手を出したら
遠ざかる彼女が見えなくなってから、僕は自分の手を見つめた。
人に手を握られたのは何年ぶりだろう?と、がらにもなく思う。自分の手とは違う、暖かく柔らかな手に少し動揺した。
冷たくなってゆく体温ばかりに触れてきたせいで、人の体温が元来温かなものだと久々に思い出して、自分が壊してきたものの重さを理解しそうになって、少しだけ怯んだ。
怯む?怯むと言う言葉を思いついて、乾いた笑いが思わずもれる。
「はは。本当想定外過ぎて、焼きが回りそうですね」
一人ごちて、僕はなんとなく公園を見回した。
昼下がりの公園は、子供を連れた母親やらくたびれたスーツを着たサラリーマンらがまばらにいて、誰もが平和で平穏そうな顔をしている。
僕は、目についた一人一人に銃口を向ける想像をするが、分かってはいたが、やはり、と言うべきか、働き盛りのサラリーマンに、子供に微笑んでいる母親に、引き金を引くイメージをしても罪悪感も戸惑いも感じられなかった。
仕事と割り切れば、もっと酷い事も出来るだろう。
そして自分は、罪悪感を露ほども感じる事なく遂行もする。
イメージのついでに、彼女の青い瞳や肩より少し長い黒髪を思い出す。
そして、銃口を彼女に向けて引き金を迷う事なく引いた。
バサバサと、平和の象徴のような白鳩が数羽羽ばたいて行った。
自分の歩いて来た道の後には、屍が積み上がっている。けれど生き方に後悔はない。仕方なかったと、幼い自分には他に選択肢がなかったと、言い訳なら出来る。が、今この場所にいるのは間違いなく自分自身で掴んだ場所で、それを否定したくはなかった。
プライド?虚栄心?そんなんじゃない。
ただ、必死に生きて来ただけだ。自分の力で。
自分が何をしてきたかは重々理解しているつもりだ。地獄、という場所があるかは知らないが、自分は業火に焼かれるだけの事をしてきたと思う。
それでも・・・
「かっこいい・・・。」
不意に彼女の言葉が甦る。
見た目ではなく、生き方について言われたのは初めての言葉だった。
その時、ほんの一瞬、本当に僅かな瞬間、僕は初めてこの女を殺せないかもしれない。と、脳裏をよぎった。
今でもあの時の感情を思い出すと、胸に感じた事のない違和感を一瞬感じるが、僕は気づかないふりをして引き金を引くだろう。
彼女も同じ孤児だと言っていた。
正直、日本と言う平和な国でも彼女のような孤児がいるのかと、少し驚いたがそれだけだった。
同情も憐れみもない。ただ、事実なだけで興味もなかった。
それでも、自分と同じように今を生きている彼女と、僕の生き方を否定しなかった彼女ともう少しだけ、という微かな執着心が頭をもたげた。
「殺す日が来たら、せめて苦しまずに殺したいですね」
一人ぼやいてから、首筋に当たる冷たい金属の感触を感じて、ため息がもれる。
「へー。お前がそんな情をかけるなんて珍しいな」
男は僕の首筋にナイフを押し付けると、つくつくと笑った。
「別に、あなたのような男に殺させたくないだけですよ」
「なんだ?色ボケしてんのか?背中ががら空きだぞ?」
「そうですか?あなたのナイフが一閃する前にトリガーを引く自信くらいはありますよ?」
男は、僕の腋の下から狙うスーツで隠されたサイレンサーに気付いたのか、小さく舌打ちをするとナイフをしまった。
「相変わらず食えない奴だよ。お前」
「食えたらとっくに死んでますよ」
「はは。違いねえ」
男はそう言うと、僕の隣へどかりと腰掛けた。
ウェーブがかったダークブラウンの髪がふわりと揺れる。
「なぁ、さっき一緒にいた女、何者?」
「何者とは?」
「惚けんなよ。一緒に察から出て来ただろ?何?まさかお前の女?」
僕はこれ見よがしに深いため息をつくと、サイレンサーをしまった。
「そんなんじゃありませんよ」
「へー。じゃあ情報屋だ」
「お好きなように捉えて下さい」
「なー、俺にも教えてくれよ?ただとは言わないからさ、お前も例の件で来たんだろ?」
「・・まだ、何も分かってないですよ。それより、すでに人を殺しましたね?警察が、それも公安が動いてますよ?」
「あー。こっち来てから適当に技術者バラしたんだけどラチがあかないからさ。察に目付ける事にしたわけ。にしても、あの女、ただの事務職かと思ったけど、ふーん。公安なんだ。いいポジションにいるじゃん。それにいい女だし」
僕は自分の軽薄さに、思わず舌打ちしそうになった。
「彼女に手を出したら殺します」
思いのほか低い声が出て、自信でも少し意外に思った。どうやら、思ってる以上に彼女を気に入ってるのかもしれない。
「はは。何だよやっぱりお前の女かよ。じゃあ、飽きたら次譲ってよ。出来れば生きてる状態で欲しいんだけど?」
「彼女に利用価値がなくなったら、どうぞ?それまでは僕の獲物に手を出さないで欲しいですね」
この男に渡すくらいなら、自分が殺す。
冷たくなった彼女を想像して、死体ですら渡したくないと言う妙な独占欲に、思わず苦笑がもれる。
本当に、自分の感情も少し斜め上を歩き始めているようで、始末が悪い。
男は満足したのか、おもむろに立ち上がると
「じゃーな、シュヴィン。またそのうち、な」
そう言って、足音も立てずに去っていった。
男が見えなくなるのを横目で意識しつつ、僕は何度目かのため息をついた。
本当に、自分で想定外の事ばかりだ。
彼女に警告する義理もなければ、あの男に脅しをかける筋合いもない。
僕以外の男に目をつけられて、殺されてもそれは運が悪かっただけ。職業が悪かっただけ。のはずなのに、どうやら僕はそれが気に入らないらしい。
「やれやれ、居候代が高くつきそうですね」
それでも・・・
『ご馳走さま』そう言って笑顔を浮かべる彼女を思い出し、まぁ、高くつく居候代も悪くない気分だと思ってしまう自分は、どこかが少しおかしくなったのだろう。
「それも、後三ヶ月間の話ですがね」
そう言って立ち上がると、僕は彼女の帰るマンションへと、足を歩めた。