違和感【1】
「帰りがよく遅くなるから」とハクが気を遣うので、マツリは時間が合えばハクと共に夕食を摂り、しばし今で語らう。二人の関係からしたら大きな一歩を踏み出したかのように見えた。
マツリは湯飲みを両手で持ち、ぼんやりと静かにハクを見つめた。ハクは居心地が悪そうにチラリとマツリを気にしてたじろいだ。
「あの、何か…?」
平和だ。そして普通だ。
こんなに穏やかに過ごせるのにどうして自分たちは今まで必要以上の距離を置いていたのか。マツリはいくら考えてもそれっぽい答えに辿り着くことはできなかった。
マツリはもう知っている。ハクの儚くて穏やかな皮の下に、混沌とした非常に濃度の高い感情が渦巻いていることを。マツリが今まで出会ったことのない人間であることを。よってきっとマツリの思いもつかない理由を持っているはずだ、と予想していた。
マツリの不動の視線を受けながら、ハクは躊躇いながら口を開いた。
「あの…」
ざわざわと人の声が響く。シャンデリアと、たゆんだひだが美しいカーテン。天井は高く、花や鳥を模った彫刻が施されている。人々は一張羅に身を包み、見栄と美しさを競い合う。ざわめく声は、ある人物の登場によってピタリと止んだ。
「皆様方、我が松葉財閥の創設記念パーティにお越しいただき、感謝いたします。これからのますますの皆様のご多幸と、我が一族の繁栄を祈願して」
(錚々たる顔ぶれだわ)
マツリは義父のスピーチを聞きながら松葉一族の一団の隅に佇んでいた。右隣にはハク。左隣には義母。義母はハクと会話を交えながらやって来たマツリを見て大層嬉しそうにした。それからずっとご機嫌だ。
あの夜、ハクがマツリに申し出たのは一年に一度の松葉財閥の創設記念パーティへの参加だった。マツリは素直に首を縦に振った。そんな大事なものに参加しないわけにはいかない、そしてみっともない恰好で出るわけにはいかない。参加者の様子をハクや白田から聞き出して、気張って見繕った着物を用意した。
案の定、松葉の名を背負う人々は勿論、招待客は皆上等な装いだった。マツリでさえ顔と名前を知っているような政治家、富豪の類もちらほらと見える。マツリは気が付いて息を飲んだ。
義父のスピーチが終わり、乾杯の発声も済むと会場の空気は綻び、皆歓談を始める。
「マツリちゃん、今日は来てくれてありがとう。松葉方の人ばかりだから、私も少し息苦しいのよね」
誰にでも柔らかく微笑み、見事な社交術を披露していた義母はマツリの耳元でこそこそと悪戯っ気を含んで笑った。マツリは、義母が自分の緊張を察したのだろうと思った。いつものように親しく返したいが、笑顔を作ろうにもぎこちない。
来てからというもの、「松葉の子息の妻」としてハクと連れ立ち見知らぬ色々な人に挨拶をした。ほとんどハクの影だったが、えらいところに来てしまったとマツリは始終緊張の糸を張りっぱなしだった。
「お義母様」と義母に縋るように声をかけたが、義母はすぐに誰かに呼ばれてしまった。場にはハクとマツリが残された。ハクは正装にも慣れた様子で余裕さえ窺える。ハクはいつになく落ち着かないマツリを心配そうに見ていた。
「マツリさん、大丈夫ですか」
「な、なんとか。いや逆にお聞きしますわ。私、大丈夫です?お目汚しなのは承知しておりますが」
煌びやかな人々の中、マツリは自分のことを場違いと思っていた。しかしハクは憤慨した様子で、マツリの顔を覗きこんだ。マツリは思わず、わずかに身を仰け反らせる。
「お目汚しなどと。そんなこと、あるはずがない。私は貴女を妻として紹介出来てこの上ない喜びでした」
そんな世辞は要りません、と言おうと思い、マツリはハクに向かって目を細めたが、ハクは至って真面目な顔をしていた。むしろ、マツリがハクの言葉を信じていないということを表情から読み取ったらしく、若干ムッとした様子だった。
貴女がどれ程素敵で、とハクの流暢な語りが始まり、マツリは心の底から「しまった」と思った。ハクはマツリに吐息がかかるほど顔を寄せて、声を低くして語り掛ける。
「今日の貴女の御髪から香る香油の匂いが誰よりもどれよりも芳しいかお分かりではありませんか。立てば芍薬歩けば牡丹とは申しますがまさに今日の貴女は花も恥じらうような美しさ。いえ失礼いつも天女か女神かと見違うお姿ではありますが」
どこで息継ぎをしているのか、ハクは切れ目なく言葉を紡ぐ。マツリは背筋がゾゾっと寒くなる一方、同時に羞恥で顔が熱くなる。誰かに聞かれたら一体どうしてくれるのだ、と思った瞬間、他所からハクを呼ぶ声がして、マツリはドキリと心臓が跳ねた。
声の主は先に挨拶した、ハクの知り合いだった。ハクはひっそりとため息をつくと、マツリのことをジトリと一瞥した。すぐに戻ります、と謝って、ハクは男の方へと足を向けた。マツリは大きく息をつくと、会場をぐるりと見回す。
(当然だけど、招待客に知り合いもいないし。お義母様やお義父様は色んな人のお相手でお忙しいし…)
マツリはすすすと壁の隅に移動した。窓の外を眺めると、外の空気が恋しくなった。少しばかり席を外しても差し障りなかろうと、マツリは何気ない顔で会場を出た。
招待客や屋敷の者の目を盗んでマツリは屋敷の外に出た。街中であるのに、門から玄関までは木々が並び、よく手入れされた花壇が道を挟んでいた。ここに立っていると、屋敷や街の喧騒から切り離されたような錯覚を覚える。
さわさわと風に揺れながら木漏れ日をこぼす木々を眺めながら、何とはなしに門までの道を辿っていると、マツリは門の前に立つ人影に気が付いた。警護や取次のための屋敷の者は辺りに見当たらない。
立っている人は綺麗な黒髪をハーフアップにしており、マツリよりもいくらか年上に見える女性だった。見れば何か風呂敷を抱えて、困った様に眉を下げている。マツリは門へと足を向けた。
女性はマツリを見つけると、安堵したように微笑んだ。
「ごめんくださいまし。どなたも見当たらないものですからどうしようかと」
「失礼いたしました。ええと…」
「あ、私客ではございませんの。ただ、松葉のお家の記念日なのでお祝いの品をお持ちした次第です」
マツリは女性が差し出す包みを、戸惑いながら受け取った。
(私が受け取ってもいいのかしら…)
「あ、あのどなたかお呼びして」
「いいえ、お気遣いなく。ハク坊ちゃんのお嫁さんでしょう?」
「え」
もしかしてどこかで会ったことがあるのだろうか。マツリは失礼を働いたのではとギクリとした。しかし女性は気にする様子は無く、にこにこと笑って踵を返した。
「私、『長野谷』の者です。では、よろしくお願いいたします」
マツリは呆気に取られて女性の背中を見送った。
(長野谷…長野谷…)
名乗られた名前に聞き覚えがある。マツリは「あ!」と声を上げた。
(何てこと…お義母様の旧姓だわ!!!)
―ということは。
嫁いだ先の記念の日に、実家が祝いの品を持ってきた。マツリは顔が青くなった。
(ハク様ったら…!いらないっておっしゃったのに…!)
マツリは手に渡された包みを抱え、速足で屋敷まで戻った。義母の実家がこうして差し入れをしているというのに、自分はハクの言葉を真に受けて何も用意させなかった。大失態だ。申し訳なさと、恥ずかしさでマツリは顔から火が出そうだった。
「マツリさん!」
「奥様!」
広間への廊下に差し掛かると、ハクと白田がマツリを探していた。マツリは逸る気持ちで二人に駆け寄った。
「申し訳ありません!」
突然の謝罪にハクと白田は鼻白んだ。マツリは頭を下げたまま、先程受け取った包みをまっすぐ差し出した。
「これ、先ほど長野谷の方が持ってみえました。お祝いの品だそうです。…すみません、須屋から何もご用意できていなくて…」
ハクと白田は、マツリの持つ包みを見て言葉を呑んだ。
「あの…この度は本当に失礼を…」
「奥様、いーんです。そういうのやっていたらね、キリがないから無しでいいってご当主からのお達しですから」
白田はマツリの手から包みをひょいと受け取った。ハクは変わらず難しい顔をしており、白田はハクの背中をトンと後ろから叩いた。ハクはハッとして、マツリに柔らかく微笑んだ。
「いただいてしまったからには頂戴しますが、貴女は本当にお気になさる必要はないのですよ」
「そうですそうです。ちなみに奥様、これは長野谷のどなたが?」
「あ、すみません。お名前は名乗られなくて…お美しい黒髪で、頭半分で下ろしていらして…目の大きな綺麗な方でした。私よりも少しお姉さんかと思いますが…」
「ヒナノ様ですね」
「ああ…」
「こちらは、私からご当主へお渡しします。奥様、お手を煩わせて申し訳ありませんでした」
半ば強引に話をまとめ、白田は包みを持ってそそくさと立ち去った。残されたマツリはハクに優しく促されてパーティの会場へと戻った。
マツリは大人しく従い、つつがなくその日を過ごしたが、あのときの二人の柔らかい表情の下には何かが隠されているような気がしてならず、ずっと胸の中でモヤモヤが燻っていた。
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