悲しい恋の話だけど、また別角度からのもので。何回か読んだらまた面白いかもしれないね(みかん)
人間は皆、失恋したときには断捨離をするだろ。
例えば相手からのプレゼントとか、共同生活するうえで使うであろう生活必需品とか。
……しない?知らない。
んで、もちろん私も人間だからその例に漏れずに断捨離する。
対の箸、対の皿、対のコップに不揃いの茶碗。
お揃いの乳液に、お揃いの櫛。
そういうもの全部をゴミ袋に流し込む。
いや、別に習慣として捨てているわけじゃないよ。何も考えずに只々捨てるなんて勿体ないし。
一つ一つ捨てるたび、そこにあったストーリーを思い出してるよ。
私は思い出を捨ててるんだ、って。
例えば?
……この皿はニトリで買った皿だなぁ。とか、この乳液は無印で買ったんだっけとか。
薄い?うるさい。
あとは、そうだな。
ここで「終わり」って区切りをつけたいだろ。だから捨てる。
今気付いたけど、私は区切りをつけるのが好きなのかもしれないな。
アラームとか絶対にスヌーズにしないし、作業するときも先に範囲を決めちゃうし。
さて、そんな何にでも区切りを付けてしまおうとする私。
とある失恋に関しては何一つとして捨てることが出来なかったんだ。
いや?捨てるのが勿体なくなったとか、そういう訳じゃない。
この恋心を区切りたくなかったんだ。
端的に「忘れたくなかった」んだよ。
形だけでも良い。そこに残っている思い出から離れたくない。惨めで無様でも、私はそこにしがみついていたい。例え相手が忘れようが私だけはこの恋心を忘れない、なんていう風にね。
ただ、最近捨てる決心がついたんだ。
さて、そろそろこの雑談にも区切りを付けようか。
なんでって、まだ話してなかったっけ。あと一時間もするとこの病院のシンボル、桜の木が伐採されるんだ。
花が咲かなくなったんだ。きっと根が腐ってしまったんだろうね。
業者が言うには「まだ間に合う」らしいけど、花なんていつかは朽ちて枯れる。それなら、未練がましくしがみつくよりも直に植え替えてしまえばいいだろ?
……まぁまぁ気に入ってたんだけどね。
―――
ベンチにどっぷりと座り込み、本日四本目の煙草に火を点ける。
煙を吸うと毎度思う。私はこの一本のために生きているのではないのだろうか。
肺にずっしりとくる安心感、口の中が粘つく何とも言えない歯触り。煙を吐いた時には自分に課した重りを外したかのような謎の全能感。
これが、
「生きてるってことか……」
「いや、死に向かってるけど!?」
真後ろから怒鳴られた。
誰だ、私の至福の時間を奪う不届き物は。私が今までに培ってきた心理学の知識を悪用して精神攻撃してやろうか。
ベンチの背もたれに思い切りもたれかかり後ろを見ると、そこには見慣れた顔があった。
按井 遊。外見だけなら十代にも見えるようなこの女は私が勤めている病院の院長の娘。で、私の同輩。
「煙草はやめなっていつも言ってるのに何で吸っちゃうの?」
「え、生きてるから」
「いや、息を吸う理由を聞いてるわけじゃないよ!」
「ちゃんと煙草の話だよ。生きてるから吸ってる」
「生命維持の一環!?」
遊は会うたびに禁煙を進めてくる。何も診察中に吸ってるわけでも遊の前で吸っているわけでもないんだから、これくらいのストレス発散は許してほしい。
「で、なんか用」
携帯灰皿で煙草の火を消しながら、とりあえず話を促して煙草から話題を逸らす。
「あぁ、すっかり忘れてた!」
「呼び出しておいて忘れるなよ」
「ごめんって!で、今日呼んだ理由は他でもありません!」
これでもかと無い胸を張り自慢げに話し始める。
「植樹式の会場を決めさせていただくことになりました!」
「?」
「というのもこの病院来月で開業20周年なんですよ」
「知ってる」
「で、それに際して木を植えることになりまして。んでそのイベントを私たちの方で取り仕切っていいことになりました!」
なるほど話の内容は理解した。
でも、
「私たち」
「そう!私たちが決めていいんだって!」
「一応聞いておくけど、私たちって誰の事を指してるの」
「え?按井遊と、心絵 志摩だよ?」
ちゃんと私の名前が入ってた。聞き間違えじゃなかったらちゃんと心絵志摩って言ってた。
うわぁ、面倒くさい。なんてったってこの病院の一大イベントの片棒を担いでほしいって言われてるってことでしょ。
という事は?
そう、煙草を吸える時間がめちゃくちゃに減ってしまうという事。そんな苦行が私に耐えられるわけがない。今でさえもう五本目を取り出して吸ってしまいたい衝動に駆られているのに。
「他を当たるってことは―――」
「え、嫌だ?」
やめてくれ、そんな潤んだ瞳で私の事を見ないでくれ。その技は私に効く。
高校の頃から私にお願い事をするときには小動物のような顔をする。そうすれば私が断れないとでも思っているのだろうが、いやはや全くその通り。
因みに理解しているかは定かではない。
「……わかったよ」
「ほんと!?ありがとう!」
その申し込みを許諾すると、遊は満面の笑みを浮かべる。オーバーリアクションの生物って、どうしてこうも可愛らしく見えてしまうのだろうか。
これから数か月間は煙草を吸うことが出来る機会がほとんどなくなってしまうだろうが、まぁそれはこの目の前の笑顔でチャラってことにしよう。
―――
「何の木を植えようか」
手元のチョコを食べながら遊に質問をする。
うん、人の家においてあるチョコを勝手に食べるのはよりうまい。
「んぅ……もうそんなタイミングかぁ」
場所は決まった。業者に頼んで段取りも決まった。あとは植える木を決めるだけ。
なのだが、遊はなかなか決めようとせずに神妙な面持ちで考え込む。
正直そこまで考え込むようなところではないような気もするのだが、まぁ遊からしたら自分が生まれ育ってきた特別な病院なので思い入れもあるのだろうか。
私はただそこに務めているだけ。思い入れなんて一つもない。
煙草を吸う金がもらえれば、まぁ。
「あの、さ」
「ん、何」
「しーちゃんは好きな木ってある?」
「無い」
自分でもそっけないのはわかっているが、そういう以外にないのだから仕方がない。
この答え方をすると大概が『強いて言うなら?』なんて返しをしてくるが、私からしたらどれもこれもただの木で何ら思い入れは無い。
花が咲く木がある。長寿な木がある。低木がある。わかるが、ただの種類。
「そっかぁ、じゃあ、えーと」
「何をそんなに迷ってるの」
「いや~、ね?」
「いや、熟年夫婦じゃないんだからそれじゃ分からんよ」
「えへへ……」
なぜだか植える木に関する話題の時だけは歯切れが悪い。
そんなに植物に興味があったような話をしたこともないし、何にこだわっているのだろうか。
「ま、じっくり考えなよ。木以外はスムーズに決まりすぎて時間は有り余ってるんだし、いつまででも付き合うよ」
「うん」
……しまった。チョコが尽きた。
何時まででも付き合うなんて言った手前、今席を外すわけにはいかない。だが我慢ならない。
この口さみしさを収めるためには何か食べ物が必要だ。コンビニに買いに行かなくては。
「ねぇ」
「ん」
「こんなに付き合ってもらってごめんね」
「ごめんねじゃなくてありがとうの方がいいよ」
「ありがと」
えへへ、とはにかむ。
うわー。席外せないって。これで席を外すのは流石に鬼畜の所業過ぎるって。
ありがとうの方がいいとか言っちゃったし。まぁ心理学者として、セラピストとしての血が騒いだことに一片の悔いなし。
何にしろ早く口を、口を収めなくては。
「……煙草吸いたいの?」
「んー」
「別に吸ってもいいよ」
「はぇ?」
不意の一言。
まさか遊からその一言が飛び出すとは思わなかった。
遊が煙草を止めてくる理由として寿命を縮めてまで嗜好品を嗜む必要はないという考えがあるのは周知の事実ではある。
ただ根本はまた別の場所にある。
詳しい話こそ聞いたことがないものの煙草自体にいい思い出が無いらしく、噂ではセクハラ関連なんて言われている。
それを聞いてから煙草をやめようともしているのだが、私自身も精神安定剤の代わりに使っているせいでもう止められない。
「煙草嫌いじゃなかったっけ」
「嫌いだけど……まぁしーちゃんが困るくらいなら」
「はぁ」
「いいよ、吸っても」
……。
「ん、わかった」
そう言って私は布団に潜る。
「え?」
「ん」
「吸わないの?」
「吸わないよ。まぁ寝ればどうにかなるでしょ」
「そんな状態じゃ寝れないでしょ?」
そんな状態?と思い自分の事を姿見で俯瞰する。
体が震えている。なんだそれだけかと思いつつも一応自分の顔まで確認する。
そこに映った私は泣いていた。
まだ私は煙草のない生活に耐えられなかったらしい。
泣いていることを確認すると同時に古傷が痛み、嫌な記憶も蘇る。
「うわ、恥ずかし」
「?」
「いや、こっちの話。まぁ気にすることでもないし、放っとけばそのうち泣き止むで―――」
遊が後ろから抱き着いてくる。
「え、どうしたの」
「……」
「えぇ……」
私の足に足を絡めてくる。こうなるともう身動ぎ一つできない。
が、なんだか落ち着いてくる。生物同士ハグするとストレス値が下がっていくなんて言うが、抱きしめられるだけでもストレスっていうのは消え去るものなんだな。
「ありがと」
「……」
「……」
「……好き」
……?
「え」
「あ」
???
「言っちゃった!!!」
え、あ?
好き、って言ったのか。なるほど。は?
「今」
「忘れて!いや、やっぱり忘れないで!」
どっちだよ。
「あうぅ……ほんとは植樹式の時に言うつもりだったのに、やっちゃった……」
「ぇ」
声にならない声が出る。
え、遊が、私のこと好きってこと?
いや、確かにかなり親しいし。likeの方かもしれないし。
いやその線はなさそう!
顔見たら耳まで真っ赤だし、ずっとあうあう言ってるし、何より忘れてとか忘れないでとか言ってるし!
likeじゃなくてloveっぽい!
待て、いったん冷静に。
もしそうだったとして、私の方は遊のことが好きなのだろうか。
笑った顔は癒し。
抱き着かれて嫌な感じはしない。むしろ嬉しい。
仕草は見ていて飽きない。
最後の問。遊のために煙草を辞められる?
YES ◀
NO
あ、私も遊の事が好きだ。
「遊」
「……なに?」
「私」
「まって!心の準備が!」
「私も好き。付き合おう」
双方表情と動きが固まる。
脳はキャパオーバー、ロード時間が挟まる。
ただ、さすが人間。すぐに思考は戻ってきて、
「―――っ!」
声にならない声と同時に次は正面から抱き着いてくる。
いや、抱きしめてるのか?それとも鯖折りをかけられてるのか?
それくらいの力で抱きしめてくる。
「あの、苦し」
「ずっと心配だったんだよ!私だけのじゃないかなって、私じゃない人だけかなって!」
「ちょ」
「私の気の迷いかとも思ったよ!でも、今日で分かった!本当に好きだったんだって、好きでよかったんだって!」
しゃくりあげながら言葉も絶え絶えに、今までの思いを話している。
服越しに温かい液体が染みてくる。
まぁ、今日はこのままで。
―――
「本日は開業20周年、植樹式にご参加いただき誠にありがとうございます」
段の下から遊の話す姿を眺める。
マイクを持つ左手にはそこらへんのアクセサリー屋で買うことが出来そうな見るからに安い指輪がついている。
あの夜の次の日、起き抜け一番に買いに行ったので手持ちがなさ過ぎていいものを買ってあげられなかった。
遊が言うには、
【しーちゃんの気持ちが変わらないうちに買っとかないと!】
らしい。
まぁ私の事をよく知っているというか、断片的というか。
もちろん私は飽き性で気分屋ではあるが、こと恋愛においては私の方から冷めることは無い。
まぁそれについてはこれからおいおい知ってもらえればいいか。
「はぁ、緊張したぁ」
「お疲れ」
壇上から降りた遊を迎え、そのまま植樹の瞬間を待つ。
本来この瞬間にある程度成長している木を植えるのだが、今回は見栄え重視という事でまず院長に苗木を植えてもらう。そしてその後にその苗木を植えたところに樹木を植えることになった。
まぁこんな一世一代の大事なら、多少のパフォーマンスも必要だろう。
「ねぇ」
「ん」
今まさに苗木を植えようというこの瞬間、遊が耳元で話しかけてくる。
「ずっと前から好きでした。付き合ってください」
「はぁ。……え?」
あれ、もしかしてあの夜は夢かなんかでまだ付き合っていなかったのだろうか。
若しくは付き合う前から指輪を買いあうような重重フレンズだったってことなのか。
「えへへ、ほんとはこのタイミングで言いたかったんだよね~」
「あぁ」
なるほど。
そういえば植樹式の時に言うつもりだったとかなんとか言っていたような気もする。
なかなか気が長いな。
今日言うつもりだったのであれば、大体4か月ぐらいは気持ちを秘めておくつもりだったということになる。
いや、そもそも何時から好きでいてくれたのだろうか。聞いたことがないような気がする。
「遊は私の事いつから好きだったの」
「ふぇ?」
「ちょっと気になって」
「え、っと……ひみつ!」
秘密らしい。
いや、秘密にされればされるほど気になるんだが。今私の心の中では良くない方にカリギュラ効果が働いている。
「じゃあ植樹式に誘う前か後かだけでも」
「え~?」
「そんなに嫌ならまぁ、良いけど」
すまない心理学。
今お前の事を自己の欲望を満たすためだけに活用しています。
「まぁ、う~ん……」
揺れてる揺れてる。
まぁここまで引っ張ってみたものの大体答えはわかっているが、やはり本人の口から聞くに越したことは無い。
「前から?」
「そうなんだ」
「んも~!興味ないんじゃん!」
「いや、滅茶苦茶あるよ」
びっ―――くりしたぁ!
全然後からの方だと思ってた!
口元を隠すことでポーカーフェイスを貫いてはいるものの、隠された口元ではにやにやが止まらない。
前からっていつからだ?
高校?大学?大学院?それとも働き始めてから?
「本当に興味あるの?」
「うん、まぁ」
「あれ?なんか笑ってる?」
バレた。
いや別にバレて困ることではないのだが。
「笑ってるっていうか……にやついているというか?」
「そんなことないよ」
「もしかして嬉しいの?」
「いや、まぁ、ねぇ」
嬉しくないわけがない。
さっきは確かに驚いたが、それと同時にそんなに一途に思いを寄せてくれていたという謎の優越感というか。
私自身、高校の頃から遊の事は格別として扱っていた節があったから、自分だけじゃなかったんだという嬉しさというか。
とかなんとか考えていると、なんだかねっとりした視線がこちらに向けられているような気が。
「何その目」
「いやぁ?なんでもぉ?」
「その顔でなんでもないことないだろ」
「いやいやいや」
半笑いで否定してくる。マウントを取ったような顔を見ると優位を取られたように感じる。
これだからバレたくなかった。
ちょっと恥ずかしいんだもん。
―――
起きると同時に時計を確認する。
三時二十九分。あと一分で目覚ましが鳴ろうという時間で起きてしまった。寝汚い私はたったの一分であろうがどうも睡眠時間を無駄にしたような気がしてならないし、どうも区切りとして気持ち悪いような気もする。
いっそこのまま二度寝をかましてしまおうと布団をかぶり直すが、こんな早い時間にアラームをセットした寝る前の自分の意思を尊重し隣に丸まっている遊を叩き起こす。
「起きろ」
「うゅ~……」
起こそうとした自分の声の低さに驚くと同時に遊の発した呻き声に口角が上がってしまう。
いや、漫画以外で『うゅ~』とか言う事ってあるんだ。
じゃなくて。
「起きろって」
「あと二時間……」
「ちょっと現実的な数字を言うのをやめろ。っていうか起きなくて困るのはお前だろ」
そう、今日は遊が早番の日。
私は老婆心で起きているだけであって、何か私自身用事がこれからあるわけではない。朝食の用意をして遊を見送ったらそこで私の朝のミッションは終了で、そこからは先に考えていた通り惰眠をむさぼらせてもらおうと思う。
「……あ!早番だぁ!」
やっと意識が覚醒したのか毛布を思い切り蹴り飛ばしながら起き上がり、そのままの調子で洗面台へと向かう。
目玉焼きを焼いている間もずっとがちゃがちゃと落ち着きのない音が鳴り響いているので、最近買ったばかりのお揃いの保湿液が入ったガラス瓶を割ってしまわないかが心配。
まぁそんな考えは杞憂だったようでさっと身支度を済ませた遊に朝ごはんをふるまう。
私はまだ何かを腹に入れたい気分ではないので対面で食べている様子を眺める。
「うまい!ありがと!」
本当にうまそうに食べるなぁ。
食パン、ハム付き目玉焼き、サラダという一般朝食三点セットなのに、遊が食べているとなぜか高級ホテルで出てくる質のいいブレックファーストに見えてくる。
ぎゅー。
「んぉ!しーちゃんもお腹すいてきたのかな?これ食べる?」
「私の空腹を口実に嫌いな食べ物を避けようとするな。というかコーンを数粒食べたところで空腹は収まらない」
私をナマケモノか何かだと思っているのだろうか。いや、確かに怠け者ではあるが。
というか同居を初めて一年ちょっと。遊の事なら大概の事を知っているつもりだったのだが、食の好みや家具の配置に対するこだわりなど知らないことが雨のように出てくる。
雨のようにとは言ったものの、果たして私たちが死ぬまでに相手の事を全て知り切ることはできるのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに遊は食事を終え、食器を流しに持っていく。
「んじゃ、行ってきます!」
「うぃ~」
玄関先で足早に職場に向かう遊を見送り、空いた腹を満たすためにコーヒーを注ぐ。
コーヒーは良い。
空腹をなんとなくではあるが満たしてくれる。それに何より頭が冴えわたる。
飲みながら椅子に座る。その瞬間、
ドンッ。
外から大きな音が鳴る。
何だろうか。ただ事ではないことが起きたのは明確で、なぜか嫌な予感がよぎる。
見に行けという私と、どうせ杞憂だという二人の自分が頭の中で議論の準備を始める。ただ、議論する時間もなく私は玄関のドアノブへ手をかけて外へ出た。
意味もなく躍動する心臓を抑え込み、きっと近場の電柱にでもぶつかった車があるだけだろうと自分に言い聞かせ、見下ろす。
そこには遊の姿があった。
近くには大破と言って差し支えないほどに見るも無残な白の乗用車。
寝ぼけ眼をこすり目を凝らすと、遊の姿が鮮明に見える。
胎児のような姿で力なく横たわっていて、目も口も半開きになっている。
「……夢か」
夢だ。そうだ夢か。
まだ寝てしまっているらしい。ならもう一眠りしてしまおう。
家の中へ戻ろうとするが、コーヒーの臭いで思考が冴える。冴えわたってしまう。
そう。
夢ではない。
―――
ここはどこだろう。彼らは誰だろう。何があったのだろう。
呆然自失。
そんな自分をよそに目の前の男らが馬鹿のように雑魚のように口をぱくぱくと動かしている。いや、どうやら餌を待っているわけではなく私に対して話しかけているらしい。ただその言葉は私の脳に届いていない。
靄のかかった脳が理解を始めるまでには時間がかかった。
ここが勤めている病院であること、目の前の男は警官であること、自分がいわゆる事情聴取というものを受けていること。
私は事故に遭った被害者の応急処置をした女性という、まぁ所謂第一発見者のような形で様々なことを聞かれていたらしい。
「らしい」というのも人間の脳というのは案外出来がいいようで質問の大部分に条件反射のような形で答えており、私自身何についての話をしていたのかすら疑問ではあるのだが、そこに関しては適当にはぐらかされた。という事は特に辻褄が合わない部分もなく整合性も取れていたのだろう。
「それでは以上になるのですが」
「あ、はい」
私が動こうとすると、なぜか周りに緊張が走る。
視線のすべてが私の一挙手一投足に向けられているせいで、自分が爆発物か割れ物か何かにでもなったような気がして正直ストレスを感じる。
というか、不自然である。
たかが一人の事情聴取になぜ四、五人の警官がついているのだろう。
「あの」
「何でしょうか」
「なんでそんなに私の事を」
「え?あぁ、いや」
男は答えようとせず、周りを見てもただ目を泳がせるだけだった。
そうだ、おかしい所はもっとある。
ここは病院の一室で、より正確な描写をするのであれば病室で、その病室のベッドには私が座っている。掌を見ると爪が食い込んでできたような傷、小指側は折れているのではないかとすら勘違いするほど腫れている。
まるで私が自分で怪我を作ったような。
?
!
……。
あぁ、おもいだしてきた。
あの日、早起きさせて、仕事に行かせて。
大きな音が鳴って、外に出て、下に降りて。
曲がった腕を、とりあえず固定して……頭から絶えず流れる液体を止めるため包帯を巻いて。
そんな簡素な行動では足りなくて。
そうだ、救急連絡をしてもらおうと考えた時には、あの運転席にいた人間は車を捨てて駅の方へと走っていたのだ。
思い出したそれは確かな記憶で、不確かであってほしい記憶だった。
思い返せば返すほどに腹の底には確かな重力を感じ、頭は上へと引っ張られていく。明確な現実と不要な妄想で体がちぎれそうになる。確実に今の私は冷静とははるかに遠い所に居るのだろうが、頭の中には絶えず冷ややかな液体が静かに流れ続ける。
この流れを止められればどれほど気楽なことか。
天井の一部を見ながら軽く吹き出してみる。
体から空気を抜けば幾分か軽くなるような気がしたが、その行動は周りの警戒をさらに高めるだけだったようで、体に圧し掛かっている重りが外れることは無かった。
「犯人は」
「はい」
「犯人は捕まったんですか」
「……」
その沈黙だけで十分だった。
瞬間、静かに流れていただけのそれは一層流れを早めて熱を帯びる。耳の奥が痛い。頭も痛い。
今まさに暴れようと右腕を振り上げたその瞬間、十分以上の酸素が行き渡った脳が最適解をはじき出す。
この脳で考えられる最大限。ただ、恐らく私の心もかなりつらいものになる。
それがどうした。
「刑事さん」
「はい?」
「全部思い出しました。その時の明確な状況も、犯人の特徴も」
―――
犯人が見つかってから丁度一週間。私が殻にこもっていた日数と合わせると十日が経った。
私の自傷行為による怪我は、警察や病院の人たちが上手く抑えていてくれたおかげかただの打撲で済んでいた。
事件の方は、まったく間がいいというべきか悪いというべきか、私が訥々と特徴を話したその日に自首してきたらしい。
まぁ、逮捕されたことを素直に喜ぶべきなのだろう。
あの事件以来、遊の姿を見ていない。
場所がわからないとかまだ私が空想の中にいるとかそういう訳ではなく、まだ遊の事をこの目で確認するという行動をすることに踏ん切りがつかないという理由で。
だから今こうやって目的地がわからないふりをして院内をほっつき歩いている。
遊は今どんな状況なのだろうか。もしかしたら今はまだ出歩けないだけで病室で元気に過ごしているかもしれないし、すでに出歩ける状態ではあれどこちら側から様子を見に来ることを望んでいるのかもしれない。そうであれば癪だし―――
いや、そうじゃない。
こんな事実を苦しいほど突きつけられているにもかかわらず、能天気に自分に都合のいいことだけを考えるほど私は馬鹿じゃない。
こうやって会いに行かない理由を考えているうちに、死んでしまったという知らせが入ってきてもおかしくないほどの人災に巻き込まれていた。
ならいなくなる前に会いに行くというのが、今後悔いの残らない選択ではないのだろうか。
もし会って元気であれば無問題。今まで通り私たちの日常らしい付き合いを。
現実が非情であれば、瀬戸際に生きている状態であるとするのならば。
そうであっても、私たちらしく隣に付き添おうじゃないか。添い遂げようじゃないか。
それが私の出した結論。
気づけばもう目的地。
案外あっさりとついてしまった。そのくらい行こうと思えばいつでも行ける場所に遊はいた。
病室の表札を改めて確認。そこにはしっかり按井と書いてある。
よし。
扉を開けようと扉に手を伸ばす。
不意に手を見ると、震えていた。それを確認すると同時に体中の汗腺が開き、滝のように汗を放出し始める。
自分の体に起きている現象であるはずなのに、止めようとしても止まらない。そもそも汗を止める方法なんて知らない。
止まらぬ汗に唖然とすると、次は胃が伸縮を繰り返すような感覚に襲われその場で吐いてしまいたくなる。
この感覚は知っている。
小学四年生の頃、放課後の教室で遊んでいた。
消しゴムをデコピンで弾き、相手の消しゴムに当てる。それをターン制で行い、相手の消しゴムを机というフィールドの外に追いやった方の勝ちというゲーム。
子供というのは負けず嫌いなうえに加減を知らず、私は特にそれが顕著だった。
強く弾けば自分の消しゴムが自ら場外へと飛び出し、弱く弾けば相手にあたることすらなかった。その積み重ねにだんだんと腹が立ち、ゲームの途中なんの計算も加減もせずに消しゴムを弾き飛ばしてしまった。
するとその消しゴムは場外へと飛んでいく。それはいつも通りだったが、強く弾きすぎたせいで消しゴムの飛んでいく勢いは止まらない。
その軌道が最悪のものだったことは、がしゃんという音がするまで気付くことが出来なかった。まぁ気付いたところでそれを止める術は無いのだけれど。
そうして花瓶を割ってしまった私はクラスに残っていた数人に注目された。この時、やってしまったという焦燥感よりも先に、皆が自分の事を恐怖する対象として見ているという恥ずかしさが来ていた。
ここから逃げてしまいたい。ただ、このまま逃げたところでこの「花瓶を割った」という現象そのものがなくなるわけでもなければ、目撃者の証言からいつか自分の犯した罪がばれてしまい、より重い罪がかぶさってくるのではというのはわかっていた。
だから、私は自首することを選択した。
教務室の前。
そこで先の現象に見舞われた。私がわざとあの花瓶を割ったと勘違いされるのではないかという焦燥と、わざとではないから仕方がないと自分を宥めているその姑息さに対する罪悪感。
私は吐いてしまった。
病室の前。
私が遊の事をどうでもいい存在だと考えているから会いに来なかったのだと勘違いされるのではないかという焦燥と、私だって心に多少の傷を負っていたと事故を正当化しようとすることに対する罪悪感。
私はドアの取っ手を掴んだ。
この二十年足らずの間に多少は成長していたらしい。
扉を開ける。
「……」
そこにはいつも通りの姿の遊が、という訳にはいかなかった。
等間隔でなり続ける機械音。それ以外の音は何も聞こえないはずなのに、耳の奥では絶えず無音が鳴り続けている。
ベッドのすぐ近くに置かれている椅子に座り、遊の表情を眺める。
ぴくりとも動かないそれを見ていると、焦りなのかいらつきなのか形容しがたい何かが心に積もり、組んでいる手に力が入る。そうでもしないと今すぐここから逃げ出してしまいそうで。
私には目を逸らしたこの時間を何かで埋めることはできない。
でも、それでも。
少なくともこれからは、傍に居続けることはできる。
―――
遊が目を覚ましたのは、私が向き合い始めてから二週間後の事だった。
その頃には私は仕事に復帰していて、目を覚ましたその瞬間に立ち会うことはできなかったが、その知らせを聞けただけで私の心は幾分か軽くなったような気がする。
「えーっと……誰でしたっけ?」
その声も、可愛らしく首を傾げるその動作も、軽くはにかみながら作るばつが悪いようなその表情も。
目から耳から入る情報すべてが目の前の人間が遊であると脳に呼び掛けている。
ただ、遊は私を忘れていた。
初めは頭を強く打ってしまった事による一時的な記憶喪失で、そのうち思い出してくれればいいと思っていた。
そうではなかった。
わかったのは目覚めてから二日後のこと。
窓から外を走る車を見た瞬間に、頭の怪我を抑えながら嗚咽を始めたらしい。
それを聞いてすぐ遊の病室へと向かうと、私の顔を見ると同時に私の手を握りしめる。
「しーちゃん」
何度もその言葉を繰り返しながら泣き続け、そのうち泣き疲れたのか眠りについた。
起きた後はいつも通りけろっとしていて、また私の事を忘れていた。
その一件の後、車が見えないところで、且つ病んでしまわないように遊の病床はあの木が見える窓の近くになった。
よくよく考えれば思いつくことで、遊は私と同じようにわざと記憶を奥底にしまったのだ。
自分を守るために記憶を捨てたのだ。
車に轢かれた記憶と私の記憶は繋がっているらしい。
今回は車と連動して私を思い出したが、逆だって起こりうるだろう。
それが意味することは全く簡単で。
彼女が私の事を二度と思い出さないことが、彼女にとって最良であること。
それなら私は彼女に二度と近づかないのが正解だと私は考えたが、彼女が発作を起こした時に止められるのが私しかいないというのもまたしかり。
私は彼女の担当医になった。
―――
「人間は皆、失恋したときには断捨離をするだろ。例えば相手からのプレゼントとか、共同生活するうえで使うであろう生活必需品とか」
「えぇ、そうかなぁ」
彼女は顎に手を当てながら考えるそぶりを見せる。
「しない?」
「うん」
「知らない」
ちょっと、という彼女をよそに話を続ける。
「んで、もちろん私も人間だからその例に漏れずに断捨離する」
「ふむ」
「対の箸、対の皿、対のコップに不揃いの茶碗。お揃いの乳液に、お揃いの櫛。そういうもの全部をゴミ袋に流し込む」
「え、何そのルーティン!?」
「いや、別に習慣として捨てているわけじゃないよ。何も考えずに只々捨てるなんて勿体ないし」
何を言っているのかわからないと言いたいような表情をこちらに向ける。
まぁ、確かに思いと行動が矛盾しているのは認めよう。ただ、こちらにも言い分がある。
「一つ一つ捨てるたび、そこにあったストーリーを思い出してるよ。私は思い出を捨ててるんだ、って」
「おぉ……それなら、まぁいい、のかな?」
わかったように目を見開いてみたり、わかっていないように目を細めて左下を見てみたり。
ころころと変わる表情が、なんだかおもしろい。
「んじゃあ、例えば?」
「例えば?」
「うん、例えば」
「……この皿はニトリで買った皿だなぁ。とか、この乳液は無印で買ったんだっけとか」
「え、思い出薄くない?」
「薄い?うるさい」
「なんかひどくない!?」
面白いからこうやってぞんざいに扱ってみたくなってしまう。
今まで好きな子にちょっかいを出しちゃうみたいな考えが全く理解できなかったけど、案外こういう感情なのかもしれないな。
「あとは、そうだな。ここで『終わり』って区切りをつけたいだろ。だから捨てる」
「おぉ、なるほどね?」
「今気付いたけど、私は区切りをつけるのが好きなのかもしれないな。アラームとか絶対にスヌーズにしないし、作業するときも先に範囲を決めちゃうし」
ふむふむ、と興味を持って聞いてくれる。
なんとなくで話しているだけだから、そんなに前のめりで聞かれるとなんだか恥ずかしいな。
「さて、そんな何にでも区切りを付けてしまおうとする私」
ここからが本当に話したいこと。
「とある失恋に関しては何一つとして捨てることが出来なかったんだ」
「ふむ……勿体なくなっちゃった?」
「いや?捨てるのが勿体なくなったとか、そういう訳じゃない」
「じゃあどうして?」
いい合いの手。
「この恋心を区切りたくなかったんだ。端的に「忘れたくなかった」んだよ。形だけでも良い。そこに残っている思い出から離れたくない。惨めで無様でも、私はそこにしがみついていたい。例え相手が忘れようが私だけはこの恋心を忘れない、なんていう風にね」
「え、いきなり重くない?」
ふっ、っと格好をつけて一笑い。
「ただ、最近捨てる決心がついたんだ」
「え、何があったの?」
本当に丁度いい合いの手を。もっと話したくなってしまう。
が、
「さて、そろそろこの雑談にも区切りを付けようか」
「え、なんで!?今凄い良い所じゃないの?話の根幹でしょ?」
「なんでって、まだ話してなかったっけ。あと一時間もするとこの病院のシンボル、桜の木が伐採されるんだ」
「むぅ」
なにその言葉。
「花が咲かなくなったんだ。きっと根が腐ってしまったんだろうね。業者が言うには「まだ間に合う」らしいけど、木なんていつかは朽ちて枯れる。それなら、未練がましくしがみつくよりも直に植え替えてしまえばいいだろ?」
「まぁ、そうかな?」
納得いかないような顔。
正直確かに植樹式に関わった一員としてかなり考えさせてもらったが、最後には少し私情が挟まった決定を下してしまった。
「……まぁまぁ気に入ってたんだけどね」
口をついて出てしまった言葉。
ちゃんと本心。
気に入っていたし、できることならこれからもずっとそこにあってほしかった。
ただ、丁度いいとも思った。
私がきっぱりと彼女の事を忘れるいい機会になる。
「……先生?」
物思いにふけっていると、彼女が突然話しかけてくる。
記憶を無くしてからの彼女は自分から話を始めることは格段に少なくなっていたから、少し面食らってしまった。
「植え替えるって、あの木ですか?」
そう言って窓の外を指さす。
「うん、そうだよ」
「やめようよ」
「え?」
あまりに唐突な一言に動揺する。なぜ嫌がるのか、まったく理由がわからない。
「私、あの木結構気に入ってるんだ。ここから見える特徴的なものっていったらあれしかないし、あれのお陰でここにずっといるのが苦じゃないって感じがするんだよね。それに愛着というか……変かもしれないけど執着があるんだよ。あとさ、しーちゃんにとっても大切なものなんでしょ?それなら切らないに越したことは無いよ」
「……」
正直、私の事を忘れた彼女はどこか彼女らしくなかった。
それが、何なんだ。今目の前にいる女性は、私がよく知っている、私が忘れようとしていた遊だ。
「あ!しーちゃんっていうのは、あの……あれ?先生の事のはずなんだけど、なんでそう呼んだんだろ?」
「なんとなくでしょ。私の名前に綽名を付けるとしたら、十人中十人がそんなのを付けるよ」
「いや、まぁ、そっか」
「あ、ちょっと用事が。少し席外すね」
足早に院長室へと向かう。
早く。時間はあるはずなのに、今すぐでなきゃいけないような気がして、必要以上に急いでしまう。
「……按井院長」
「おぉ志摩君、久しぶり。そんなに急いでどうしたんだい?」
按井二美。按井遊の親で、この病院の院長。
「今日の木の植え替え、止めることってできませんか」
「なんだい、藪から棒に。これを決めたのは他でもない君だろう?」
何も言い返せない。確かに、木の植え替えをするという意見を提示したのは他でもない私。
それが、一時間前になって唐突になかったことにできないかと言い始める。自分がそれをされたとしたら苛ついてしまうだろう。
「君が決めたのだから、取り消すのも君だ」
「……?」
何を言ってるのだろうか。一瞬戸惑うが、次の言葉ですべて理解した。
「止められるかどうか聞くんじゃなくて、もっと他の言い方がある。教えてあげようか」
「いや、分かりました。」
私が言うべき言葉。
それは。
「止めてください」
―――
私の一存で決めた木の植え替え作業は、私の一存で取り消した。
もしかしたらあのまま切り倒してしまった方が、私にとっても彼女にとっても良かったのかもしれない。
私はきっぱりとすっぱりと区切りを付けて終わりにできる。彼女はあの事故の事を思い出すトリガーが一つ減る。
それでも残したのはなぜかと言われると、それは私のエゴだとしか言いようがない。