道化師王子は病弱令嬢を笑わせたい
エミルは探していたものが見つかったかもしれないと思った。
エミルが平民の服を着て、王都の城下町を散策しながら露店で買い食いしていると、通りの向こうで人だかりが見えた。
警護の都合でなるべく人だかりには近づかないよう言われていたものの、好奇心が勝った。
彼は周りで紛れている護衛たちに目で合図を送ってからその場へ向かった。
人だかりに近づくにつれ、陽気な音楽が聞こえてくる。
催し物が行われているらしく、見物人たちは息を合わせて拍手をしたり歓声をあげたりしている。
なかなかの盛況ぶりで、エミルは背伸びをしたり跳んだりしてみるも、人垣の向こうの様子が見えなかった。
エミルは彼の少し後ろまで来ていた長身の護衛のもとに移動した。
指示すると護衛は困った顔をしたが、しばらくしてエミルを肩車してくれた。
視界が高くなり人垣の向こう側が見えると、三人の演者がいた。
一人目は痩せぎすの女性、肩を揺らしながら弦楽器で楽しげな曲を弾き鳴らしている。
二人目は腹が出た男性、化粧で顔を厚く真っ白にしており、鼻だけ赤い。
曲に合わせおどけて踊っている。
三人目は中背中肉の男性、短いこん棒のような道具を三つ、両手で空中に放り投げながらぐるぐると操っていた。
曲を奏でている女性と、鼻が赤い男性は盛り上げ役や進行役で、出し物の中心はこん棒を投げている男性のようだ。
口では笑みを浮かべながらも真剣な目で、次々と技を披露していく。
回転の方向や数を変えながらこん棒を投げ上げては、順手や逆手でキャッチする。
そのつど歓声があがった。
一層高く放り投げたこん棒が見事キャッチされた。
そのタイミングで、鼻が赤い男が身を捻って尻を突き出すと、エミルと同じように肩車された子供が指をさしてキャキャと笑った。
やがて一連の出し物が終わると、その場は大きな喝采に包まれた。
エミルは護衛の肩から下ろしてもらい、楽器のケースに硬貨を放り入れながら思った。
探していたものが見つかったかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――話は一年ほど遡る。
エミル・ローセンダールはこの国の第三王子である。
彼の母は国王の側妃であり、元は遠国の王女であった。
エミルとは年が離れた、正妃の息子である第一王子が学院を卒業して立太子し、最近は精力的に公務を引き受けている。
同じく正妃の息子である第二王子も学院で優秀な成績を上げていると聞いており、エミルは自分はこの国にとってあまり重要ではないなと感じていた。
せいぜい、将来は辺境に行くよう命じられ、そこで王族の名前だけを使われる役が回ってくるくらいだろうか。
暖かくなってきた春のある日、王宮の庭園で茶会が催された。
十二歳になったエミルと釣り合う年ごろの高位貴族の子女が招待され、それなりに盛大な会となった。
茶会の名目は同年代の子供たちの顔合わせと交流だったが、真の目的はエミルの側近と婚約者の候補を選ぶことだった。
招待された子供たちは皆、親から言い含められているのだろう。
我先にとエミルの周りに集い、挨拶や自己アピール、自領への招待に一生懸命だった。
彼は面倒だなと思いながら、笑顔を張りつかせて適当に相槌をうったりした。
うんざりしながらふと目線を周りに向けると、端でじっとしている黒髪の令嬢が目に入った。
その令嬢は端のテーブルのさらに端の席で、一人で静かに座っていた。
会場の令嬢や子息が皆エミル、もとい王家の権力に群がる中、彼女は最後までエミルに近づくことはなかった。
茶会が終わると、エミルは彼女のことがそれなりに印象に残ったのだった。
エミルは結局、側近や婚約者の候補を選ぶことができなかった。
茶会の準備を差配した母や、招待客の人選に協力してくれた正妃には悪いと思ったが、その気にはなれなかった。
調べさせると、彼に近づかずに大人しくしていた令嬢は、パルムグレン侯爵家の次女リーサだと分かった。
パルムグレン侯爵家は長男のラーシュがエミルと同い年で、幼いころから遊び相手として何度も王宮に呼ばれており、エミルとは仲が良かった。
エミルはラーシュが茶会に参加しなかったのはどうしてか疑問に思っていたが、今回はリーサを招待したためバランスを取ったのだなと納得した。
その後しばらくして、パルムグレン侯爵家に高名な老騎士――四代前の王国騎士団の団長で隣国の侵攻を何度もはね返した英雄――が逗留することになった。
後進の育成も一流と讃えられる英雄が侯爵家の私兵団に訓練をつけると聞きつけ、エミルはぜひ混ぜてもらいたいと思った。
迷惑かなと思いつつ打診してみると、侯爵家からはあっさり承りましたとの返事がもらえた。
エミルは手を叩いて喜んだが、初回の訓練でラーシュや兵士たちと一緒に泡をふいて倒れて以降、警戒するようになった。
少し慣れてくると、休憩中や訓練後にエミルとラーシュは度々談笑した。
地獄のような訓練を共に受け、折り重なって倒れ、同じ釜の飯を食べるうち、二人は気安い関係になっていた。
「ラーシュ、あのじじいの弱点が分かったぞ。腰だ。攻撃を上下に振って、とにかく腰に負担をかけるのが効果的だと思う」
エミルが威勢よく言うと、ラーシュも調子よく同意する。
「それですね! さすがエミル様です!」
次回の訓練が一通り終わった後、志願者のみで行われる鬼教官――四代前の王国騎士団団長――との一対一の手合わせにて、エミルは自身の出した答えが正しいことを証明しようとした。
先手で上段下段と木剣を振り回し、腰へのダメージの蓄積を狙った。
鬼教官は腰の位置をほとんど変えることなく、涼しい顔ですべての攻撃を撃ち落とす。
やがてエミルの息が続かず攻撃が止まると、ギラリと目を光らせた鬼教官から高速の斬撃が放たれた。
「五連龍閃!」
謎の技名と共に両手両足をしたたかに叩かれ、最後には胸を突かれて、エミルは白目を剥いて失神した。
ラーシュは次の順番は取り消すと宣言し遁走した。
「そういえばラーシュ、お前、妹がいるだろう?」
ある日の訓練後、エミルはそう言えばと聞いた。
「ええ、いますよ。リーサです」
ラーシュは何ともなしに答えた。
「リーサ嬢はどのような令嬢なのだろうか」
茶会のときの様子が気になったことを伝えながら、エミルは質問する。
「それは不躾で失礼しました。妹は幼いころから体が弱いのです。茶会でも体調が悪かったのでしょう」
ラーシュは妹のことを説明した。
エミルやラーシュの二歳年下の十歳であること。
生まれつき病弱であまり外には出られず、屋敷の中で本ばかり読んでいること。
頭がとびきり良いこと。
あまり笑わないこと。
目つきはちょっと悪いが、その可愛さは大陸で十指に入るであろうこと。
「ふーん」
エミルは相槌をうちながら、最後の部分は家族補正がやばいなと思った。
茶会の彼女を思い浮かべながら、彼は特に気負うことなく「会うことはできるだろうか」と訊ねた。
しばらくした日の訓練の昼休憩中、エミルはテントで兵士たちと芋煮を食べていた。
外から入ってきたラーシュが声をかけてくる。
「エミル様、妹が今日は体調が良いようで、庭で母とお茶を飲むとのことです。いかがなさいますか?」
「会えるものなら会いたいな」
エミルは泥まみれの訓練着を着替えた。
ラーシュと並んで侯爵邸の中庭に向かうと、先日の黒髪の少女が夫人と紅茶を飲んでいた。
「第三王子殿下、お初にお目にかかります。パルムグレン侯爵家次女のリーサと申します」
年のわりに小柄な少女はスカートの裾を軽く持ち上げ、頭を下げた。
生地の質は良いのだろうが侯爵家の令嬢としては簡素なワンピースを着ており、痩せた肩から体が弱いことが伺えた。
肩までの黒い髪は艷やかで思わず触りたくなる。
肌は日焼けなど一切なく、透き通るように白い。
目つきは少し悪いが、アメジストのような薄紫の瞳は美しかった。
妖精のようだと思いながら言葉を失ったエミルは、しばらくして復活した。
「はじめまして、リーサ嬢。私は第三王子のエミル・ローセンダールだ」
「存じております。お会いできて光栄でございます」
「先日の茶会では無理に呼んでしまったようですまなかった。ラーシュから体が弱いと聞いているが、大丈夫だっただろうか?」
エミルは頭を下げてリーサに謝罪した。
王家からの招待ではとても断れなかったのだろう。
「恐れ多いことでございます。あいにく体調がすぐれなかったので、座って休ませてもらっておりました。ご挨拶もできず申し訳ございませんでした」
リーサは自国の王子に頭を下げられ困った様子だった。
「迷惑をかけた詫びの証として何か贈り物をしたいと思うが、リーサ嬢はなにか望むものはあるだろうか?」
エミルの提案にさらなる困り顔の妹を見て苦笑しながら、ラーシュが助け舟を出した。
「リーサは植物図鑑が好きだろう。エミル様の母君のカイサ様は遠国のロレルから嫁がれた妃様だ。
ロレルの植物図鑑を贈ってもらう、というのはどうかな?
ロレルはこの国より気温が高いし雨も多いから、植生はこの国と大きく違うはずだよ。
カイサ様にはロレルから定期的に届け物があるから、そこに紛れさせてもらえば大きな迷惑にはならないだろう」
リーサは少し迷う仕草をしてから顔を上げ、「よろしいでしょうか?」とエミルに伺った。
期待を浮かべた瞳に嬉しくなり、エミルは任せろと胸を張った。
二人がはじめて言葉を交わしてから半年が経った。
エミルはリーサを見かけるたび、気軽に声をかけ続けた。
「リーサ嬢は今日もたいへん可憐だな」
「第三王子殿下、もったいないお言葉でございます」
――――
「やあ、リーサ嬢、今日はいつもより顔色が良いようだ」
「ごきげんよう殿下。そうですね、朝食をいつもより食べられましたし今日は体調が良いようです」
――――
「リーサ嬢、まるで森の妖精かと思ったぞ」
「エミル殿下、服の色が緑なだけですよ」
――――
「おはようリーサ、今日はなんの本を読んでいるんだ?」
「エミル様、今お話が良いところなのです。邪魔をせず向こうへ行ってください」
――――
エミルがそう望んだこともあり、はじめは恐縮していたリーサもラーシュ同様、徐々に気安く接するようになった。
エミルには腹違いの妹が二人いるが、式典などの行事以外で顔を合わせることはないため、妹とはこんな感じなのかなと想像した。
「リーサ、今度からは私のことを『エミル兄様』と呼んでくれないだろうか」
「それは嫌です……絶対」
「そんな……」
エミルはリーサに「エミル様」と呼ばせることに成功して調子づいていたが、「エミル兄様」呼びはにべもなく断られてうなだれた。
エミルは慕ってもらいたい下心から、リーサに色々と贈り物をした。
はじめに贈ったロレルの植物図鑑はとても喜ばれた。
高価なアクセサリーは断られたが、菓子や花、特に本は喜んでもらえた。
菓子はあまり甘くないほうが好みとのこと。
花は好き嫌いは特にないが、派手な色よりは、淡い色のものが良いらしい。
本は何でも読むが、特に図鑑や伝記、広い分野の学術書を好んだ。
エミルは己の力不足を早々に自覚すると、王宮図書室の司書たちに頼み込み、毎回これぞという「今日の一冊」を選んでもらった。
それでも結構な頻度で「この本はもう読みました」と言われたりもした。
エミルの目には、リーサは小柄で痩せてはいるものの、他は普通の令嬢とそんなに変わらないように見えた。
が、そもそもリーサの体調の良い日にしか二人は会っていないのであった。
「体調の悪い日は外に出れず、特にひどい日は一日ベッドの上で過ごすこともあります。
そして、そんな日が年々増えています……」
ラーシュは辛そうな表情でエミルに告げた。
エミルは王宮の仕入れの担当者に、特に滋養に富んだ珍しい食材の調査と取り寄せを依頼した。
担当者は王子から直接依頼されたことに発奮し、隣国の小さな商会にまで手を広げて調べを行った。
それなりに日数が経ったころ、エミルは見つかりましたと連絡を受けた。
やりきった顔の担当者から説明を聞き、エミルはこれならばと渾身のガッツポーズをした。
次の日、パルムグレン侯爵家の厨房に「遠方の山に棲む希少な大角鹿の陰茎と睾丸」を嬉々として持ち込んだエミルは、しばらくリーサから無視された。
貴重なその珍食材は、せっかくだからと兵士たちの食事に使われ、妻や恋人のいる者は自信を得て喜び、そうでない者は悶々と苦しんだ。
肌寒くなってきたある日、エミルは師匠で鬼教官な老騎士の逗留が、来月で終わると聞いた。
侯爵家の兵士たちは半年前に比べ体が一回り大きくなり、顔には厳しい訓練を乗り越えた自信が浮かぶようになっていた。
線が細かったエミルとラーシュも見違えてたくましくなった。
師匠にはいつか手合わせで勝ちたいと思っていたし、知り合いの兵士も増えたので寂しい気持ちはもちろんあるが、エミルはそこは割り切った。
ラーシュは同い年で同性のため、学院でも一緒になるし、それ以外でも顔を合わせることはあるだろう。
問題はリーサである。
半年に渡ってそれなりの時間をリーサと過ごしたエミルはこう結論づけた。
彼女はとびきり頭が良いと。
今は様々な知識を片っぱしから仕入れているが、いずれ分野を定めれば、その道を極められるのだろうと。
その深淵は自分には測れないだろうと。
そして、そんなことはどうでも良くなるくらいに、リーサは可愛いのだと。
今やエミルはすっかりリーサに骨抜きにされており、とっくに妹に対する感情ではなくなっていた。
エミルはリーサに婚約者になって欲しいと思ったが、様々な考えが錯綜した。
彼女に嫌われてはいないと思うが、かといって特段に好かれている自信もない。
王族として生を受け、贅沢な暮らしを許されてきたからには、結婚相手は国益を第一として選ぶ必要があるのだろう。
子を成して次代につなげるため、相手の令嬢の健康状態も優先度が高いはずだ。
悶々と悩んだあと、彼は意を決して母親に相談してみた。
母のカイサは息子に好きな相手ができたことを喜んで応援すると宣言し、エミルの意思が尊重されるのだと教えてくれた。
上の王子に不幸があるなどして、エミルの王位継承順位が繰り上がらない限りは、彼の意向を最大限に汲んだ相手との婚約、婚姻ができるらしい。
生国からこの国へ輿入れする際の取り決めで、カイサが強く望み条件として受け入れさせたのだという。
「国王陛下でも反故にはできないわ」
ほほほと笑う母を見ながらエミルはなぜそんなことを思ったが、藪をつついて母親の昔の恋話などが出てきてはたまらないと開きかけた口を閉じた。
母親の部屋を出た彼は、もっと早く教えてくれよ、あの茶会はなんだったんだよ、と遠い目で空を見上げたのだった。
母に背中を押されたエミルは、パルムグレン侯爵と夫人、ラーシュに対し、リーサに婚約を申し込むことの許可を得ようとした。
侯爵や夫人はリーサの病気のことで渋っていたが、何度も頭を下げて最後には許してもらった。
ラーシュはしばらく複雑な表情をしていたが、「妹をどうぞよろしくお願いします」と頭を深く下げた。
リーサを呼んでもらい、怪訝そうな彼女の目をまっすぐ見ながら、エミルは一息に言った。
「リーサ、この半年で君の素晴らしさを思い知った。私は君に強く惹かれている。どうか私の婚約者になって共に歩んでもらえないだろうか?
これは王族令としての強制ではない。君が嫌ならば断っても構わないが……良い返事がもらえることを願う」
エミルは跪いて返事を待った。
時間が引き伸ばされていく感覚を覚えながら、背中に冷や汗をかきながら待った。
リーサはしばらく逡巡していたが、周りで見守る家族の顔を見た後、一度目を閉じてから開くと「よろしくお願いします」と彼の手を取った。
「ありがとう、リーサ。受けてくれてよかった。断られるんじゃないかとひやひやしてたんだ」
「私を婚約者にしたい物好きな殿方など、エミル様くらいではないですか?」
「そんなことはない。リーサは自分の魅力がわかっていないな」
「……そろそろ手を離してください」
周りから拍手を受ける二人の顔は耳まで赤かった。
エミルは天にも昇るように浮かれたが、それでも気にかかることが二つあった。
一つ目はもちろんリーサの病気である。
彼女の病気は名前もついていない珍しい難病で、治療法も確立されていない。
パルムグレン侯爵家の抱える医師はこの国でも最高峰の名医である。
そんな名医をもってしても、発熱や息切れなど表面的な症状に対しての処置しかできていないのだという。
エミルは王族の権威をもって、さらに優秀な医師を国外も対象にして探そうと考えていた。
滋養に良い食材の調査も継続して依頼していたが、学習した彼は、ただし陰茎と睾丸は除くと注文を加えていた。
二つ目は、リーサがあまり感情を表に出さないことである。
エミルの見立てでは感性は人並みにあるが、表現する部分が高い知性に引っ張られるのであろう。
悲しんだり怒ったりして欲しいわけではないが、笑いや喜び、感動といった前向きの感情表現をもっと見たいなと思った。
エミルはリーサの琴線を振るわすものが何かないかと探し始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
春が来た頃、そんなこんなでエミルは城下町の路上で出会ったのであった。
彼が愛でてやまない婚約者の心を打つかもしれないものに。
その日は軽く挨拶だけして帰り、後日人を遣って王宮まで来てもらった。
八人組の彼ら彼女らは、年齢、性別、人種までばらばらだったが、どこか一つの家族のような空気を持っていた。
各国を旅しながら、街頭や集会所で芸を披露し、食事をもらったり路銀を稼ぐのだという。
「王子殿下、我らのようなものを、流浪の旅芸人というのです」
腹が出て頭が禿げた中年の男がそう言って、大口を開けてがっはと笑った。
彼はこの旅芸人一座の代表であり、リックと名乗った。
エミルは彼らをもてなした。
ご馳走をふるまい、王宮の大浴場の使用許可を取り、天蓋付きのベッドが並ぶ大きな客間を使わせた。
つぎはぎだらけでぼろぼろだった衣服は、すべて新品の上物に変わった。
仕事道具の補修や、消耗品の補充もおこなった。
リックら旅芸人たちは引きつった笑いを浮かべていたが、何日かすると「生涯一度の贅沢だ」と開き直って楽しむようになった。
そしてエミルはいたずらを思いついた子供のような目で、依頼したいことがあると告げるのだった。
一月後、パルムグレン侯爵家の庭の一画には木製のステージが建っていた。
ステージ前に複数置かれた長いベンチには、八割がた人が座っている。
ステージ正面、最前列の特等席には、この屋敷の主である侯爵一家が並んで座っていた。
「あいかわらず、エミル様の奇行……いえ、常識にとらわれない行動力には驚かされますね」
ラーシュが家族たちに感想を述べながら肩をすくめた。
侯爵と夫人はため息をつきながら、「そうだなあ」「そうねえ」と声を合わせた。
「大道芸とははじめて聞きましたが、どのようなものなのでしょう?」
ラーシュの二歳年上の姉であるヘレナが周りをきょろきょろと見ながら問う。
彼女は普段は学院の寮で寝泊まりしているが、今日は休日で帰ってきていた。
「殿下からは、なるべく事前情報を入れないようにして、本番のライブ感を楽しんでほしいとのことです」
リーサは隣の姉に答えたが、彼女自身は本で読んだことがあり、大道芸がどんなものか概要は知っていた。
もちろん実際に見たことはなかったが。
ヘレナは「ライブ感って何ですの?」と困惑した。
周りのベンチには、時間的に忙しくない使用人や兵士たちが座っていた。
仕事に一区切りつけられたものが次々とやってきており、やがてベンチの後ろには立ち見ができるようになった。
王都の時を告げる鐘が鳴り終わると、ステージの袖から音楽が聞こえ始める。
腹の出た男が赤い服を着て、アコーディオンを演奏しながらステージ上に出てきた。
シルクハットを被っており、顔は厚く真っ白だが、目と口と鼻は真っ赤だ。
目の赤は星のような形で描かれ、口の赤は唇からかなりはみ出して塗られていた。
鼻だけは化粧でなく、小ぶりのりんごくらいの赤い玉を付けていた。
ヘレナはひいっと怯えた声を出し、思わず妹の手を握った。
リーサは「本格的ですが初見の人には怖いのでは」と見解を述べた。
他の観客もはじめて見る異形の登場にざわついた。
紅白の男は気にした風もなくステージの中央までおどけた様子で進み、観客の方を向くと大仰な礼をした。
紅白の男ことリックは道化師という、司会や笑いとり、時には自ら芸も披露する忙しい役回りだ。
「パルムグレン侯爵家の皆様、お目にかかれて光栄でございます。
わたくし共は『暁の蛇』と申します、しがない旅の芸一座でございます。
普段は各国を渡りながら路上の芸で身を立てております。
この度はエミル第三王子殿下に過分なおもてなしを頂き、その上で本日は殿下の婚約者のリーサ様のお家であるパルムグレン侯爵家にて拙芸を披露する機会を頂きましたこと、恐悦至極に存じます。
それでは、どうぞごゆるりとお楽しみください」
リックの挨拶が終わり、そこからは旅芸人たちが入れ替わり立ち替わりで磨いてきた芸を披露した。
頭にバンダナを巻いた男性が木板を背にしたリックに向かい、次々にナイフを投げる。
ナイフがリックの頭の右、左、上、と等距離で刺さった。
会場は固唾を呑んで静まり返ったあと、大きく湧いた。
艶っぽい衣装を着た双子の姉妹は、音楽に合わせ扇情的な踊りを披露した。
だらしのない表情になったラーシュは姉と妹に手を抓られた。
同じように侯爵は夫人に手を抓られた。
道化師は技の成功したタイミングや山場などで、手を叩きながら観客の方に顔を向けた。
観客もやがて拍手や歓声をあげるタイミングが分かってきたようだった。
一部のお調子者が指笛を吹いて、高い音を響かせた。
頭に帯状の布を巻いた初老の男性が籠を二つ持って出てきた。
彼が縦笛を吹くと、それぞれの籠から頭部が横に広がった蛇が頭を上げた。
蛇は笛の音に合わせて体を揺らした後、籠に戻っていった。
リーサは「フードコブラ属の黒斑コブラでした」と熱を伴った説明をし、家族はそうかと薄く反応した。
エミルは演目の最後にゲストとして登場し、この一月で練習した技を披露した。
葉巻の箱を大きくしたような箱を三つ用意して、空中に放りながら、二つの箱でもう一つの箱を挟んでキャッチする。
最後に高く投げた箱を水平に回転した後でキャッチしようとしたが失敗し、箱は床にカンと落ちた。
エミルは無念の表情で、生暖かい拍手をもらった。
その後、エミルと旅芸人たちがステージ上に集合し、並んで終了の礼をすると、会場はしばらく大きな拍手に包まれた。
物珍しさも大きいだろうが、おおむね成功だったな。
エミルが撤収作業をしながらそんなことを考えていると、リーサが近づいてきた。
「エミル様、お疲れ様でした。素晴らしい出し物でした。家族や使用人たちもとても喜んでいましたよ」
「そうか、それはよかった。私の芸は最後に失敗してしまったが。……リーサはどうだった?」
「私ですか? そうですね……私は大道芸というものを知識として知ってはいましたが、実際に体験するとまた違うように感じました」
「どんな風に?」
「彼らの芸は一見、派手で分かりやすいもののように見えますが、その本質は積み上げた技術の反復練習と、改良し続ける見せ方の工夫にあると感じました」
「リーサの言葉は私には難しいな」
「簡単にやっているように見せているけど、裏ではすごく努力しているということです」
「なるほど。また見たいと思うだろうか?」
「機会があればぜひ。長い時間をかけて磨かれた技を見るのは、人の可能性を見るようで興味深いです。
遠方の動物などを実際に見れるもの良いですね。私は遠くまで出かけることができないので」
「そうか! ではまた見せるから楽しみに待っていてくれ」
「え? また見れるのですか?」
期待していた感想とは違ったが、ともかくリーサが喜んでくれたことで、エミルは満足した。
エミルはリックたち旅芸人に厚く礼を言い、たっぷりの謝礼を渡し、そして弟子入りを願った。
弟子入りは断られたが、もう一月ほどは王都に留まるので、その間に芸人たちがそれぞれの技のこつを伝授してくれるとのことだった。
エミルは小躍りして喜び、あれこれ理由をつけて王子教育をさぼっては、旅芸人たちに教えを請いに走った。
リックたちのように各国を巡る旅芸人は、多くはないが他にもいるらしい。
一月経ってリックたちが出発する際、エミルは一つ頼み事をした。
これからの旅先で他の旅芸人に出会ったら、この国に寄ってくれたら客として歓迎することを伝えて欲しかったのだ。
大量のお土産を馬車に積み込んだリックたちは快諾し、見えなくなるまで大きく手を振りながら去っていった。
それからのエミルは王子教育や剣術鍛錬、芸磨きと忙しかった。
彼は王子教育を熱心に受けるようになった。
以前の彼は、第三王子である自分が評価されると面倒事が増えるだろうからと、意図的に手を抜いていた。
しかし、そんなことは実際に何か起こってから考えれば良いと考えを変えた。
婚約者となったリーサとより有意義な会話をするためには、幅広い知識と、それらを処理して組み立てる知恵が必要であった。
多方面に展開されるリーサとの会話に対し、エミルは少しずつ相槌や質問ができるようになっていった。
やがてエミルが自分なりの意見を言えるようになると、リーサは彼を褒め、私の意見はこうなのですと教えてくれた。
分かりやすく笑ったりするわけではないが、リーサが喜んでいるのだとエミルには分かり、満足感が熱をもって体を巡った。
エミルはふらふらとリーサに触れようとして、ぺしっと手を叩かれた。
「私たちは婚約しているのだから、多少の触れ合いは許されるのでは?」
「エミル様、十二歳の子供に異性が必要以上に触れるのは犯罪です。どうしてもと仰るのなら、王族令として従いますが……」
「そんな……」
エミルはリーサに睨まれ、しおしおとうなだれた。
無理を通せば彼女や周りの人たちに嫌われてしまう。
彼の肉体は日々大きく変化しており、性への興味が増してきた不安定な時期だった。
たまに髪に触れることを許されると彼は喜び、触りすぎたり、思わず口に入れようとして怒られた。
剣術は護衛や城の騎士たち、パルムグレン侯爵家に行った際にはそこの兵士たちにも混ざって鍛錬をつけてもらった。
きちんと剣を修めた者にはまだ勝てないが、このまま鍛錬を続け、やがて体が大きくなれば、国でも上位の腕となれるかもしれない。
怠ることなく芸を磨き続けるエミルは、侯爵家で披露する前に城下の街角で平民相手に芸を披露して、その反応を伺うようになった。
彼は白塗りの顔に赤の化粧をして、道化師の格好で様々な芸を披露した。
はじめは遠巻きにしていた町の人々は、やがて近くで彼を囲むようになり、娯楽の少ない日々のたまの楽しみとしたのだった。
町で評判の良かった演目は順次パルムグレン侯爵家でも披露された。
前回失敗した葉巻箱の芸は、次回は無事成功した。
リーサから継続した努力が実を結んだことをねぎらわれ、エミルは自信と達成感を持った。
両足に棒をくくりつけて長いズボンで隠し、バランスをとりながら歩く芸を披露した。
観客たちはさらなる異形に戦慄し、招待されていた子供たちは泣いた。
女の旅芸人と薄着で腰を細かく振り動かしながら、二人で絡み合う踊りを披露した。
女性の出身地である遠国で、繁栄を願う伝統的な踊りなのだという。
踊り終えて息を切らしながら顔を上げると、リーサはすでにいなかった。
王宮で飼われている他国から贈られた猿を借りて、一人と一匹で芸を披露した。
猿が手を叩いて合図すると、エミルは逆立ちして、猿が掲げた輪を手だけで次々跳んでくぐった。
リーサの隣で見ていたヘレナは、「え、逆では!?」とのけぞった。
黒の色付き眼鏡をかけ怪しげな音楽と共に、奇術と呼ばれる類の芸を披露した。
金属製のスプーンを指先で軽くさわって捻じ曲げ、「手力です!」と嘯く。
ラーシュが「て……手力? 魔法なのか?」と目を見張って驚いた。
リーサは両親に聞かれてテコの原理を説明した。
最近この国との交流が始まった山の部族の村へと王族として訪問を命じられたエミルは、行った先での歓待の席で新しい踊りに出会った。
後日、侯爵邸のステージで腰巻きのみの姿となった彼は、護衛が叩く太鼓のリズムにあわせ、両端に火がついた二本の棒を両手でぐるぐると回し、最後は空中に放り投げた棒を口でキャッチした。
リーサは手首のスナップについて褒めたが、侯爵邸の執事からは「火を使われるのは困ります」と注意を受けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月日が流れ、エミルは十五歳になった。
学院に通いはじめ、簡単な公務を少しずつ割り振られるようになり、あいかわらず忙しい日々だった。
それでも時間を捻り出してはリーサとの交流を大切にした。
リーサの病状は明らかに悪化してきていた。
外に出られる日はさらに減り、目元にはくまができ、髪や唇はぱさついた。
発熱すると、体に痛みが走るようになっていた。
それでも彼女は本を読み続けた。
医学と薬学を軸足に据えて深堀りするようになり、未だ知られていない薬草の効能についてなど、論文もいくつか発表していた。
エミルはリーサの病気を治すことができる医師を探し続けていたが、良い報せは届かなかった。
何人か期待できそうな医師を紹介してみたが成果はなく、そもそもリーサのほうが知識で勝っていることがほとんどだった。
エミルは暗い影が足元に近づいてくる感覚に歯を食いしばって耐え、彼女の前では明るくふるまった。
ある日、熱が出てベッドから動けないリーサにねだられ、見舞いに訪れたエミルは声に出して本を読んでいた。
リーサは大人しく聞いていたが、やがて瞳が虚ろになると、大量の汗をかき、体を丸めて苦しみだした。
慌てて侍医がやってきて、様子を確認しながら応急の処置をする。
だらだらと流れる苦悶の汗が失われていく生命そのものに見え、エミルは己の無能を恥じた。
やがて鎮痛薬が効いて気を失ったリーサの痩せた手を撫でながら、エミルは自分にできることは何かないかと自問した。
この数年で何度も繰り返された自問だった。
王族として持つ金や権力は役にたたない。
いっそ神にでも祈るかと考え、彼は自嘲的な気分になった。
この国の国教は三柱の神をまつっているが、こちらから感謝の祈りを捧げるのみであり、見返りに何か要求して良いわけではない。
思考がその辺りにいたった時、何か引っかかるものを感じ、彼はそれを全霊でたぐり寄せようとした。
リーサが目を覚ましたのは三日後だった。
待機していた侍女に水を飲ませてもらい、少し落ちついてから体を起こした。
しばらくすると家族が次々やってきては、目が覚めてよかったと笑い、もうダメかと思ったと泣いた。
そうしてその日は家族の誰もがリーサのベッドから離れようとしなかった。
次の日もパルムグレン一家はリーサのベッドの元に集まっていたが、不意にラーシュが「やべえっ」と呟いた。
彼は顔を青くして部屋を出ていくと、しばらくして戻ってきた。
リーサが何事かと訊ねると、ラーシュはエミルに使いを遣ったのだと答えた。
ラーシュが両親に目線を送ると、彼らは頷いた。
そして、「リーサが目を覚ましたのはついさっきである」ということにできないか、家族会議が開かれたのであった。
半日ほどして、護衛を置き去りにし、先触れも追いこしたエミルが侯爵邸に着いた。
部屋に飛び込んできた彼の髪はめちゃくちゃに乱れ、ところどころ焦げているように見えた。
頬は爛れてやつれ、目の下には真っ黒なくまがあった。
エミルはベッドの上で体を起こしたリーサを目にしてほっとしたような顔をすると、彼女が何か言う前に気絶した。
医師に診てもらうと、疲労と脱水と睡眠不足が原因だろうとのことだった。
「どういうことなのか……説明してください」
処置後のエミルを客間で休ませた後、リーサはきつめの目尻をさらに吊り上げて家族に説明を求めた。
「前にエミル様が披露した、火のついた棒を回す踊りがあっただろう。あれは火刀の舞といって、山に住む部族から教えてもらったものなんだ」
ラーシュは慌てて、先日エミルから聞いたことを説明した。
部族が崇める山の神は国教の神とは違い、品を供えたり舞を捧げる代わりに、願い事をしてもよいのだということ。
火刀の舞は本来、山の神に捧げるためのものであること。
そして長く踊り続けるほど願いが届きやすいと伝えられていること。
エミルはリーサが倒れた後、部族の村に馬で駆けつけ、山の神に舞を捧げたいと頼み込んだ。
頭を下げ続けるエミルに部族の長は困ったが、やがて自分たちの神は懐が深いのだったなと思いいたり、祭祀で使用する道具を貸してくれた。
エミルは山頂付近の洞穴にたどり着くと、山の神を象った石像に一心不乱に踊りを捧げ続けた。
リーサが目を覚ましたと報せが届くまで。
不眠不休、飲まず食わずでずっと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リーサが客間に入ると明かりはついておらず、窓から入る月の光でかろうじて部屋の様子が分かった。
ベッドで微かに身じろぐ気配があり、なるべく静かに近づくと、エミルは深く寝入っているようだった。
リーサはエミルの髪にさわり、頬を撫でた。
髪はところどころ焼け焦げ、指で触るとぽろぽろと崩れて落ちた。
顔や首にもいたるところに火傷による水ぶくれができていた。
リーサは顔を近づけ、エミルの唇に自身の唇を軽く重ねた。
しばらくして顔を離すと、ベッドの傍らに置かれた椅子に腰をかけた。
リーサはエミルの顔を見ながら小さく息を吐き、絆されてしまったなと思った。
リーサは自身の知性や精神性が、周りの人たちと違うことを幼いころから自覚していた。
知性のほうが、考え方や感じ方に影響を与えているのだろう。
同年代の令嬢たちが夢中になっている、おしゃれや恋愛話には興味をひかれなかった。
大事にしてくれる家族や使用人たちを思う気持ちはあったが、もらっているものに対し、自分が返せるものは大きさや熱量が釣り合っていないと感じていた。
自身の病について、リーサはできる範囲での調査と分析を終わらせていた。
いくつかの病が群発したもので、根本的な原因は現在の医学では説明できない。
リーサは自分の身体の中で、本来は身体を守るために働く物質が、逆に身体を攻撃していることが原因だと推測していた。
その物質が身体の中で造られるのを抑えたり、働きを鈍らせることができれば症状は改善するはずだが、その道は果てなく遠かった。
薬草や触媒の組み合わせどころではなく、薬効を得るための精製をする器具から開発する必要があるのだった。
家族にも話していないが、恐らく十八歳の成人前に自分は死ぬだろう。
薬を作り出すには時間が足りない。
近くで寝息を立てるエミルを見ながら、リーサは思った。
物好きな王子だ。
どうせ結婚する前に死ぬだろうからと婚約を受け入れたが、子も成せないまま、いつ死ぬかも知れない女を希望するとは、頭のネジが何本も外れている。
彼はいつもおかしな芸で自分を喜ばせようとし、時に怪しく触れようとした。
名状しがたい感情が発露し、リーサを満たしていく。
この変な王子を愛し、そして愛されたい。
一緒に生きたい。
リーサの魂に火が点いた。
それは優しく照らすものではなく、苛烈に迸るものだった。
アメジストのような瞳が内側を透過してギラギラと紫色に煌めいた。
次の日エミルが目を覚ますと、リーサは手ずから水を飲ませ、粥を食べさせ、包帯を変えと甲斐甲斐しく世話をした。
そしてエミルが少し落ち着いた後、彼の目をまっすぐに見ながら突然ボロボロと涙を流した。
エミルはギョっとして固まり、彼女の家族も驚きで固まっていた。
母親である侯爵夫人やリーサ付きの侍女でさえ、立って歩くようになってから、彼女が泣くところを見たことがなかった。
「エミル様、このような無茶は金輪際止めてください」
リーサは嗚咽せず静かに泣きながら言った。
「私はリーサのためなら、このくらい大したことではないのだが……」
エミルは泣いているリーサをどのように扱っていいか分からず、とりあえずといった感じで返した。
「今度やったら、その日から一年間、髪を含め私に触れることを一切禁じます」
「そんな……」
エミルは肩を落としたが、内心では、彼女の心の線引きの内側へ入ることを許されたように感じ喜んだ。
その後、リーサは邸の敷地に研究所を建ててもらい、自身の病を治療するための研究に打ち込んだ。
侯爵家の力を惜しみなく使い、なりふり構わず名高い各種の専門家を大勢呼びつけては、助手として手伝わせた。
エミルは父である国王に頼み込み、王宮の学者たちを侯爵家へ派遣してもらった。
体力を落とさないよう、血走った目で無理やりパンを飲み込むリーサを見てエミルや彼女の家族は心配したが、彼女が目的を持ち前向きになったことを嬉しく思った。
季節が巡っていくなか、リーサは新しい薬学の理論を次々に確立しながら、それらを組み立てていった。
そしてついには自身の病への特効薬を完成させたのだった。
リーサの研究はこれまでの医学や薬学の常識に風穴を空け、その発展を百年以上進めたと称賛された。
彼女が発見した理論やこれまでになかった薬効成分はその後、医師や薬師たちに引き継がれ、他の病に対する創薬に多大な貢献をした。
研究の半ばでは、その過酷さを嘆いていた助手こと高名な専門家たちは、歴史的な偉業に携われたことに感動の涙を流した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
特効薬のおかげで、リーサは人並みの生活を送ることができるようになった。
リーサが遅れて入った学院を、十八歳で最速の飛び級で卒業すると、二人はすぐに結婚した。
やがて兄である王太子とその妃の間に息子が生まれると、エミルは王族の身分を離れ、辺境伯として辺境の地を与えられた。
エミルはリーサや周りの家臣たちの助言をよく聞き、堅実に領地を治めた。
また、旅芸人を寝食などで優遇したことで、彼の領地は辺境でありながら、多くの旅芸人がやってきては領民を楽しませた。
リーサはエミルに寄り添い支えた。
王宮の筆頭薬師をはじめ大勢がリーサに師事を願ったが、彼女はすべて断った。
リーサは子供を二人生み、下の子の成人を見届けると満足気に亡くなった。
それから何年かして子供たちが立派に育ったことを確認すると、エミルは家督を長男に譲って表舞台から姿を消した。
辺境の町の表通りを、花の入った籠を持つ少女が歩いていた。
これから中央広場に行き、実家の花屋が仕入れた花を出張販売するのだ。
やがて前方に人だかりが見え、花売りの少女はまたかと思った。
この町では多くの旅芸人たちが、日々路上で住民相手に芸を披露している。
領主の意向で彼らを優遇しているからなのだと父からは聞いた。
年老いたり、この地で伴侶を見つけた者が定住しやすい制度も整えられているそうだ。
観客の集まりはまずまずといった具合で、人垣の隙間から向こうの様子が見える。
少し腹の出た壮年の男性がおどけながら、こん棒のようなものを次々と空中に放り投げていた。
その顔は白く塗られており、目と鼻と口が赤かった。
花売りの少女は「怖っ……」と小さく呟きながら、横目で通り過ぎようとした。
ふと視界の隅に違和感を感じて改めて見ると、黒髪の少女が演者の男性の後ろに置かれた木箱に座っていた。
強い風が吹き、花売りの少女は髪が乱れないように手で抑えながら、顔をそむける。
風が止み視線を戻すと、木箱の上には誰もいなかった。
花売りの少女はあれ? と少し驚いたが、そのまま広場へと急いだ。
やがて薄れていく記憶の中で、黒髪の少し目つきの悪い少女は楽しそうに微笑んでいた。
読んで頂きありがとうございます。
読み専でしたが自分でも書きたくなり、はじめて書いてみました。
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