにも見つからないものだから、無意識のうちにこんな言葉まで出てしまう。
「おいおい。今度は天狗の神隠しってか?」
すっかり毒されてしまったようだ。
とはいえ、腕時計がなくなったことについては、少しだけ奇妙だとも思っていた。いつも腕につけているはず腕時計が、忽然と消えてしまったからだ。そんなこと、どう考えても普通ではない――とは思うのだけれど、現実的に考えれば、やはりうっかり落としてしまっただけのことだろう。
自分への苛立ちをごまかすように、そんなことを考えていた、そのとき。ふいに携帯端末の着信音が鳴った。
同僚からの電話だ。
出てみると、大丈夫か、という慌てたような声が聞こえてくる。何かと思えば、打ち上げを行う予定の店で異臭さわぎが起こっているらしい。先に店に行く、と言っていた俺の姿が見えないので、心配して電話をかけてくれたようだ。
通話を切った後、俺はしばらく呆然としていた。この感覚。何だか、以前にも覚えがあるような――
「おい、おまえ。なんで店にいないんだよ」
そんな呼びかけに振り向くと、そこには男がひとり立っていた。
……誰だっけ。
いや、確か同じ会社の人間だ。しかし、会社の中では新参者の方で、別のチームに所属していたから、俺はそいつのことをよく知らなかった。
その男は強い口調でこう続ける。
「おれがやったこと、全部ダメにしやがって。金具の細工も、落石の仕掛けも。何で気づいたんだよ。おまえなんて、死んでしまえばよかったのに!」
突然何を言い出すのか。そう思うと同時に、今までもやもやしていたことが、一気に形になった気がした。
俺は思わず、こう返す。
「待て。もしかして……あれは、おまえがやったことなのか? なんだって、そんなこと」
「おまえが、おれの企画を盗んだからだ!」
思いがけない答えに、俺の思考は思わず止まってしまう。
「……はあ?」
身に覚えがない。言いがかりだ。そんな主張が思い浮かんでからようやく、俺の頭は正常に動き始めた。
「待て待て。何の話だよ。企画を盗んだって――俺があの企画まとめるのに、どれだけ苦労したと思ってんだ!」
俺はそう言い返したのだが、そんなことを言い出す相手が、そうした事実を聞き入れるはずもない。
「それだけじゃないからな! 誰もおれの話を聞きやしないし。どうせおまえが手を回してるんだろう。おれが評価されないのも、おまえが周りにおれの悪口を言いふらしているからだ!」
いつだったか同僚から、大丈夫か、と声をかけられたことを思い出した。あれはもしかして、こいつが俺についてあることないこと話していたせいで、心配していたんじゃないだろうか。こいつが主張するところからしても、俺に対して理不尽な恨みを向けていただろうことは間違いない。
奇妙なことが起こるたびに、不安になっていたときのことを思い出す。こいつの身勝手のせいで、どうして俺がそんな思いをしなければならないのか。その理不尽に、俺は心底怒りを覚えた。
「ふざけるな! 何でもかんでも俺のせいにするんじゃねえ!」
とはいえ、相手がそんな言葉で怯むはずもなく、それどころか、そいつはどこからともなくナイフを取り出したかと思うと、その切っ先を俺の方へと向けた。
――こいつ、やばい。
そう思った俺は、すぐさまその場を逃げ出した。待て、なんて言われたけれども、待つはずがない。ナイフを持った男をまともに相手するほど、俺は馬鹿ではないつもりだった。
相手が陣取っているところを避けて、俺は一直線に非常階段の方へと向かう。オフィスはビルの五階だ。普段は使ったことがないので、出られるだろうかと心配したが、階段への扉は難なく開いた。しかし――
急いでかけ下りたところ、その先の格子戸には鍵が閉まっていた。非常階段の意味がないじゃないか、と俺は思わず憤ったが、そんなことより、今はナイフを持ったあいつから逃れる方が先だろう。
俺は手すりを乗り越えて、そこから飛び降りることにした。
面している道には人通りがある。孤立して追い詰められるよりかは、怪我を負ってでも人のいるところに逃れた方がいい。そう判断したからだ。
思い切って飛び降りたところ、幸いなことに、うまく着地することができた。運動神経には自信がある。これなら、どうにかこの場からは逃げ切ることはできるだろう。
追ってきた相手はすんでのところで間に合わず、俺の行動に戸惑っているようだった。
そうして一旦立ち止まれば、相手の頭も冷えるに違いない。と思ったのだが、そいつは俺と同じように飛び降りようとでも考えたのか、手すりの上にもたもたと足をかけ始めた。
その執念は何なんだ。ぞっとしつつも、次にどうするべきか、俺が必死に考えを巡らせていた、そのとき。
ふいに大きな風が吹いた。
ビル風だろうか。そのときちょうど、手すりの上に乗っていたそいつは、強風にあおられたのかバランスを崩して――
そのまま道路にぐしゃりと落ちた。
地面に倒れ伏した男は動かない。それどころか、腕があらぬ方向に曲がっている。持っていたナイフは、いったいどういうわけか、今は真っ赤な血で濡れていた。
俺は思わず息を飲んだ。通りすがりの人も野次馬らしき人も、さすがに動きを止めている。周囲の人たちのざわめきも遠くなり、目の前で起こったできごとに誰もが言葉を失った、その瞬間。
辺りにどっと大勢の楽しげな笑い声が轟いた。
あまりにも場違いな反応に、俺は思わずぎょっとしてしまう。笑い声の出どころを探して辺りを見回すけれども、誰も彼もその声に戸惑う人ばかりで、笑っている者などひとりもいない。
そのうち笑い声も止むと、俺も含めた周囲の人々は、すぐさま正気を取り戻したらしい。男の死体を取り囲んで、救急だ何だと慌ただしく動き始めた。




