捨てられ女ですが、人生はやり直しません。~天使様が25年前に戻してくれるそうですがお断りしようと思います~
リズ・アベラール、50歳。
このたびお城勤めの文官職を辞し、ただのリズになりました。
退職金で買った町はずれの一軒家は、一人暮らしには余裕がある広さで、寝に帰るだけだったこれまでの部屋とは何もかもが違って充実している。
朝起きて顔を洗うと、鏡に映るのは久しぶりにゆっくり眠った自分の顏。白髪交じりの金髪を後ろで一つに結い、昨日買ってきた人気店のパンとサラダを皿に載せ、丁寧に裏ごししたスープと一緒に、食材の味を楽しみながらのんびりと食事をする。
11月20日。
25年前のこの日、私は人生に一つの区切りをつけた。
まさか、仕事を辞めて再出発する日までもこの日になるなんて。なんだか妙な縁を感じていた。
食器を片付けた私は、陽が高くなる前に買い物へ行こうと決める。
ところが、出かけるために上質なワンピースに着替えたとき、玄関の扉をノックする音が聞こえてきた。
誰かしら?
もしかして、寮や職場に何か忘れ物でもした?
朝から強盗は来ないだろう。
私は油断しきって、扉を開いた。
「はい、どちらさま────」
「どうも!」
「!?」
そこにいたのは、まるで人形のように均整のとれた顔立ちの青年。
水色の髪に紺色の瞳、人懐っこい笑顔を浮かべた若者が立っていた。
「間に合っています」
──バタンッ!
即座に扉を閉めた。
これはきっと、一人暮らしの独身女性を狙う詐欺に違いない。
高給取りだった城勤めの女性を狙い、幸せになれる石や疲れが取れる寝具などを売りつける輩がいると聞いている。
「ちょっとー!!お姉さん!!いきなり閉めるって酷いよ!!」
扉の向こうで何やら青年が叫んでいるが、怪しい美形を家に入れてもいいことなど絶対にない。
ドンドンと扉を叩く青年を無視して、私は鍵をかけて扉から離れた。
それなのに。
「もう、せっかく当選したのに!」
「え……?」
外にいるはずの青年が、瞬きをする一瞬の間に部屋の中にいた。
扉に背を預け、こちらを見て呆れたような顔つきで見ている。
「どうして!?鍵は!?」
「そんなの意味ないからさ、僕らの前では」
青年がもたれている扉は、確かに鍵がかかったままで、私は険しい顔になる。
なんで、どうして!?
この人は一体何なの!?
動揺して後ずさる私に向かって、彼は右手をすっと翳す。
「さぁ、いこうか」
「は!?」
ぶわっと温かい風が吹き荒れ、私は堪らず顔の前で両腕を交差し、ぎゅっと目を瞑る。
ぐらりと眩暈が起こり、転ぶまいと必死で足をふんばった。
「はい、とうちゃーーく」
「??」
青年の呑気な声が響いた頃、そっと目を開けて腕を下ろすとそこは私が昔住んでいた寮の部屋だった。窓辺にある濃茶色の木の机、色褪せた花柄のカーテンが風に揺れている。
「え……?」
恐る恐る周囲を見回すと、どれを見ても私はそれらを「知っている」と思った。
「どう?25年前に戻った感想は?」
「25年、ま……え?」
そんなことを言われても、すぐには信じられない。
混乱した私が右手でくしゃりと髪を掴むと、その違和感にはっとした。
私は髪を結んでいたはず。
一束掴んでみると、それは白髪のまったくないなめらかな金の髪だった。
「嘘」
私は慌てて洗面台へと走る。青年が満足げな顔でこちらを見ていたが、彼を構う余裕などない。
軋む床。洗面台の前まで走っていった私は、鏡に映る自分の姿を見て衝撃を受けた。
「──っ!!」
そこには、化粧をしていないのにシワもシミもない、肌艶のよい私がいた。
震える手で頬に触れても、確かに指が触れた感触がある。
「気に入ってくれた?25歳の君はそんな姿だったんだね」
「どういうこと?あなた一体……」
部屋に戻ると、青年はベッドに腰かけて長い足を組んでいた。
にこにことしていて、楽しそうな雰囲気だ。
私がこんなに動揺して混乱しているのに、どうして彼は笑っているのだろう。
わけがわからず、彼の真正面に立って改めて尋ねる。
「あなたは誰なの?何をしたの?」
青年は、その見た目よりも幼く見える表情で私に笑いかけて言った。
「天使だよ」
「は?」
「君が長年まじめにがんばってきたから、神様がご褒美をあげたいって。それで、僕が遣わされたんだ」
「……」
「あれ?信じてない?でもその姿を見たらわかるでしょう?君は50歳のリズじゃない。25年前に戻って来たんだ」
「25年前に」
身体が若返っていて、部屋も確かに昔住んでいた場所そのものだ。
信じられないけれど、信じるしかないような状況に私は置かれていた。
「リズ、なんで25年前に戻したかわからない?」
青年は、こてんと首を傾げて問いかける。
ここで私は、真剣に今がいつなのかを考えた。
「25年前の、11月20日……、なの?」
「そうだよ」
彼は口角を上げた。
私の答えに満足がいった、という風に見える。
「今、何時?」
慌てて時計を見る。
狭い部屋には合わない大きめの柱時計は、朝7時を指していた。
頭の中で25年前の出来事が交錯する。
心臓がばくばくと鳴り始め、震える声で呟いた。
「まだ、間に合う……?」
25年前の今日は、特別な日だった。
青年はすべてお見通しという顔で告げた。
「走れば間に合うよ。彼は五番の船に乗る」
迷っている時間はなかった。
私は何も持たず、部屋から飛び出す。
廊下に出ると、同僚のジューンに出くわした。
血相を変えて走る私を見て、彼女は驚く。
「どうしたの!?どこ行くの?」
「ごめんなさい!上長に今日休むって言って!本当にごめんなさい!」
言い終わる前に階段を駆け下り、一目散に港を目指す。
25年前、私は意地を張って仕事へ行った。
仕事で隣国へ行ってしまう彼の見送りをしないで。
「間に合って……!」
すれ違う人が不思議そうな顔で私を見ている。
けれど、そんなことはどうでもいい。
ただ必死に走り続けた。
「恋人を追って人生をやり直す。感動の瞬間だね!」
いつのまにか隣を走っていた青年が、楽しげにそう話しかけてくる。
私は何も答えなかった。
港に着いた私は、青年が教えてくれたように五番の船を探す。
月に一度しかない定期船。
巨大な船は数百人が乗れるような目立つ大きさだ。
「いた……!」
今まさに、船に乗り込もうとしている彼。
「待って!ロラン!」
限界まで走ったことで、全身が悲鳴を上げている。
苦しくて仕方がないのに、彼を見つけたら今までにないくらいの大声が出た。
「リズ!?」
呼びかけが届き、彼は驚いた顏で私を見る。
はぁはぁと荒い息で近づいた私は、見送り客でにぎわう乗り場で彼と対面した。
「来てくれたのか……?」
出会った頃と変わらない優しい眼差し。
一緒に行けない、そう告げた私に対しても彼は最後まで態度を変えなかった。
「私、あなたにどうしても言いたいことがあって」
25年前、一緒に行かなかったことを後悔したことはない。
彼のことは大好きだったけれど、仕事を捨てて一緒には行くことはできなかった。
「私を好きになってくれて、本当にありがとう。人生で、あなたのことが一番好きだったわ」
25年間、ずっと好きだった。
彼が誰かと結婚したとか、どうしているとか、怖くて確認することはなかったけれど、それでもずっと好きだった。
「どうか幸せになってください……!」
人生をやり直したいと思ったことはない。
でも、これだけは伝えたかった。
彼は驚いて目を丸くしていた。
それからしばらくして、いつものように優しく笑ってくれた。
「ありがとう。リズも元気で」
ボロボロ涙を零す私は、まともに返事ができず、何度も何度も頷く。
「さようなら、リズ」
彼はそう言うと、手を振って船に乗り込んでいった。
滲む視界を何度も手で拭い、私は彼の姿を記憶に焼き付けようとする。
船が出航し、周囲にいた見送りの人たちもすっかり帰った後、気づけば隣にいた青年が不満げな声で言った。
「どうして一緒に行かなかったの?せっかく時間を戻してあげたのに」
私は青年を見て、笑って答える。
「行かないわ。自分でそう決めたの」
この青年には理解できないのかもしれない。
わかってほしいとも思わないけれど、小さく小さくなった船を見ながら私は言った。
「私の25年間は、自分で選んで決めて歩いて来た人生だったの。なかったことにはしたくないわ。彼との別れはとてもつらいものだったけれど、心残りは見送りに行けなかったことだけよ」
「え~。今なら僕の力で、このまま25歳として人生を生き直せるのに?それでも50歳の方がいいって言うの?」
納得できない。青年のその反応を見て私はまた笑った。
「ふふっ、そりゃあ彼と別れた直後は『捨てられた女』とか『鋼の精神』とか色々と言われたけれど、それでも私は不幸でもなんでもなかったわ。やりがいのある仕事をして、かわいい姪や甥もいて、あなたが思うよりずっと幸せなのよ?だからね、50歳の私でこれからの残りの人生を生きたいの」
「別に、リズがそれでいいなら僕はいいけれど」
唇を尖らせる青年は、はぁと大きめのため息をついてまた私に右手を翳す。
「僕らは天使なのに、これじゃ仕事失敗だよ」
「そんなことないわ。おかげさまで、彼にきちんとお別れを言うことができたもの。本当にありがとう」
青年は、最後まで不服そうだった。
温かい風が周囲に吹き荒れ、今度は穏やかな気持ちで目を閉じる。
「は~い、戻ってきました!」
目を開けると、そこは確かに先日から住み始めた一軒家だった。
リビングにある花瓶には、昨日飾ったガーベラがいきいきと咲いている。
「ありがとう」
「せっかく神様がご褒美くれるっていうのに……」
「お茶でもどうかしら?天使ってお茶を飲むのか知らないけれど」
そう言いながらキッチンへ移動した私は、ポットを掴む自分の手を見て「50歳の手だわ」とふと思った。
たとえ夢でも、幻でも、いい時間を過ごさせてもらった。
胸のつかえがとれたような、そんな清々しい気分だった。
「あのさ、砂糖ある?甘いのが好きなんだ」
キッチンにひょっこり顔を出した青年は、どうやらお茶を飲んでくれるらしい。
「あるわよ。アップルパイもあるけれど、それもいかが?」
同僚がくれた残り物だけれど、と付け加えながら、皿とナイフを用意する。
ところがそのとき、玄関の扉が控えめにノックされる音が聞こえてきた。
「誰かしら?」
青年と顔を見合わせる。
「ほかにも天使がいるの?」
「いるけれど……。あ、もしかして僕が失敗したから違うやつが来たのかも」
「えええ、私は別に、もういいのに」
困るわ。
そっとしておいてくれないかしら。
そう思いながらノブに手をかけ、開口一番断り文句を口にする。
「あの、もう間に合ってるので」
「え……?」
扉を開けると、そこには上質のジャケットとシャツを着た男性がいた。
目線を上にずらすと、そこには目元のシワが優しそうな、懐かしい顔がある。
驚きで目を瞠る私に、彼は困ったように笑って言った。
「久しぶり」
「…………」
昔より低くなった声。白髪交じりの髪は、私と同じだけの年月を重ねてきたんだとわかる。
「どうして」
一緒に行かなかった私を、25年も経ってから訪ねてくる意味がわからなかった。
私にとってはついさっきの出来事で、そのせいで激しく動揺してしまう。
「先月、こっちに戻って来たんだ。君が言った言葉がずっと引っかかっていて、それでこうして会いに来たんだけれど」
「私が言った、こと?」
「25年前の今日、君は『幸せになってください』って言ったんだよ」
「あ……」
どういうことだろう。
私は確かに「さっき」そう言ったけれど、あれが過去の事実になったっていうこと?
呆気に取られる私を見て、彼は言った。
「だから、幸せになりに来たんだけれど…………。どうだろうか?」
幸せに。
それは、私と一緒に?
彼はしばらくの間、黙り込んでいた。
じっと見つめていると、少し緊張感を滲ませていることに気づく。
冗談でも何でもなく、本気なのだと伝わってきた。
私は何も言うことができず、彼に抱き着く。
ついさっき別れた彼が、永遠に離れ離れになったはずの彼が、目の前にいる。
ただし込み上げてくる想いは25年分で、喜びも悲しみも、寂しさも、何もかもが一気に溢れてどうすることもできなかった。
随分と長い時間が経ってしまったけれど、今からでも人生をやり直せるのではと思えた。
彼の腕の中で涙を流していると、後ろから突如として声がかかる。
「ねぇ、砂糖がなくなったけどまだある~?」
「「!?」」
しまった。
家の中にこの子がいたのを忘れていた。
彼は青年を見て、呆然としている。
「き、君の息子さん、かな……?」
「わぁぁぁぁ!違う違う違う!!」
この子のことを、一体どう説明すればいいのやら。
気ままな天使様は、勝手に開けたジャムの中身をスプーンですくって食べ始めていた。